第三十四話 浅草という場所は、交通費まで不作法ですわ
外へ出ると、夜気が冷たかった。
人力車を呼ぶ金は惜しい。
惜しいというより、意地でも使いたくなかった。
菊乃は歩いた。
足袋が汚れる。
裾が少し乱れる。
夜の道は、華族家の娘が一人で歩くには上品ではなかった。
だが菊乃には、不思議と怖さより腹立たしさが勝っていた。
「まったく」
小さく言う。
「浅草という場所は、交通費まで不作法ですわ」
歩きながら、慎吾の顔を思い出す。
帰ればいい。
餌くらいは出る。
腹立たしい。
あの男には、まず文句を言わねばならない。
それから、黒川の紙の話をする。
それから、駒形座の裏口の話をする。
それから。
それから、何を言うのか。
菊乃は分からなかった。
ただ、足は止まらなかった。
駒形座の裏口には、明かりが残っていた。
夜遅い。
それでも楽屋の中から声がする。
銀次の声、小鈴の声、小春の小さな笑い。松之助の咳。おえんの低い声。
そして、慎吾の声。
菊乃は戸の前で少し立ち止まった。
戻るのは、逃げるより疲れる。
慎吾の言葉が浮かぶ。
その通りだった。
疲れる。
腹が立つ。
足も痛い。
だから、戸を開けた。
楽屋の全員が振り向いた。
最初に声を上げたのは小春だった。
「菊乃さん!」
小春が走ってくる。
菊乃は荷物を抱えたまま、どうにか受け止めた。
「おやめなさい。着物が乱れます」
「戻ってきた!」
「見れば分かります」
小春は泣きそうに笑った。
銀次が大きく息を吐いた。
「菊乃さん、遅いですよ」
「歩いてきたのです。文句は浅草の地理におっしゃい」
小鈴が近づいて、菊乃の裾を見た。
「足袋、泥だらけ」
「高貴な泥ですわ」
「意味分からないけど、菊乃さんっぽい」
松之助は何も言わず、少し笑った。
おえんが腕を組んで言う。
「よく戻ったね」
「戻らざるを得ませんでしたの。こちらの方が、どうも騒がしいので」
菊乃は楽屋の奥を見た。
慎吾は机に座っていた。
台本が開いてある。赤鉛筆がその上に置かれている。
彼は立たなかった。
ただ、菊乃を見て言った。
「遅い」
菊乃は一歩、慎吾へ近づいた。
「迎えにも来なかった方が、よく言えますわね」
「お前は戻る」
「ずいぶん勝手に信じてくださったのね」
「俺が行くと、逃げ道が増える」
「都合のよろしい理屈ですこと」
「理屈は都合よく使うものだ」
菊乃は扇を出そうとして、荷物を持っていることに気づいた。
仕方なく、顎だけ上げた。
「まず、あなたには苦情があります」
「多いだろうな。整理して言え」
「一つ目。家名つきの鳥籠などと、よくも言ってくださいましたわね」
「事実だ」
「二つ目。餌くらいは出る、ですって?」
「出ただろ」
「味がいたしませんでした」
「それは俺の責任じゃない」
「三つ目」
菊乃は少しだけ声を落とした。
「駒形座が危ないです」
慎吾の顔から、わずかな緩みが消えた。
「知ってる」
「黒川家が隣地を押さえ、裏口と搬入口を塞ぐつもりです。火の用心を名目に、劇場使用へ難癖をつける」
「そこまで聞いたか」
「水無瀬家で」
「よく盗み聞きできたな」
「聞こえたのです」
「同じだ」
「高貴な聴取です」
慎吾は少しだけ笑った。
それから、机の上の台本を菊乃へ差し出した。
「お前の台詞は残してある」
菊乃は受け取った。
頁の途中に、赤鉛筆で線が引かれている。
菊乃の出番だった。
消されていない。
それを見た瞬間、胸の奥が変に詰まった。
「……なぜ残しましたの」
「消すと、書き直しが面倒だった」
「嘘ですわ」
「嘘じゃない。お前がいない台本は書きやすい。書きやすいが、つまらん」
楽屋が静かになった。
銀次が小声で「うわ」と言い、小鈴に足を踏まれた。
菊乃は台本を抱えた。
「それは、わたくしが必要ということですの?」
慎吾は顔をしかめた。
「下品に要約するな」
「では何ですの」
「苦情だ。お前のせいで、俺の台本が不便になった」
菊乃は、少しだけ笑った。
笑うと負けだ。
そう思ったが、もう遅かった。
「では、その苦情、受け取っておきますわ」
「返せ」
「領収書を切りましたので」
「またか」
「ええ」
菊乃は台本を開いた。
「明日の舞台、出ます」
「分かってる」
「黒川様が何をしているのか、客の前で笑いに変えてやります」
「まだ早い。直接刺すな。まず匂わせる」
「あなた、本当に性格が悪いですわね」
「作戦だ」
「では、わたくしも作戦を」
「雑な作戦は禁止だ」
「失礼ですわ」
「前科がある」
銀次が手を上げた。
「兄さん、俺は何をすれば」
「台詞を覚えろ」
「そればっかり!」
小鈴が笑った。
「私は?」
「怒れ。黒川みたいな客にも分かるように、いつもの二割増しで」
「三割じゃないんですか」
「今日は二割でいい。水無瀬がうるさい」
「わたくしを騒音の単位にしないでくださる?」
小春が菊乃の袖を引いた。
「菊乃さん、帰らない?」
菊乃は小春を見た。
帰る。
戻る。
逃げる。
言葉は似ているのに、向きが違う。
「今夜は帰りません」
「明日は?」
「明日も、たぶん」
「たぶん?」
「予定には高貴な余白が必要ですわ」
小春はよく分からない顔をしたが、安心したように笑った。
おえんが奥から茶を持ってきた。
「ほら、まず飲みな。歩いてきたんだろ」
「ありがとうございます」
菊乃は湯呑みを受け取った。
茶は熱かった。
水無瀬家の茶より、少し渋い。
だが、味がした。
慎吾が言った。
「水無瀬」
「何ですの」
「足袋を替えろ。明日、舞台で泥を落とす気か」
「あなたは、本当に情緒のない方ですわね」
「情緒で床は拭けない」
「今、もう少し言うべきことがありましたでしょう」
「ある」
菊乃は少し息を止めた。
慎吾は台本を指で叩いた。
「台詞を覚えろ」
「葉室さん!」
楽屋に笑いが起きた。
菊乃は怒った。
怒りながら、なぜかほっとしていた。
駒形座の畳は擦り切れている。
鏡は曇っている。
黒川の紙は迫っている。
水無瀬家の圧も、宗親の言葉も、何ひとつ消えてはいない。
それでも、ここでは声が出る。
笑える。
怒れる。
台詞を覚えろと罵られる。
菊乃は湯呑みを置き、台本を開いた。
「よろしいですわ」
慎吾が見る。
「何が」
「覚えて差し上げます。あなたの不便な台本を」
「偉そうだな」
「華族ですので」
「中身まで保証される制度じゃない」
「その制度批判、もう聞きました」
「覚えがいいな」
「台詞以外は?」
「台詞も覚えろ」
菊乃は笑った。
折れた赤鉛筆は、袂の中にある。
新しい赤鉛筆は、慎吾の手元にある。
古いものと新しいもの。
折れたものと、まだ書けるもの。
どちらも、今夜は駒形座に戻ってきた。
明日、何が書かれるのかは分からない。
だが菊乃は、もう逃げるためではなく、舞台へ出るために台本を開いた。




