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第三十七話 ええ。浅草仕込みですわ

 終演後、楽屋は熱を持っていた。


 銀次は自分がよく持ちこたえたと騒ぎ、小鈴は菊乃の台詞を「怖かった」と笑い、小春は「杭も抜いてって」が受けたと何度も言った。

 松之助は嬉しいのか胃が痛いのか分からない顔で、帳面を抱えていた。


 そこへ、黒川が来た。


 彼はまだ笑っていた。

 だが、笑いは少し硬い。


「見事でした」


 菊乃は礼をした。


「ありがとうございます」


「たいへん、示唆に富む芝居でした」


 慎吾が横から言った。


「理解できたなら上出来だ」


 黒川は慎吾を見た。


「葉室さん。あなたは本当に、人の顔に泥を塗るのがお上手だ」


「泥じゃない。お前の靴についてた土を、顔に戻しただけだ」


 黒川の目が冷えた。


「小屋を続けるには、現実も必要ですよ」


「知ってる。だから紙を読んだ」


 慎吾は机の上から、一枚の古い書付を出した。


 松之助が驚いた顔をする。


「葉室、それは」


「お前の帳面の底にあった。埃の下にな」


「勝手に見たのか」


「見ないと死ぬ紙もある」


 黒川が眉をひそめる。


「何です」


「古い取り決めだ。駒形座の裏口と隣地の通り抜けについてのな。先代の地主と小屋の間で、搬入と避難路として使う約束がある。日付は古いが、印は残ってる」


「そんなものが」


「そんなものが、あった」


 慎吾は書付を黒川へ見せずに、相良の方へ投げた。


 相良はいつの間にか楽屋口に立っていた。

 彼は受け取り、目を通した。


「なるほど」


 黒川の顔が強ばる。


「新聞屋まで呼んでいたのですか」


「来るなと言ったら来た」


 慎吾は平然と言った。


「新聞屋は嫌いだが、見る目が必要な時もある」


 相良は苦笑した。


「褒め言葉として受け取ろう」


「苦情だ」


「では、受け取る」


 黒川は声を低くした。


「古い書付一枚で、何が変わると?」


「すぐには何も変わらない」


 慎吾は答えた。


「だが、今日ここで公演ができた。客が見た。新聞屋が見た。お前が裏口を塞ぎたがってることも、火の用心を名目に小屋を締め上げたがってることも、笑い話になった」


「笑い話で商売は止まりません」


「止まらない。だが、やりにくくなる」


 慎吾は一歩近づいた。


「お前が欲しいのは、綺麗な整理だろ。華族家との縁。浅草の新しい興行場。古い小屋を潰した悪評は、邪魔だ」


 黒川は黙った。


「今日の芝居で、客はだいたい分かった。新聞にも載る。お前が今すぐ強引に動けば、花婿殿が裏口を盗みに来た話として残る」


 黒川の視線が相良へ向く。


 相良は手帳を閉じた。


「記事にするかどうかは、まだ決めていません」


「新聞屋の言う『まだ』は信用ならない」


 慎吾が言う。


 相良は肩をすくめた。


「否定はしない」


 黒川は菊乃へ視線を戻した。


「水無瀬さん。あなたは、本当にこちら側に立つのですね」


 こちら側。


 菊乃は、その言葉を聞いた。


 こちら側とは、どちらなのか。

 浅草か。駒形座か。慎吾か。笑われる側か。笑わせる側か。


 菊乃は、扇を開かなかった。


「わたくしは、水無瀬家の菊乃でございます」


 宗親が楽屋口に立っていた。


 菊乃は続けた。


「それは変わりません。家は傾き、財布は軽く、わたくしの芝居はまだ下手です。けれど、どこで笑われるかくらい、自分で選びます」


 宗親の顔が動いた。


 黒川は静かに言う。


「それは、水無瀬家との話を断るということですか」


「今日のところは、花婿殿に裏口の鍵を渡さないということです」


「芝居の台詞で逃げる」


「ええ。浅草仕込みですわ」


 慎吾が低く笑った。


 黒川は、しばらく菊乃を見ていた。

 やがて、帽子を手に取る。


「今日は引きましょう」


「杭は抜いていけ」


 慎吾が言った。


 黒川は足を止めた。


「……手配します」


「今すぐだ。客が帰る前にな」


 黒川は返事をしなかった。


 だが、楽屋を出ていく背中は、来た時より少し硬かった。


 宗親はまだ残っていた。


 菊乃は宗親に向き直る。


「叔父様」


 宗親は長い間、何も言わなかった。


 やがて、静かに言った。


「水無瀬の娘が、ずいぶん大きな声で笑われたものだ」


 菊乃は唇を結んだ。


 宗親は続けた。


「だが」


 その一語に、菊乃は顔を上げる。


「最後まで、声は通っていた」


 それは褒め言葉ではなかった。

 少なくとも、宗親にとっては違うのだろう。


 けれど菊乃には、そう聞こえた。


「……ありがとうございます」


「礼を言うな」


 宗親は顔を背けた。


「黒川家との話は、これで終わらぬ」


「存じております」


「水無瀬家の借財も消えぬ」


「それも」


「お前が浅草にいれば、さらに面倒になる」


 菊乃は少し笑った。


「面倒には慣れております」


 宗親の目が、慎吾の方へ一瞬だけ向いた。


「そのようだな」


 慎吾は知らん顔で赤鉛筆を削っている。


 宗親はため息に近い息を吐いた。


「今日は帰る」


 菊乃は頭を下げた。


 宗親は去り際に一度だけ、駒形座の舞台の方を見た。

 古い板、安い照明、笑い声の残った空気。


 その目に何があったのか、菊乃には分からなかった。


 夜が深くなってから、駒形座の裏口の縄は外された。


 銀次と小春が見に行き、小春が「本当に抜いてる」と叫んだ。客の何人かも残っていて、面白がって見ていた。相良はその光景をしっかり手帳に書いていた。


 慎吾は「書くな」と言った。


 相良は「考える」と言った。


 つまり書くだろう。


 楽屋がようやく静かになった頃、菊乃は舞台袖にいた。


 公演の熱が引いた後の舞台は、少し寂しい。

 拍手も笑いも、終われば木の匂いに戻る。だが、その木の中に少しだけ何かが染み込む気がした。


 慎吾が後ろから来た。


「水無瀬」


「何ですの」


「今日は余計に足しすぎた」


「受けましたわ」


「少しな」


「あなたの少しは、高値ですもの」


「安売りするな」


 菊乃は舞台を見た。


「黒川様は、また来るでしょうか」


「来る」


「駒形座は守れましたの?」


「今日のところはな」


「今日のところ」


「小屋は紙一枚で救われない。だが、紙一枚で潰されることもある。今日はその紙を一枚、向こうの喉に詰まらせただけだ」


「嫌な表現ですわね」


「実際、嫌な仕事だ」


 菊乃は少し黙った。


 それから、慎吾を見た。


「わたくしがいなくなれば、あなたの台本も少しは品よくなりますわ」


 慎吾は即座に言った。


「ああ。書きやすくなる」


 分かっていたのに、胸が少し痛んだ。


 菊乃は扇を開こうとした。

 だが、慎吾が続けた。


「書きやすくなるが、つまらなくなる」


 菊乃の手が止まった。


 慎吾は舞台を見ていた。


「お前のせいで、俺は面倒な台詞に慣れた。責任を取れ」


 菊乃は慎吾を見た。


「責任、ですの」


「そうだ。お前は俺の台本を不便にした。ついでに、俺の人生もだ」


 心臓が、一つ遅れて鳴った。


 菊乃は慎吾の顔を覗き込もうとした。

 慎吾は見られるのを嫌がるように、少し横を向く。


「それは、口説いておりますの?」


「違う。苦情だ」


 菊乃は、少しだけ笑った。


 泣きそうではなかった。

 ただ、笑うしかなかった。


「では、受け取っておきますわ。その苦情」


「返せ」


「領収書を切りました」


「何でも切るな」


「善行にも、調査にも、苦情にも必要ですもの」


 慎吾は深く息を吐いた。


「本当に面倒な女だ」


「高貴な面倒です」


 菊乃は袖から、折れた赤鉛筆を出した。


 慎吾が目を細める。


「まだ持ってたのか」


「捨てろと言われましたので」


「意味が分からん」


「あなたの教育の成果です」


 菊乃はそれを、慎吾へ差し出した。


「返します」


「要らない」


「受け取りなさい。これは、あなたが折ったものです」


「だから捨てろと」


「折れたものでも、残るものはございます」


 慎吾は黙った。


 しばらくして、赤鉛筆を受け取った。


 短くなったそれを見て、彼は苦い顔をした。


「書けない」


「そうですわね」


「役に立たない」


「ええ」


「なら、なぜ返す」


 菊乃は舞台の方を見た。


「捨てるか残すかは、あなたが決めることです」


 慎吾は菊乃を見た。


 その目は、いつものように意地が悪く、少し疲れていて、そして逃げ場を探していた。


「水無瀬」


「何ですの」


「そういう台詞は、舞台で言え」


「今のは素ですわ」


「だから始末が悪い」


 菊乃は笑った。


 舞台の外では、まだ浅草が騒いでいる。

 縄は外された。

 だが、駒形座が完全に救われたわけではない。黒川はまた来る。水無瀬家も揺れる。小屋は古く、金はなく、明日の入りも分からない。


 それでも今夜、菊乃はここに立っている。


 水無瀬家の娘として。

 浅草の役者として。

 そして、葉室慎吾の台本を不便にした女として。


 慎吾は折れた赤鉛筆を懐にしまった。


「明日の台本を書く」


「わたくしの出番は?」


「ある」


「増えますの?」


「調子に乗るな」


「乗ります」


「だろうな」


 慎吾は楽屋へ戻ろうとした。


 菊乃はその背に声をかけた。


「葉室さん」


「何だ」


「今日のわたくしは?」


 慎吾は立ち止まった。


 少しだけ沈黙があった。


「悪くなかった」


 そう言って、彼は歩き出した。


 菊乃はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。


 悪くなかった。

 葉室慎吾にとっては、ほとんど最大級である。


 菊乃は扇を開いた。


 誰も見ていない舞台袖で、少しだけ高く笑った。


 高貴な勝利である。

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