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第六話 黙って善行をするのは富裕層の趣味ですわ。貧乏人の善行には宣伝効果が必要です

 質屋の暖簾は、細い路地の奥にあった。


 菊乃は三度、引き返しかけた。

 一度目は路地の入り口。二度目は暖簾の前。三度目は帯留めを掌に乗せた瞬間だった。


 店の主人は、品物を見て、菊乃の顔を見ずに言った。


「これなら、このくらいで」


 紙に書かれた額は、思ったより低かった。


「もう少し何とかなりませんの」


「石がね」


「石だけを見ているから、その値なのですわ。これは水無瀬家の――」


 言いかけて、菊乃は口を閉じた。


 水無瀬家の何なのか。

 母の持ち物。昔の名残。自分がまだ何者かであると思うための小さな支え。


 けれど質屋には、そんなものは関係がない。


 主人は静かに待っていた。

 それがありがたくもあり、腹立たしくもあった。


「……その額で結構ですわ」


 受け取った金は、軽かった。

 帯留めを手放したあとの袖は、もっと軽かった。


 駒形座へ戻る頃には、夕方の気配が通りの上に伸びていた。


 楽屋では、小春が小さな風呂敷を膝に置いて座っていた。

 おたみは泣き疲れた顔をしている。松之助は帳面を閉じたまま腕を組み、銀次は落ち着きなく舞台と楽屋を往復していた。


 慎吾は机にいた。

 菊乃が入ってきても、顔を上げない。


「遅かったな」


「女には支度というものがございます」


「逃げる支度か」


「戻る支度ですわ」


 慎吾の赤鉛筆が止まった。


 菊乃は小春の前に立った。


「小春」


 小春が顔を上げる。

 目が赤い。


「あなた、十年後には大女優になる予定でしたわね」


 小春は戸惑って、小さく頷いた。


「たぶん……」


「たぶんでは困ります。わたくしが投資するのですから、将来性は明言なさい」


 銀次がぽかんとした。


「投資?」


 菊乃は財布を出した。

 中身を松之助の前に置く。


「これで、どれほど足りますの」


 松之助が目を見開いた。


「菊乃さん、これは」


「貸しですわ」


 菊乃は胸を張った。


「小春、よくお聞きなさい。これは慈善ではありません。水無瀬菊乃による、将来有望な役者への先行投資です。十年後、あなたが大女優になりましたら、利子をつけて返していただきます」


 小春の顔がくしゃりと歪んだ。


「菊乃さん」


「泣くのはおやめなさい。契約の場で涙を見せると、足元を見られます」


 小春は余計に泣いた。


 菊乃は困った。

 助けた相手に泣かれるのは苦手だった。感謝されるのも困る。どういう顔をすればよいのか分からない。


 そこで慎吾が言った。


「契約書でも作るか。十年後、小春が大女優にならなかった場合、水無瀬菊乃が代わりに客席で高笑いする」


「なぜ、わたくしが罰を受けますの」


「投資には責任が伴う」


「あなた、こういう時だけ正論を持ち出しますわね」


「普段から正論だ。お前が嫌ってるだけで」


 松之助は金を数えた。

 表情は明るくならない。


「これで全部とはいかねえが、今日明日くらいはどうにかなる。仁村の奴と話す時間は買える」


「時間を買ったのですわね」


 菊乃は少しだけ安心した。


 その時、慎吾が言った。


「時間だけじゃない。穴も買った」


「穴?」


「仁村の言い方が変だった。『夕方に迎えを寄越す』と言った。今すぐ連れていけるなら、あの手の奴は待たない」


 松之助が慎吾を見る。


「どういうことだ」


「おたみさんの借りは、あいつ個人のものじゃない。旦那筋だと言った。つまり仁村は使い走りだ。決める権限が半端なんだろう。今日のところは、向こうの帳面に小春の名を入れる口実が欲しかっただけだ」


 おたみが震えた声で言った。


「でも、証文が」


「見せろ」


 慎吾は手を出した。


 おたみは迷ったあと、懐から折り畳んだ紙を出した。慎吾はそれを開き、目だけでざっと読んだ。


 菊乃は隣から覗こうとして、慎吾に紙で鼻先を押された。


「近い」


「見せてくださってもよろしいでしょう」


「読めるのか」


「失礼ですわね」


「じゃあ読んでから怒れ」


 慎吾は紙を机に置いた。


「利息の書き方が雑だな。日付も二箇所ずれてる。こっちはおたみさんの判で、こっちは代筆。しかも小春を働かせるとは書いてあるが、どこの小屋へ、どの期間とはない」


 松之助が身を乗り出す。


「つまり?」


「今夜すぐ小春を連れていく根拠としては弱い。脅しには使えるが、こっちが騒げば面倒になる。あいつらは面倒を嫌う。安く人を動かしたいだけだからな」


 銀次が言った。


「兄さん、じゃあ小春は助かるんですか」


「助かるかどうかは知らん。だが、今日さらわれるほど安くはない」


 菊乃は慎吾を見た。


「あなた、分かっていたのなら、早くおっしゃればよかったのに」


「お前が財布を開くか見てた」


「最低ですわ」


「違う。確認だ」


「何の確認ですの」


 慎吾は菊乃を見た。

 その目が少しだけ、いつもの皮肉から外れた気がした。


「お前が本当に見捨てるなら、別の手を考えるつもりだった」


 菊乃は言葉を失った。


 別の手。

 その一言の中に、どれほどの面倒が入っているのか、彼女には分からなかった。

 けれど、慎吾なら本当に考えていただろう。

 文句を言いながら、他人の不始末を拾う。

 拾ったことを、決して善意とは呼ばない。


 その時、楽屋口に仁村が戻ってきた。


「支度はお済みで?」


 慎吾が証文を持ち上げた。


「済んだ。お前の雑な仕事の確認がな」


 仁村の顔が変わった。


「何の話です」


「この証文で今日小春を連れていくのは無理だ。日付がずれてる。働き先も期間も曖昧。おまけに代筆の箇所が説明されてない。脅しに使うにはいいが、人前で広げるには少し汚い」


「素人が知ったような口を」


「素人に見抜かれる紙を持ってくるな。恥ずかしい」


 仁村はおたみを睨んだ。


「おたみさん、これは困りますね。話をこじらせると、旦那も黙っていませんよ」


 菊乃は前に出た。


「その旦那様とやらにお伝えなさい。小春は本日、駒形座に出演いたします」


 仁村は菊乃を見た。


「あなたには関係のないことでしょう」


「関係なら、今作りましたわ」


 菊乃は扇を開いた。


「この子には、わたくしが投資いたしました。勝手に持っていかれては困ります」


 仁村は鼻で笑った。


「投資?」


「ええ。将来の大女優ですもの」


「ずいぶん夢のある話だ」


「夢ではありませんわ。債権です」


 慎吾が低く笑った。


「ひどい言い方だな」


「あなたの影響です」


「俺のせいにするな。そこまで下品に育てた覚えはない」


 仁村は二人を見比べ、やがて薄く笑った。


「今日のところは引きましょう。ただし、これで済むと思わないことです」


「捨て台詞まで帳面通りだな」


 慎吾が言うと、仁村は顔をしかめた。

 それでも何も言わずに出ていった。


 楽屋に息が戻った。


 小春が菊乃へ抱きついた。

 菊乃は反射的に両手を上げた。


「ちょ、ちょっと、おやめなさい。着物が乱れます」


「ありがとう、菊乃さん」


「礼は十年後に現金でなさい」


 小春は泣きながら笑った。


 菊乃はどうしてよいか分からず、結局、小春の頭に手を置いた。

 髪はまだ子どもの柔らかさをしていた。


 その軽さに、胸が少し痛んだ。


 慎吾が机の方から言った。


「善人になるにも、ずいぶん騒がしい女だな」


 菊乃は小春から手を離し、慎吾を睨んだ。


「黙って善行をするのは富裕層の趣味ですわ。貧乏人の善行には宣伝効果が必要です」


「領収書も切るか?」


「当然です」


 菊乃は胸を張った。


「善行には領収書が要りますわ。でなければ、ただの持ち出しですもの」


 銀次が噴き出した。

 小鈴も笑った。

 おたみは泣きながら頭を下げている。

 松之助は鼻をすすり、帳面の陰に顔を隠した。


 慎吾は赤鉛筆を取った。


「今の台詞、使えるな」


「勝手に使わないでくださる?」


「俺の台本だ」


「わたくしの人生ですわ」


「だから使うんだ。お前の人生は、余計な台詞が多い」


 菊乃は言い返そうとして、ふと慎吾の目が自分の袖元へ向いていることに気づいた。


 帯留めがない。

 彼は見抜いていた。


 菊乃は咄嗟に袖を押さえた。


「何ですの」


「別に」


「何か言いたげなお顔ですわ」


「古いだけの品だったんだろう」


 菊乃は固まった。


 慎吾は台本へ目を落としたまま続けた。


「お前の顔にそう書いてある」


「……本当に、嫌な男ですこと」


「よく言われる」


「では、ついでに覚えておきなさい。あれは古いだけの品です。水無瀬家には、もっと上等なものが山ほどありましたもの」


 慎吾は赤鉛筆を止めた。


「あった、か」


 菊乃は黙った。


 便利な過去形。

 昨日、慎吾が言った言葉に似ていた。


 あった。

 今はない。


 その事実は、質屋の主人が示した額よりもずっと安く、ずっと重かった。


 慎吾はそれ以上、何も言わなかった。


 そこがまた腹立たしかった。

 慰められても腹が立っただろうが、何も言われないのも同じくらい腹が立つ。

 葉室慎吾という男は、人を不愉快にする方法の棚卸しでもしているのではないかと思う。

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