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第五話 不愉快な男の悪影響です

 浅草の通りは、昼になるにつれて騒がしさを増していた。


 団子屋の前では蒸籠から湯気が上がり、見世物小屋の前では赤い幟が風に鳴っている。

 人力車が過ぎ、学生らしい若者が活動写真の看板を眺め、女給が急ぎ足で角を曲がった。


 菊乃は歩いた。

 歩くたび、帯の内側にしまった財布の軽さが気になった。


 他人の不幸まで抱えれば、腕が折れる。


 自分で言った言葉が、あとから胸のあたりへ戻ってきた。

 正しい。正しいはずだった。金がないのは罪ではないが、金がないのに人を助けようとするのは、時々ただの愚かさである。


 葉室慎吾なら、そう言うだろう。


 いや、あの男なら、もう少し嫌な言い方をする。


 善意で腹は膨れない。

 泣き声は質に入らない。

 子どもを救うには涙より銭だ。


 その通りだ。


 通りに出たところで、おえんの小料理屋の暖簾が見えた。

 昼の仕込みの匂いが、外まで漏れている。

 醤油と出汁と、焼いた葱の匂いだった。


 菊乃は吸い寄せられるように中へ入った。


「おや、菊乃さん。昼には早いね」


 おえんは大きな鍋をかき混ぜていた。

 白い割烹着の袖を肘までまくり、髪をきっちりまとめている。

 目だけはいつも笑っているようで、そうでもない。

 浅草で女一人、店を切り盛りしている人間の目だった。


「お茶をいただきに来ただけですわ」


「金は?」


「……つけで」


「高貴なつけだね」


「水無瀬家の信用です」


「浅草じゃ、現金の方が強いよ」


 おえんは湯呑みを置いた。

 菊乃は椅子に座り、扇を膝に置いた。


「何かあったね」


「何もありませんわ」


「何もない顔じゃない」


「では、何かあった顔とは」


「面倒な善人になるかどうかで迷ってる顔」


 菊乃は湯呑みに手を伸ばしかけて、止めた。


「わたくしは善人ではありません」


「知ってるよ。あんたは善人じゃない。善人ぶるには声が大きすぎる」


「ひどいお言葉ですこと」


「でも、見捨てるには少しばかり寝つきが悪くなる女だ」


 菊乃は黙った。


 おえんはそれ以上聞かなかった。

 ただ、鍋の火を少し弱めた。


 その沈黙が、かえって苦しかった。

 慎吾の毒舌とは違う。おえんは、答えを押しつけない。押しつけないから、こちらが自分で見つけてしまう。


 菊乃は財布を出した。


 中には、いくらも入っていない。

 小銭が数枚。紙幣は薄い。これで自分の食い扶持と、衣装の繕いと、次の支払いをどうにかしなければならない。


 それから、菊乃は袖の奥へ手を入れた。


 小さな帯留めがあった。


 翡翠に似せた石で、本物の翡翠ではない。けれど母が若い頃に使っていたものだった。

 水無瀬家がまだ少しは見栄を張れた時分の品で、菊乃にとっては、実用ではなく記憶に近かった。


 高くは売れない。

 それでも、いくらかにはなる。


「おえんさん」


「何だい」


「この近くで、口の堅い質屋はございます?」


 おえんは菊乃を見た。

 少しだけ、目を細める。


「あるよ。口は堅いが、値は渋い」


「結構ですわ。わたくし、褒め言葉も査定も期待しないことにしておりますの」


「誰の真似だい、それ」


「不愉快な男の悪影響です」


 おえんは短く笑った。


「じゃあ、その悪影響に感謝しな」

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