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第七話 投資先を育てるんだろう?お前も少しは出資者らしく控えろ

 夕方の舞台で、小春はいつもより少し大きな声を出した。


 客は、何も知らずに笑った。

 小春が笑う場面で、ちゃんと笑った。銀次が転べば笑い、小鈴が怒れば手を叩き、菊乃が高慢な台詞を言えば、昨日より少し早く反応した。


 舞台とは残酷なものだ。


 誰かが質屋へ行ったことも、証文の字がずれていたことも、子どもが朝から泣いていたことも、客には関係ない。

 関係ないから、笑う。


 けれど、その笑いがなければ、今日の小春はもっと遠くへ連れていかれていたかもしれない。


 菊乃は出番を終えて袖に戻った。

 慎吾がそこにいた。


「小春、受けましたわね」


「少しな」


「あなたの語彙には、少し、しかありませんの」


「大いに、を使うには審査が要る」


「わたくしは?」


「保留」


「小春は?」


「保留より少し上」


「まあ。わたくしより高評価ですの」


「小春は台詞を覚える」


「葉室さん」


「事実だ」


 菊乃は扇で慎吾の腕を軽く打った。

 慎吾は痛くもなさそうに台本をめくる。


「今日の損は、惜しくないのか」


 不意に言われて、菊乃は少し息を止めた。


「惜しいに決まっておりますわ」


「だろうな」


「惜しくない善行など、ただの道楽です。わたくしは道楽で人を助けられるほど、裕福ではありません」


「なら、なぜ戻った」


 舞台では銀次が馬鹿な声を出し、客が笑っていた。

 その笑いに紛れて、菊乃は小さく言った。


「寝つきが悪くなるからですわ」


 慎吾は黙った。


 菊乃は続けた。


「それだけです。高貴な理由ではございません。慈悲でもありません。わたくし、自分の眠りの質を守っただけです」


「ずいぶん俗な慈善だな」


「ええ。わたくしに似合いでしょう」


 慎吾は少しだけ笑った。

 やはり意地の悪い笑いだった。


「似合ってる。ひどくな」


「褒めておりますの?」


「苦情だ」


「では、受け取っておきますわ」


 菊乃は舞台を見る。

 小春が小さな身体で走り回っている。笑いが起こる。小春は一瞬だけこちらを見て、すぐ舞台へ戻った。


 その顔は、もう朝の顔ではなかった。


 菊乃は帯のあたりに手をやった。

 そこには、もう帯留めの感触はない。


 少し寒い。

 少し軽い。


 慎吾が言った。


「明日の台本、小春の出番を増やす」


「わたくしの出番は?」


「減らす」


「なぜですの!」


「投資先を育てるんだろう。お前も少しは出資者らしく控えろ」


「出資者は口も出すものですわ」


「最悪の出資者だな」


「高貴な出資者です」


「高貴な奴は質屋の帰りに値切り損ねた顔をしない」


 菊乃は言い返せなかった。

 代わりに、扇を開いて顔を隠した。


「見ていらしたの?」


「偶然だ」


「嘘ですわ」


「嘘じゃない。お前の歩き方がうるさいだけだ」


「歩き方まで悪口にするのは、もはや才能ではなく病です」


「病なら治らないな。諦めろ」


 菊乃は扇の陰で、少しだけ笑った。


 笑ったあと、なぜ笑ったのか分からなくなった。


 腹立たしい男である。

 人の懐も、袖口も、捨てたものも、残ったものも、見ないふりをして見ている。

 そのくせ、肝心なところで優しい言葉はくれない。


 だが、もし優しい言葉をもらっていたら、菊乃はきっと泣いていた。


 だから、これでよかったのかもしれない。


 舞台の上で、小春が台詞を言う。


「わたし、大きくなったら、ここの看板になります!」


 客が笑った。

 銀次が転んだ。

 小鈴が突っ込んだ。


 菊乃は扇を下ろし、慎吾に言った。


「葉室さん」


「何だ」


「十年後、小春が本当に大女優になったら、あなたの台本など不要になるかもしれませんわね」


「それは困るな」


「おや、珍しく素直ですこと」


「回収不能になる」


「何がですの」


「お前の領収書だ」


 菊乃は一瞬きょとんとして、それから笑った。


「では、ちゃんと保管なさい」


「どこに」


「あなたの不便な台本の間にでも」


 慎吾は赤鉛筆を耳に挟んだ。


「台本がますます不便になる」


「光栄に思いなさい」


「なぜだ」


「水無瀬菊乃の善行の証拠が挟まるのですから」


「善行を証拠品にするな」


「領収書ですわ」


 慎吾は呆れたように息を吐いた。


「本当に面倒な女だ」


 菊乃は舞台の明かりを見た。


 その光は安く、熱く、埃っぽい。

 それでも、小春の顔を照らしていた。菊乃の失った帯留めより、たぶんずっと安い光だった。けれど、今夜はそれでよかった。


「ええ」


 菊乃は小さく言った。


「高くつきますわよ」


 慎吾は返事をしなかった。

 ただ台本の端に、何かを書き足した。


 菊乃は覗こうとしたが、慎吾が紙を伏せた。


「見せてくださいな」


「まだだ」


「わたくしの台詞でしょう」


「お前にはもったいない台詞だ」


「では、なおさら必要です」


「黙って待て」


 舞台では小春が笑っていた。

 客も笑っていた。


 浅草の夜は、今日も誰かの涙など知らない顔で明るくなっていく。

 だが、その知らなさに救われることもあるのだと、菊乃は少しだけ思った。


 人の不幸を全部覚えている町なら、きっと重すぎて誰も立てない。


 忘れっぽい浅草の灯の下で、水無瀬菊乃は一つ帯留めを失い、一枚見えない領収書を手に入れた。


 それが損なのか得なのかは、まだ分からない。


 ただ、慎吾が伏せた台本の隅に、赤鉛筆の字でこう書かれているのが、少しだけ見えた。


 ――善行には領収書が要る。


 菊乃は見なかったふりをした。


 その方が、たぶん二人とも都合がよかった。

お読みくださりありがとうございます。

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