表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
40/40

第四十話 不便な台本

 新しい駒形座の初日は、雨だった。


 客足は悪いかと思われたが、意外に入った。

 前の小屋の常連、相良の記事を読んだ者、黒川の騒ぎを聞きつけた者、そしてただ雨宿りのついでに入った者。

 狭い客席は、少し詰めればいっぱいになった。


 舞台の前で、菊乃は慎吾の書いた移転挨拶を持って立った。


 袖では銀次が深呼吸をし、小鈴が衣裳の襟を直し、小春が緊張で手を握っている。

 松之助は看板を何度も見上げ、おえんは客席の端で腕を組んでいた。


 慎吾は、いつものように横にいた。


「噛むな」


「第一声がそれですの?」


「お前には一番効く」


「他にございません?」


「客席が近い。高笑いは少し抑えろ。鼓膜に悪い」


「葉室さん」


「それから」


 慎吾は少しだけ間を置いた。


「前の小屋を惜しむな。客は葬式を見に来たんじゃない」


 菊乃は頷いた。


「舞台を見に来たのですものね」


「お前が転ぶかどうかも含めてな」


「最後の一言が余計です」


「余計なものがないと、お前が落ち着かないだろ」


 菊乃は笑った。


「ええ。少し」


 幕は小さかった。

 だが、上がれば舞台である。


 菊乃は客席へ出た。


 雨の匂いが客の着物から少し立っていた。狭い小屋の中で、人の息が近い。前の駒形座より、客の顔がよく見えた。笑う前の口元も、退屈しかけた目も、期待している手も。


 菊乃は一礼した。


「本日はお足元の悪い中、ようこそお越しくださいました」


 客席が静かになる。


「駒形座は、少々引っ越しをいたしました。閉めたのではございません。舞台が、浅草の路地を歩いてこちらへ参っただけでございます」


 少し笑いが起きる。


「前の小屋は、板が鳴り、鏡が曇り、裏口は時々面倒なことになりました。こちらの小屋は、さらに狭く、さらに暗く、楽屋は少々、人の忍耐を試します」


 客が笑った。


 銀次が袖で「本当のこと言いすぎ」と呟き、小鈴に足を踏まれた。


「けれど、舞台はございます。客席もございます。笑う方も、笑われる方も、まだおります」


 菊乃は一呼吸置いた。


「ですから本日より、ここが駒形座でございます。どうぞ、前の小屋と同じように笑ってくださいませ。いえ、少し狭い分、笑い声は小さくても結構ですわ」


 客席が沸いた。


 菊乃は頭を下げた。


 袖へ戻ると、慎吾が言った。


「最後、勝手に足したな」


「受けましたわ」


「少しな」


「ええ。十分です」


 その日の芝居は、小さな小屋に合っていた。


 大きな動きはできない。

 だから台詞の間が近くなる。

 客が笑うと、すぐ顔に返る。

 銀次の失敗も、小鈴の怒りも、小春の小さな台詞も、前より近くで光った。


 菊乃は、一度だけ台詞を噛んだ。


 慎吾は袖で目を細めた。

 だが、客は笑った。菊乃も笑い返した。


 噛んだことまで、舞台の一部にしてやった。


 終演後、拍手は小屋の壁に当たって戻ってきた。


 前より小さい。

 けれど、前より近い。


 菊乃は頭を下げながら、これも悪くないと思った。


 雨は、夜になっても降っていた。


 客が帰り、片づけが済み、銀次が打ち上げだと騒ぎ、小鈴が明日の準備を先にしろと怒り、小春が眠そうに目をこすった頃、菊乃は外へ出た。


 路地の石畳が濡れている。

 浅草の灯が、水たまりに崩れて映っていた。


 慎吾が後から出てきた。


「水無瀬」


「何ですの」


「傘は」


「忘れました」


「華族の持ち物としては致命的だな」


「高貴な不注意ですわ」


「ただの不注意だ」


 慎吾は一本の傘を開いた。


 古い傘だった。

 少し骨が歪んでいる。


「入れ」


 菊乃は目を瞬かせた。


「よろしいの?」


「濡れると明日うるさい」


「心配ではなく?」


「騒音対策だ」


「そういうことにしておきます」


「そういうことだ」


 二人は並んで歩いた。


 傘は大きくない。

 肩が時々触れる。菊乃は少しだけ端に寄ろうとしたが、慎吾が無言で傘を傾けた。


 雨の浅草は、いつもより少し静かだった。

 それでも、遠くから三味線の音が聞こえ、屋台の灯が滲み、誰かが笑っている。


 菊乃は言った。


「水無瀬家へ、近いうちに戻ります」


「さっき聞いた」


「話をしに行くだけです」


「分かってる」


「わたくしは、水無瀬家を捨てるのではありません」


 慎吾は黙って歩いた。


 菊乃は雨を見ながら続けた。


「水無瀬家の名で、わたくしを売るのをやめるだけです」


 しばらく、雨の音だけがあった。


 慎吾が言った。


「いい台詞だな」


 菊乃は驚いて慎吾を見た。


「今、褒めました?」


「使えると言った」


「言っておりません。いい台詞とおっしゃいました」


「聞き間違いだ」


「残念ながら、覚えがよろしいのです。台詞以外は」


「厄介な女だな」


「高貴な厄介です」


 慎吾は少しだけ笑った。


 菊乃も笑った。


 雨粒が傘を打つ。

 その音が、二人の間の余計な沈黙を埋めてくれた。


「葉室さん」


「何だ」


「わたくし、これからもあなたの台本を不便にいたしますわ」


「迷惑だ」


「知っております」


「お前がいると、書き直しが増える」


「もう増えておりますでしょう」


「最悪だな」


「ええ。ですから、責任をお取りなさい」


 慎吾が足を止めた。


「それは台詞だろ」


 菊乃も止まった。


 傘の縁から、雨が細い糸のように落ちている。路地の水たまりに、二人の影が揺れていた。


「今のは素ですわ」


 慎吾は黙った。


 長い沈黙ではなかった。

 けれど、浅草の雨の中では、少し長く感じた。


 やがて慎吾が言った。


「こっちからも苦情がある」


「伺います」


「お前がいないと、俺の台本がつまらん」


「ええ」


「お前がいると、面倒だ」


「ええ」


「だから、いろ」


 菊乃は何も言わなかった。


 言葉が、胸の中へ静かに落ちた。


 だから、十分だった。


「命令ですの?」


「苦情だ」


「では、受け取っておきます」


 菊乃は微笑んだ。


「領収書は、一生分でよろしいかしら」


 慎吾の顔が、少しだけ歪んだ。


「高くつくな」


「水無瀬菊乃ですもの」


「その名で値を吊り上げるな」


「使えるものは使えと、あなたがおっしゃったのでは?」


「教育の成果が本当に最悪だ」


 菊乃は一歩、慎吾に近づいた。


 傘の下は狭かった。

 狭いから、言い訳をする隙間も少ない。


 慎吾がわずかに眉を上げる。


「おい」


「黙ってください」


「命令が雑だ」


「ええ」


 それだけ言って、菊乃は慎吾の口を塞いだ。


 短い口づけだった。


 浅草の雨は、その間も止まなかった。

 通りの向こうで誰かが笑い、遠くの三味線が少し外れた音を出した。世界は少しも気を利かせない。だからかえって、菊乃は安心した。


 慎吾は、ほんの少し固まっていた。


 それから、低く言った。


「明日の台本を書き直す」


 菊乃は目を細めた。


「なぜ?」


「相手役が増えた」


「わたくしの?」


「俺のだ」


 菊乃は、傘の下で笑った。


 笑いすぎると、慎吾がまた何か言う。

 そう思ったが、今日は少しだけ許してやることにした。


 高貴な慈悲である。


 新しい駒形座では、翌日も芝居があった。


 雨は上がり、浅草の路地には湿った匂いが残っていた。

 客席は昨日より少し少ない。だが、笑う声はよく届いた。


 菊乃は舞台袖で扇を開いた。


 小春が呼ぶ。


「菊乃さん、出番です!」


 銀次が後ろで台詞を確認し、小鈴が銀次の襟を直し、おえんが客席の端で腕を組んでいる。

 松之助は帳面を抱えたまま、看板の方を見ていた。


 慎吾は袖の暗がりにいた。


 手には赤鉛筆。


「噛むな」


 菊乃は振り返る。


「あなたが拾うのでしょう」


「勝手に落とすな」


「勝手に拾いなさい」


「面倒な女だ」


「あなたの台本ですわ」


 慎吾は口元を歪めた。


 菊乃は舞台へ出た。


 浅草の灯は、今夜も少し不作法に揺れていた。

 水無瀬菊乃は、笑われるためではなく、笑わせるために一歩を踏み出した。


 その背を見送りながら、葉室慎吾は袖の暗がりで、明日のための赤い線を一本引いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ