第三十九話 俺は大きい劇場の犬になるために浅草で腐ったんじゃない
新しい小屋は、本当に狭かった。
観音裏の路地を曲がった先、前は講釈場だったという古い建物である。
客席は詰めても五十ほどだった。
楽屋は駒形座よりさらに暗く、窓を開けると隣の家の壁が見えた。
舞台は低く、天井も低い。
銀次は最初に入って、頭を梁にぶつけた。
慎吾は言った。
「小屋の方が正しい評価をしたな」
「兄さん、怪我人に言うことですか」
「お前は頭をぶつけても、芸に支障はない」
「それは安心していいやつですか」
「好きに解釈しろ」
小鈴は楽屋を見て顔をしかめた。
「狭い」
小春は逆に少し嬉しそうだった。
「声、よく届きそう」
おえんは腕を組んで言った。
「掃除からだね」
松之助は、古い看板を抱えて立っていた。
駒形座。
その字は、前の小屋から外して持ってきたものだった。少し欠けている。だが、捨てるには惜しい。
「ここでも駒形座ですのね」
菊乃が言うと、松之助は頷いた。
「名前くらい、持ってくるさ」
慎吾が言う。
「名前は重いぞ」
「お前が言うと嫌な感じだな」
「事実だ」
菊乃は看板を見た。
名前は重い。
重いものを捨てれば楽になることもある。
だが、持ち方を変えれば、歩けることもある。
「では、持ち方を変えましょう」
菊乃が言うと、慎吾が横目で見た。
「誰に言った」
「看板に」
「返事は?」
「まだですわ」
「なら待て」
「あなた、時々妙なところで律儀ですわね」
看板を掲げる時、銀次がまた足を滑らせ、小鈴が怒鳴り、小春が笑い、松之助が釘をくわえたまま喋ろうとしておえんに叱られた。
慎吾は下から見上げていた。
「右が下がってる」
銀次が言う。
「どっちの右ですか」
「客から見て右だ」
「俺からは左です」
「お前の視点はどうでもいい」
「ひどい」
菊乃は少し離れて、その様子を見ていた。
移動。
たしかに、これは閉場ではない。
舞台が歩いて引っ越しただけだ。
引っ越しの騒ぎが落ち着いた頃、相良が新しい小屋へやって来た。
片手に新聞、もう片方に封書を持っている。
「葉室」
「帰れ」
「まだ何も言っていない」
「言う前に断ると、時間の節約になる」
「今日は仕事を持ってきた」
「もっと帰れ」
相良は封書を慎吾へ差し出した。
「常盤座からだ。君に台本を書いてほしいらしい」
楽屋がざわめいた。
常盤座は、駒形座とは比べ物にならない大きな劇場だった。
浅草の中でも名が通り、客も入る。
そこで台本を書けば、慎吾の名は今よりずっと外へ出る。
銀次が素直に声を上げた。
「兄さん、すごいじゃないですか」
「すごくない。面倒が大きくなっただけだ」
小鈴が封書を見る。
「でも、大きい仕事ですよ」
「大きい仕事ほど、偉そうな奴が増える」
相良が言う。
「受けた方がいい」
「新聞屋の忠告は、だいたい裏がある」
「裏もあるが、今回は表もある」
「新聞屋が表を語るな。滑稽だ」
菊乃は黙って慎吾を見た。
慎吾は封書を開いた。
ざっと読む。顔は変わらない。
相良が言う。
「君は、もっと大きなところで書ける」
「書けることと、書きたいことは違う」
「そんなことを言うから、君は」
「浅草の狭い小屋で赤鉛筆を削ってる。知ってるさ」
相良は少し困ったように笑った。
「君は自分の失敗を先に言うのが上手いな」
「他人に言われると腹が立つからな」
慎吾は封書を畳んだ。
「条件がある」
「聞こう」
「ここの台本も書く」
相良は少し目を丸くした。
「掛け持ちか」
「そうだ」
「常盤座が嫌がるかもしれない」
「なら断る」
銀次が慌てた。
「兄さん、そんな簡単に」
「簡単だ。俺は大きい劇場の犬になるために浅草で腐ったんじゃない」
菊乃は、その言葉に少し息を止めた。
慎吾は続けた。
「それに、ここの台本は不便だ。放っておくと、誰かが勝手に余計な台詞を足す」
菊乃は扇を開いた。
「わたくしのことですの?」
「他にいるか」
「光栄ですわ」
「不名誉だ」
相良は二人を見て、少し笑った。
「分かった。伝えておく」
「余計な美談にするなよ」
「新聞屋にそれを求めるのは酷だな」
「自覚があるだけ悪質だ」
相良が帰ったあと、銀次が慎吾の周りをうろついた。
「兄さん、本当に常盤座の仕事受けるんですか」
「条件次第だ」
「有名になりますよ」
「ならない方が楽だ」
「でも、金も」
「それは要る」
「急に現実的」
「腹は台本で膨れない」
菊乃は慎吾に近づいた。
「葉室さん」
「何だ」
「行ってしまうのかと思いました」
「どこへ」
「大きな劇場へ」
「行くかもしれない」
菊乃は少しだけ胸が重くなった。
慎吾は続けた。
「だが、戻る」
菊乃は顔を上げた。
「戻る?」
「ここにも台本が要る」
「それだけ?」
「それだけで十分だ」
菊乃は慎吾を見た。
この男は、本当に始末が悪い。
欲しい言葉の一歩手前にだけ、板を置く。
だが、菊乃も少しは慣れてきた。
「つまり、わたくしの不便な台詞を書き続けるということですわね」
「下品に要約するな」
「違いまして?」
「違う」
「では何ですの」
「仕事だ」
「便利な言葉ですこと」
「便利だから使う」
菊乃は扇の陰で笑った。
「そういうことにしておいて差し上げますわ」
「差し上げるな」




