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第三十三話 分からないから、戻ります。分からないまま、ここで決められるのは嫌です

 その夜、水無瀬家では、女中たちの足音がいつもより少し慌ただしかった。


 菊乃は障子の陰で、それを聞いた。

 黒川家から使いが来て、宗親が奥で話しているらしい。


 廊下に出ると、若い女中が盆を持って歩いていた。

 菊乃に気づき、慌てて頭を下げる。


「何かありましたの」


「いえ、その」


「言いなさい」


 女中は困った顔をした。


「黒川様のところから、浅草の小屋についてお話が」


 菊乃の指が、赤鉛筆を握った。


「駒形座?」


「名前は存じません。ただ、隣の土地がどうとか、火の用心がどうとか」


 女中は言ってから、しまったという顔をした。


 菊乃はもう聞いていなかった。


 駒形座の裏口。

 舞台袖。

 古い木の匂い。

 あの場所に火の用心だの土地だのという紙が入り込んでくる。


 黒川は、やはり動いた。


 菊乃は部屋へ戻った。


 荷物を見た。

 水無瀬家に戻った時のまま、まだきちんと解いてはいない。


 逃げるなら、今しかない。


 戦略的撤退ですわ。


 自分でつぶやいて、苦笑した。


 今度は撤退ではない。

 戻るのだ。


 いや、戻ると言ってよいのか。

 水無瀬家から見れば逃亡で、浅草から見れば帰還で、菊乃自身から見れば、ただ足がそちらを向いただけだった。


 菊乃は必要なものだけを風呂敷に包んだ。


 衣装一枚。

 扇。

 少しの金。

 折れた赤鉛筆。


 最後のものは不要だった。

 だが入れた。


 高貴な無駄である。


 部屋を出ようとしたところで、宗親が廊下に立っていた。


「どこへ行く」


 菊乃は足を止めた。


「浅草へ」


「ならぬ」


「叔父様」


「戻れば、黒川家との話は難しくなる。水無瀬家がどうなるか、分かっているのか」


「分かりません」


 宗親の顔が険しくなる。


 菊乃は続けた。


「分からないから、戻ります。分からないまま、ここで決められるのは嫌です」


「浅草の小屋一つのために」


「小屋一つではありません」


「では何だ」


 菊乃は考えた。


 駒形座とは何か。


 家ではない。

 安全でもない。

 格式もない。

 金もない。

 明日も危うい。

 なのに、そこへ戻ろうとしている。


「わたくしが、笑われる場所です」


 宗親は眉をひそめた。


「何を」


「でも、笑いもので終わらずに済む場所です」


 菊乃の声は静かだった。


「水無瀬家では、わたくしは家名の娘です。黒川家では、おそらく名のついた妻です。でも駒形座では、水無瀬菊乃です。下手で、見栄っ張りで、よく怒って、時々客を笑わせる女です」


「それが誇りか」


「まだ分かりません」


「またそれか」


「ええ。でも、分からないものを、自分で確かめたいのです」


 宗親は、しばらく菊乃を見ていた。


 その目に、怒りだけではないものが少し混じった。

 疲れか、失望か、あるいは菊乃には分からない何か。


「お前は、帰ってこられなくなるぞ」


 菊乃は少しだけ笑った。


「わたくし、戻るのは得意ですの」


 宗親は何も言わなかった。


 菊乃は頭を下げた。


「行ってまいります」


 返事はなかった。


 それでも、宗親は止めなかった。

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