第三十五話 見出しを急ぐ奴は、大抵つまらない
翌朝、駒形座の裏口に縄が張られていた。
張られていた、というより、張らせた跡があった。
夜のうちに誰かが来て、隣の空き地との境に杭を打ち、細い縄を渡していったのだ。
縄そのものは頼りない。
だが、そこに括られた札は妙に立派だった。
――関係者以外立入無用。
松之助はその札を見て、しばらく煙草も吸わなかった。
「関係者ってのは、誰の関係者だ」
銀次が縄をつつく。
「触るな」
慎吾が言った。
「呪われてるんですか」
「紙がついてる。呪いより厄介だ」
菊乃は札を見た。
白い紙に、黒い字。
実に整っていた。
整っている字は、人を閉め出す時にも妙に行儀がいい。
「黒川家ですのね」
「代理人の名がある」
慎吾は札を軽く見ただけで言った。
「浅草興業整理組合。名前だけ聞くと、掃除でもしてくれそうだな」
小鈴が顔をしかめる。
「これ、今日の公演は」
「やる」
慎吾は即答した。
松之助が振り返る。
「やるったって、裏口が塞がれたら道具が入らねえ。消防の件で文句をつけられたら」
「だから、やる」
慎吾は札を見て、少し笑った。
「止めたい時に、相手がわざわざ止めたい顔をしてくれるのは親切だ」
「親切には見えませんわね」
菊乃が言うと、慎吾は彼女を見た。
「花よりは分かりやすい」
「黒川様に聞かせたいお言葉ですこと」
「聞かせる」
慎吾はそう言って、裏口から離れた。
楽屋には、すでに妙な熱があった。
小春はいつもより早く来て、何度も自分の台詞を読んでいる。
銀次は大声で笑おうとして、声が裏返った。
小鈴は衣装の襟を直しながら、鏡の中の自分へ喧嘩を売るような目をしていた。
おえんは鍋を持ち込んで、誰も頼んでいない味噌汁を作っている。
相良も来た。
新聞屋は、こういう時だけ風より早い。
「来るなと言っただろ」
慎吾が言うと、相良は帽子を取った。
「言われたから来た」
「新聞屋は本当に性格が悪いな」
「君に言われると、少し誇らしい気持ちにすらなるね」
「誇るな。恥の置き場所を間違えてる」
相良は縄の札を見た。
「黒川家が動いたか」
「見れば分かる」
「記事になる」
「書くな」
「なぜ」
「まだ幕が開いてない。見出しを急ぐ奴は、大抵つまらない」
相良は手帳を閉じた。
「では、見届けよう」
「見るだけにしろ」
「俺は新聞屋だ。見るだけでは食えない」
「なら今日は腹を空かせて帰れ」
菊乃は二人のやり取りを横で聞きながら、胸の中が妙に落ち着いていくのを感じた。
怖くないわけではない。
黒川家。水無瀬宗親。駒形座の裏口。舞台の先にある客席。全部がこちらを見ている気がする。
だが、昨日の夜、水無瀬家から歩いて戻ってきた時よりは、足が自分のものになっていた。
「水無瀬」
慎吾が呼んだ。
「何ですの」
「今日の芝居、筋を変える」
「またですの?」
「黒川が来る」
菊乃は扇を止めた。
「本当に?」
「来ない理由がない。止めたい小屋が、止められるかどうかを見るのは楽しいだろうからな」
「悪趣味ですわ」
「金持ちの娯楽に品を期待するな」
慎吾は台本を一枚差し出した。
題は、墨でこう書かれていた。
――花婿殿は裏口から来る。
菊乃は眉を上げた。
「ずいぶん露骨では?」
「露骨なものを上品に見せるのが芸だ」
「あなたの場合、上品なものまで露骨にしますけれど」
「俺に上品な素材を渡すな。腐る」
菊乃は台本を開いた。
成金の花婿が、没落しかけた家の娘を迎えに来る。
だが彼が本当に欲しいのは娘ではなく、家の看板と、裏口の鍵と、隣の土地である。
娘は高慢に振る舞いながら、やがて花婿の靴についた泥から、彼がどの道を通ってきたかを見抜く。
ひどい話だった。
ひどいが、面白い。
「これは、黒川様に喧嘩を売っておりますわね」
「買う金はあるだろ」
「叔父様も来ますかしら」
「来る」
「なぜ分かりますの」
「水無瀬家の娘が、まだ自分の手の内にあるか確かめに来る。古い家の人間は、所有物の棚卸しが好きだ」
菊乃は台本を閉じた。
「葉室さん」
「何だ」
「今日のわたくしは、何をすればよろしいの」
慎吾は少しだけ考えた。
「逃げるな」
「それだけ?」
「それが一番難しい」
菊乃は返事をしなかった。
その通りだったからである。




