第三十八話 新聞屋の文章は、相変わらず締まりがない
相良の記事は、三日後の朝に出た。
見出しは、慎吾のものより少し品がよく、黒川の名を直接は出さず、それでいて知っている者には分かる程度に意地が悪かった。
――裏口を守った小屋
――浅草駒形座、笑いで杭を抜く
銀次は新聞を十部買った。
小鈴は呆れたが、三部だけ余分に買った。小春は自分の名が小さく載っているところを、指で何度もなぞった。松之助は帳面の間に一部を挟み、おえんは店の壁に貼った。
慎吾は新聞を広げ、しばらく眺めてから言った。
「新聞屋の文章は、相変わらず締まりがない」
そう言って、捨てなかった。
菊乃は、水無瀬家へ一部送った。
宗親から返事は来なかった。
返ってきた新聞もなかった。
それで、少しだけ十分だった。
黒川栄之丞は、それから駒形座に姿を見せなかった。
だが、姿を見せないことと、手を引くことは違う。
黒川家は隣地の件をすぐには進めなかったが、別の筋から小屋の古さ、火の始末、客の出入りについて、小さな文句が入るようになった。
駒形座は古い。
古いものには、言いがかりをつける隙がいくらでもある。
柱は鳴り、床板は沈み、裏口は狭い。
黒川が来なくとも、紙は来る。
紙は足音も立てずに入り込んで、ある日突然、こちらの首に細い線を巻く。
松之助は、ある晩、帳面を閉じて言った。
「この小屋は、一度閉める」
楽屋の中に、しばらく音がなかった。
銀次が真っ先に口を開いた。
「閉めるって、座長」
「潰すわけじゃねえ」
松之助は煙草をくわえたが、火はつけなかった。
「黒川の野郎に取られる前に、こっちから畳む。小屋は古い。文句をつけられりゃ、全部跳ね返すのは難しい。ここで意地を張って、客に怪我でもさせたら終わりだ」
小鈴が唇を噛んだ。
「じゃあ、どこで」
「観音裏に空きがある。前は講釈場だったところだ。客席は狭い。楽屋も今よりひどい。だが、安い」
慎吾が机から言った。
「今よりひどい楽屋を探す方が難しいと思っていたが、浅草は奥が深いな」
「文句があるなら、お前が金を出せ」
「出ない金なら、文句くらい出す」
「最悪だな」
「知ってる」
小春は、泣きそうな顔をした。
「駒形座、なくなるの?」
松之助は小春を見て、少し困った顔をした。
「なくならねえ。名前は持ってく」
「名前だけ?」
「名前と、人間だ」
おえんが味噌汁の椀を置きながら言った。
「それで十分な時もあるよ」
慎吾が鼻で笑った。
「味噌汁屋が急に詩人になるな」
「食うんだろ」
「食う」
「なら黙んな」
「味噌汁の前では、暴力が正義になるな」
菊乃は、楽屋を見回した。
曇った鏡。
擦り切れた畳。
衣装のかかった竹竿。
黒川の花を置いた隅。
燕枝師匠の野菊があった場所。
倉橋に笑われ、慎吾が噛みついた楽屋口。
美しい小屋ではなかった。
けれど、美しくないから消えてよい、とは思えなかった。
「駒形座という名は、こちらから移るのですね」
菊乃が言うと、松之助は頷いた。
「持っていく」
「では、閉めるのではありませんわ」
菊乃は扇を開いた。
「移動です」
銀次が少し笑った。
「高貴な移動ですか」
「ええ。荷物は少ない方がよろしいですけれど」
慎吾が言った。
「お前の気品だけで三人分ある」
「葉室さん」
「荷車の手配を増やせ」
「あなたは本当に、余韻というものを足で踏みますわね」
「踏まないと進めない時もある」
その言葉に、菊乃は少し黙った。
慎吾は何もなかったように台本へ目を落とした。
駒形座の最後の片づけは、思ったより騒がしかった。
銀次は使えない小道具まで捨てたくないと言い張り、小鈴は古い衣裳の虫食いを見つけて悲鳴を上げた。
小春はどの木箱にも思い出があると言い、松之助は帳面だけはやたら丁寧に紐で結んだ。
菊乃は衣裳箱の前で、古い扇を仕分けていた。
割れたもの。
まだ使えるもの。
舞台で壊してもよいもの。
絶対に壊してはいけないもの。
不思議なことに、壊してもよいものほど舞台では役に立つ。
慎吾が近くに来た。
「水無瀬」
「何ですの」
「それは捨てろ」
慎吾が指したのは、菊乃が手に取っていた薄い扇だった。骨が少し曲がっている。
「まだ使えます」
「開くと音が悪い」
「あなた、扇の音にまで文句を言うのですか」
「お前が持つと余計にうるさい」
「では残します」
「なぜだ」
「あなたが嫌がるからです」
「教育の成果が最悪だな」
菊乃は扇を箱に戻した。
「葉室さん」
「何だ」
「あなたは、この小屋に未練はございませんの」
「あるように見えるか」
「見えないから訊いております」
「なら、ない」
「嘘ですわ」
「嘘じゃない」
菊乃は慎吾を見た。
慎吾は、壁の傷を見ていた。
そこには、銀次が昔、小道具をぶつけて作った凹みがある。
小春が背比べをした跡もある。
燕枝が最後の高座の日、袖へ戻る時に手をついた柱もある。
慎吾はそれを見ていた。
見ていない顔で、「ここでなきゃ書けない台本はない」と慎吾は言った。
「場所に甘えると、紙が腐る」
「でも、ここで書いた台本はありましたでしょう」
「ある」
「では、それを持っていけばよろしいのでは?」
「お前にしてはまともなことを言う」
「時々、申し上げます」
「時々な」
「そこは繰り返さなくて結構です」
慎吾は少しだけ笑った。
その笑いは、寂しいものではなかった。
だが、明るくもない。
たぶん慎吾は、こういう時にも悲しみをまともに持たない。
赤鉛筆と同じで、折れたものを折れたまま懐へ入れて、あとで別の台詞にする。
菊乃は、それを少し不公平だと思った。
「葉室さん」
「まだあるのか」
「この小屋の最後の台詞は、あなたが書くべきですわ」
「もう書いた」
「え?」
慎吾は一枚の紙を出した。
そこには短く書かれていた。
――本日は閉場ではございません。少々、舞台が歩いて引っ越すだけでございます。
菊乃は紙を見た。
「これは、わたくしの台詞ですの?」
「お前以外に言える奴がいるか」
「つまり、わたくしを買っていらっしゃると」
「移転挨拶係としてな」
「ひどい肩書ですわね」
「気に入らないなら、もっとひどくする」
「やめてくださいませ」
菊乃は紙を受け取った。
慎吾の字は、いつも通り少し乱暴だった。
けれど、読みづらくはない。
水無瀬家から、手紙が来たのは、その日の夕方だった。
差出人は宗親だった。
菊乃は、楽屋の隅で封を切った。
黒川家との話は当面保留とする。
ただし、水無瀬家の借財は残る。
浅草にいるならば、水無瀬の名をさらに貶めぬよう慎むこと。
折を見て戻り、話をせよ。
最後に一行。
先日の舞台の声は、よく通っていた。
菊乃は、その一行を何度も読んだ。
慎吾が横から覗き込む。
「検閲か」
「勝手に読まないでくださる?」
「読めるところに置くな」
「あなたは紙を見るとすぐ読みますわね」
「紙は読まないと悪さをする」
「この紙は悪さをしておりません」
「珍しいな」
菊乃は書状を畳んだ。
「叔父様は、許してはおりません」
「だろうな」
「でも、完全に閉め出したわけでもない」
「面倒な家だ」
「ええ」
菊乃は少し笑った。
「わたくしと似ておりますわ」
「否定しない」
「そこは否定なさい」
「嘘はよくない」
菊乃は扇で慎吾の腕を打った。
「わたくし、近いうちに一度戻ります」
「勝手にしろ」
「ただし、戻るだけです。売られに行くのではありません」
「誰も値をつけられないくらい面倒になったからな」
「褒めておりますの?」
「市場の混乱を述べている」
「では、受け取っておきます」
「受け取るな」




