第三十六話 けれど残念ですわ。わたくし、値札の字が小さいものは読まない主義ですの
昼過ぎ、黒川栄之丞が来た。
予想していた通りだった。
予想していたのに、実際に楽屋口へ現れると、空気が少し重くなる。
黒川は今日も整っていた。
整いすぎていて、駒形座の乱れた畳の上では、かえって不自然に見えた。
その後ろに、水無瀬宗親がいた。
菊乃は息を止めた。
宗親は彼女の舞台衣裳を見て、ほんのわずかに眉を動かした。
それだけだった。
怒鳴らない。呆れた顔もしない。静かに見ている。
その静かさが、菊乃にはいちばん堪えた。
「菊乃」
「叔父様」
「戻らぬつもりか」
「今夜は舞台がありますので」
「その後は」
「幕が下りてから考えますわ」
宗親の目が冷える。
黒川が間に入るように微笑んだ。
「まずは拝見しましょう。今日は、特別な演目だそうですね」
慎吾が机から言った。
「耳が早いな。下水の蓋でも開けて歩いてるのか」
黒川は慎吾を見た。
「あなたの皮肉は、いつも少し湿っていますね」
「お前の花より長持ちする」
黒川は笑った。
「楽しみにしています」
「楽しむには、見る目が要る」
「努力しましょう」
「遅い」
松之助が、今にも胃を押さえそうな顔をしていた。
客は思ったより入った。
黒川家の動きが噂になったのか、相良がどこかへ匂わせたのか、あるいは単に駒形座が少しずつ知られ始めていたのか。
客席は七分ほど埋まっていた。
浅草の客は、騒ぎの匂いに敏い。
前の方に黒川が座った。
少し離れて宗親が座った。
後ろの隅に相良がいる。
おえんは立ち見の端で腕を組んでいた。
舞台の幕が上がる前、菊乃は袖に立っていた。
膝は震えていない。
ただ、手が少し冷たい。
慎吾が横に来た。
「水無瀬」
「何ですの」
「扇は開くな」
「またですの?」
「今日は震えてない。だから要らない」
菊乃は扇を見た。
「では、何を持てばよろしいの」
「間だ」
「間?」
「腹が立ったら、一呼吸置け。泣きそうになったら、二呼吸。逃げたくなったら、三呼吸」
「三呼吸で逃げずに済みますの?」
「無理なら、四つ数えろ」
「雑ですわね」
「呼吸に品を求めるな」
菊乃は少し笑った。
「葉室さん」
「何だ」
「もし今日、わたくしが台詞を飛ばしたら?」
「拾う」
「あなたが?」
「銀次だと落とす」
袖の向こうで銀次が「聞こえてます」と言った。
慎吾は続けた。
「お前は勝手に足す。俺は勝手に拾う。それでいい」
菊乃は慎吾を見た。
この男は、決定的なことを絶対に決定的には言わない。
それでも、今の言葉は菊乃の足元に小さな板を置いた。
渡れ、とは言わない。
ただ、そこに置く。
「では、勝手に足しますわ」
「ほどほどにしろ」
「それは無理です」
「知ってる」
幕が上がった。
芝居は軽く始まった。
銀次が扮する花婿は、成金らしい派手な羽織を着て、花束を抱えて登場した。客席が笑う。黒川の方を見る者もいる。黒川は笑っていた。宗親は笑っていない。
「お嬢様、お迎えに上がりました!」
銀次が大声で言う。
菊乃は舞台の奥から出た。
今日の彼女は、華やかな衣装ではない。
少し古いが上等な着物に、舞台用の派手さを一つだけ足している。
水無瀬家の娘と浅草の役者が、どちらも引かずに同居しているような姿だった。
「迎えに来るなら、まず玄関をお使いなさい」
客が笑う。
銀次が胸を張る。
「いえいえ、お嬢様。裏口の方が便利でして」
「便利な道ほど、後で高くつきますわ」
黒川の笑みが少し薄くなった。
舞台は進む。
花婿は、娘に花を贈る。
娘は花を褒める。
だが、その花の根元に、隣家の土がついていることに気づく。
花婿は娘を迎えに来たのではない。裏口の鍵を欲しがっている。
小鈴が長屋の女房役で、怒鳴り込む。
「あんた、娘を口説きに来たんじゃないね。この家の裏口を測りに来たんだろ」
客席が笑った。
笑いの中に、少しざわめきが混じる。
銀次が慌てたように言う。
「何をおっしゃる。私は純粋にお嬢様を」
小春が横から言う。
「じゃあ、どうして昨日から隣の空き地に杭が立ってるの?」
客席のざわめきが大きくなった。
慎吾は袖で静かに見ている。
菊乃は舞台の中央に立った。
ここから客席を見ると、黒川の顔も、宗親の顔も見える。
黒川はまだ笑っている。
宗親は、こちらを見ている。
逃げるな。
慎吾の声が、胸の奥で聞こえた。
菊乃は一呼吸置いた。
「花婿殿」
銀次が振り向く。
「はい、お嬢様」
「わたくしを迎えに来たとおっしゃいましたわね」
「もちろんでございます」
「では、なぜわたくしをご覧にならないの」
客席が静かになる。
菊乃は扇を開かなかった。
手は下ろしたまま、真っ直ぐ立った。
「あなたが見ているのは、わたくしの背後にある家の名です。わたくしの足元にある道です。わたくしが出入りする裏口です」
銀次が少し息を呑んだ。
台本にはない。
だが、銀次は踏みとどまった。
「お嬢様、それは誤解で」
「いいえ。誤解ではありませんわ。誤解なら、まだ可愛げがあります。あなたは、正確に値踏みしていらっしゃる」
客席の空気が変わった。
笑いが止まったわけではない。
笑いの手前で、客が待っている。
菊乃は、黒川を見ないようにした。
見なくても、そこにいることは分かる。
「家の名。娘の名。小屋の裏口。隣の土地。人の夢。子どもの芸。そういうものに、ひとつずつ値札をつけて、綺麗な花で包めば売れると思っていらっしゃる」
小鈴が舞台上で菊乃を見た。
小春も見ている。
慎吾は袖で動かない。
菊乃は、そこで少し笑った。
「けれど残念ですわ。わたくし、値札の字が小さいものは読まない主義ですの」
一拍。
客席が笑った。
笑いは、堰を切ったように広がった。
小鈴がすかさず続ける。
「お嬢様、字が大きければ読むんですか」
菊乃は顎を上げた。
「読みますわ。読んだ上で、破ります」
客が手を叩いた。
銀次が大げさに花束を抱え直す。
「では、お嬢様。私のこの真心は」
「根が腐っております」
さらに笑いが起きる。
舞台はそこから勢いづいた。
銀次は何度か台詞を飛ばしかけたが、小鈴が拾い、小春が刺し、菊乃が高笑いで押し切った。
客は笑った。
笑いながら、何を笑っているのか少しずつ分かっていくようだった。
黒川は、途中で一度だけ姿勢を変えた。
宗親は最後まで動かなかった。
芝居の終盤、花婿は裏口の鍵を手に入れようとして、長屋中に追い回される。最後に、娘が鍵を差し出す。
銀次が問う。
「よろしいのですか、お嬢様」
菊乃は鍵を持ち、客席を見た。
これは、台本にある最後の山だった。
慎吾が赤鉛筆で、何度も線を引いていた箇所である。
菊乃は言った。
「鍵とは、開けるためにあるものです。閉じ込めるためではございません」
客席が静まる。
「この裏口は、荷を運ぶためにあります。逃げるためにもあります。戻ってくるためにもあります。花婿殿、あなたに差し上げるには、少々働き者すぎますわ」
笑いが起きた。
銀次が膝をつく。
「では私は」
「表からお帰りなさい。二度と裏口を測らぬように」
小春が横から叫ぶ。
「杭も抜いてって!」
客席がどっと沸いた。
黒川の顔から、笑みが消えた。
幕が下りた時、拍手は大きかった。
菊乃は頭を下げた。
顔を上げる直前、宗親を見た。
宗親は拍手をしていなかった。
だが、帰ってもいなかった。




