第四十話 不便な台本
新しい駒形座の初日は、雨だった。
客足は悪いかと思われたが、意外に入った。
前の小屋の常連、相良の記事を読んだ者、黒川の騒ぎを聞きつけた者、そしてただ雨宿りのついでに入った者。
狭い客席は、少し詰めればいっぱいになった。
舞台の前で、菊乃は慎吾の書いた移転挨拶を持って立った。
袖では銀次が深呼吸をし、小鈴が衣裳の襟を直し、小春が緊張で手を握っている。
松之助は看板を何度も見上げ、おえんは客席の端で腕を組んでいた。
慎吾は、いつものように横にいた。
「噛むな」
「第一声がそれですの?」
「お前には一番効く」
「他にございません?」
「客席が近い。高笑いは少し抑えろ。鼓膜に悪い」
「葉室さん」
「それから」
慎吾は少しだけ間を置いた。
「前の小屋を惜しむな。客は葬式を見に来たんじゃない」
菊乃は頷いた。
「舞台を見に来たのですものね」
「お前が転ぶかどうかも含めてな」
「最後の一言が余計です」
「余計なものがないと、お前が落ち着かないだろ」
菊乃は笑った。
「ええ。少し」
幕は小さかった。
だが、上がれば舞台である。
菊乃は客席へ出た。
雨の匂いが客の着物から少し立っていた。狭い小屋の中で、人の息が近い。前の駒形座より、客の顔がよく見えた。笑う前の口元も、退屈しかけた目も、期待している手も。
菊乃は一礼した。
「本日はお足元の悪い中、ようこそお越しくださいました」
客席が静かになる。
「駒形座は、少々引っ越しをいたしました。閉めたのではございません。舞台が、浅草の路地を歩いてこちらへ参っただけでございます」
少し笑いが起きる。
「前の小屋は、板が鳴り、鏡が曇り、裏口は時々面倒なことになりました。こちらの小屋は、さらに狭く、さらに暗く、楽屋は少々、人の忍耐を試します」
客が笑った。
銀次が袖で「本当のこと言いすぎ」と呟き、小鈴に足を踏まれた。
「けれど、舞台はございます。客席もございます。笑う方も、笑われる方も、まだおります」
菊乃は一呼吸置いた。
「ですから本日より、ここが駒形座でございます。どうぞ、前の小屋と同じように笑ってくださいませ。いえ、少し狭い分、笑い声は小さくても結構ですわ」
客席が沸いた。
菊乃は頭を下げた。
袖へ戻ると、慎吾が言った。
「最後、勝手に足したな」
「受けましたわ」
「少しな」
「ええ。十分です」
その日の芝居は、小さな小屋に合っていた。
大きな動きはできない。
だから台詞の間が近くなる。
客が笑うと、すぐ顔に返る。
銀次の失敗も、小鈴の怒りも、小春の小さな台詞も、前より近くで光った。
菊乃は、一度だけ台詞を噛んだ。
慎吾は袖で目を細めた。
だが、客は笑った。菊乃も笑い返した。
噛んだことまで、舞台の一部にしてやった。
終演後、拍手は小屋の壁に当たって戻ってきた。
前より小さい。
けれど、前より近い。
菊乃は頭を下げながら、これも悪くないと思った。
雨は、夜になっても降っていた。
客が帰り、片づけが済み、銀次が打ち上げだと騒ぎ、小鈴が明日の準備を先にしろと怒り、小春が眠そうに目をこすった頃、菊乃は外へ出た。
路地の石畳が濡れている。
浅草の灯が、水たまりに崩れて映っていた。
慎吾が後から出てきた。
「水無瀬」
「何ですの」
「傘は」
「忘れました」
「華族の持ち物としては致命的だな」
「高貴な不注意ですわ」
「ただの不注意だ」
慎吾は一本の傘を開いた。
古い傘だった。
少し骨が歪んでいる。
「入れ」
菊乃は目を瞬かせた。
「よろしいの?」
「濡れると明日うるさい」
「心配ではなく?」
「騒音対策だ」
「そういうことにしておきます」
「そういうことだ」
二人は並んで歩いた。
傘は大きくない。
肩が時々触れる。菊乃は少しだけ端に寄ろうとしたが、慎吾が無言で傘を傾けた。
雨の浅草は、いつもより少し静かだった。
それでも、遠くから三味線の音が聞こえ、屋台の灯が滲み、誰かが笑っている。
菊乃は言った。
「水無瀬家へ、近いうちに戻ります」
「さっき聞いた」
「話をしに行くだけです」
「分かってる」
「わたくしは、水無瀬家を捨てるのではありません」
慎吾は黙って歩いた。
菊乃は雨を見ながら続けた。
「水無瀬家の名で、わたくしを売るのをやめるだけです」
しばらく、雨の音だけがあった。
慎吾が言った。
「いい台詞だな」
菊乃は驚いて慎吾を見た。
「今、褒めました?」
「使えると言った」
「言っておりません。いい台詞とおっしゃいました」
「聞き間違いだ」
「残念ながら、覚えがよろしいのです。台詞以外は」
「厄介な女だな」
「高貴な厄介です」
慎吾は少しだけ笑った。
菊乃も笑った。
雨粒が傘を打つ。
その音が、二人の間の余計な沈黙を埋めてくれた。
「葉室さん」
「何だ」
「わたくし、これからもあなたの台本を不便にいたしますわ」
「迷惑だ」
「知っております」
「お前がいると、書き直しが増える」
「もう増えておりますでしょう」
「最悪だな」
「ええ。ですから、責任をお取りなさい」
慎吾が足を止めた。
「それは台詞だろ」
菊乃も止まった。
傘の縁から、雨が細い糸のように落ちている。路地の水たまりに、二人の影が揺れていた。
「今のは素ですわ」
慎吾は黙った。
長い沈黙ではなかった。
けれど、浅草の雨の中では、少し長く感じた。
やがて慎吾が言った。
「こっちからも苦情がある」
「伺います」
「お前がいないと、俺の台本がつまらん」
「ええ」
「お前がいると、面倒だ」
「ええ」
「だから、いろ」
菊乃は何も言わなかった。
言葉が、胸の中へ静かに落ちた。
だから、十分だった。
「命令ですの?」
「苦情だ」
「では、受け取っておきます」
菊乃は微笑んだ。
「領収書は、一生分でよろしいかしら」
慎吾の顔が、少しだけ歪んだ。
「高くつくな」
「水無瀬菊乃ですもの」
「その名で値を吊り上げるな」
「使えるものは使えと、あなたがおっしゃったのでは?」
「教育の成果が本当に最悪だ」
菊乃は一歩、慎吾に近づいた。
傘の下は狭かった。
狭いから、言い訳をする隙間も少ない。
慎吾がわずかに眉を上げる。
「おい」
「黙ってください」
「命令が雑だ」
「ええ」
それだけ言って、菊乃は慎吾の口を塞いだ。
短い口づけだった。
浅草の雨は、その間も止まなかった。
通りの向こうで誰かが笑い、遠くの三味線が少し外れた音を出した。世界は少しも気を利かせない。だからかえって、菊乃は安心した。
慎吾は、ほんの少し固まっていた。
それから、低く言った。
「明日の台本を書き直す」
菊乃は目を細めた。
「なぜ?」
「相手役が増えた」
「わたくしの?」
「俺のだ」
菊乃は、傘の下で笑った。
笑いすぎると、慎吾がまた何か言う。
そう思ったが、今日は少しだけ許してやることにした。
高貴な慈悲である。
新しい駒形座では、翌日も芝居があった。
雨は上がり、浅草の路地には湿った匂いが残っていた。
客席は昨日より少し少ない。だが、笑う声はよく届いた。
菊乃は舞台袖で扇を開いた。
小春が呼ぶ。
「菊乃さん、出番です!」
銀次が後ろで台詞を確認し、小鈴が銀次の襟を直し、おえんが客席の端で腕を組んでいる。
松之助は帳面を抱えたまま、看板の方を見ていた。
慎吾は袖の暗がりにいた。
手には赤鉛筆。
「噛むな」
菊乃は振り返る。
「あなたが拾うのでしょう」
「勝手に落とすな」
「勝手に拾いなさい」
「面倒な女だ」
「あなたの台本ですわ」
慎吾は口元を歪めた。
菊乃は舞台へ出た。
浅草の灯は、今夜も少し不作法に揺れていた。
水無瀬菊乃は、笑われるためではなく、笑わせるために一歩を踏み出した。
その背を見送りながら、葉室慎吾は袖の暗がりで、明日のための赤い線を一本引いた。




