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第四話 自分の借金だけで手一杯ですの。他人様の不幸まで抱えれば、腕が折れますわ

 翌日の浅草は、昨日の雨をすっかり忘れた顔をしていた。


 忘れっぽい町である。

 昨夜どこかの娘が恥をかいたことも、どこかの男が客に噛みついたことも、朝になれば団子屋の湯気や、電車の軋む音や、呼び込みの声に紛れてしまう。

 浅草とはそういう場所だった。

 人の傷をいちいち覚えていない。

 その代わり、笑いになれば少しだけ残してくれる。


 菊乃は、その残り方がまだ少し気に入らなかった。


 駒形座の楽屋には、朝から白粉と埃の匂いがこもっていた。

 窓を開けても、外から入ってくるのは乾いた風ではなく、往来の騒がしさである。

 銀次が欠伸をしながら足袋を探し、小鈴が鏡の前で髪を結い直し、座長の松之助は帳面を睨んでいた。


 慎吾だけは、昨日とほとんど同じ場所にいた。


 机に片肘をつき、赤鉛筆で台本を汚している。

 汚しているというより、台本の方が慎吾に虐げられているように見えた。


「葉室さん」


 菊乃は声をかけた。


「何だ」


「昨日の台詞、少し受けましたわね」


「少しだな」


「もう少し景気よく認めたらどうですの」


「景気は劇場の入りで測れ。お前の自尊心で測ると、物価が狂う」


 菊乃は扇を開いた。


「わたくしの自尊心は、由緒ある高値安定ですわ」


「高値で売れ残ってるだけだろ」


「朝から人を不愉快にする才能だけは一流ですこと」


「お前も朝からよく喋る。睡眠中に口だけ休んでるのが惜しいのか」


 銀次が横から笑った。


「菊乃さんと兄さんが喋ってると、稽古前から客を入れたくなりますね」


 慎吾は銀次を見ずに言った。


「お前の芸よりは安定してるからな」


「うわあ、こっちまで来た」


「来させたのはお前だ」


 小鈴が笑いを噛み殺した。菊乃は不本意ながら少し機嫌を直した。

 昨日の舞台で、彼女はたしかに笑われた。

 けれど、それはただ落ちていく女を見る笑いではなかった。

 自分で階段を踏み外し、踏み外した足で次の段に立ったような奇妙な感触がまだ残っている。


 その感触を、慎吾は何も言わずに台本の中へ移していた。


 机の上に置かれた新しい紙に、菊乃の出番が一つ増えているのを、彼女はすでに見つけていた。


「ところで葉室さん」


「まだあるのか」


「わたくしの出番、増えていますわね」


「気のせいだ」


「紙に書いてあります」


「じゃあ紙のせいだ」


「責任転嫁が雑ですわ」


「お前の芝居に合わせた」


 菊乃は顎を上げた。


「つまり、わたくしには需要があると」


「事故現場にも野次馬は集まる」


「あなた、そのうち本当に刺されますわよ」


「お前にか」


「わたくしは高貴ですので、刺す前に予告状を出します」


「それは親切だな。逃げる」


「お逃げになるの?」


「予告されて刺される奴は馬鹿だ」


 その時、舞台の方から小さな泣き声がした。


 最初は誰かが台詞の稽古でもしているのかと思った。

 だが、二度目のしゃくり上げは明らかに子どものものだった。


 松之助が帳面から顔を上げる。銀次の軽口が止まった。小鈴がすぐに立ち上がる。


「小春?」


 舞台袖に、小春がいた。


 十になるかならないかの子役である。

 細い肩に少し大きな着物を着せられて、髪だけはきちんと結われている。

 いつもなら、誰より早く舞台へ出て、床の傷を足袋でなぞったり、銀次の真似をして叱られたりしている子だった。


 その小春が、今は目を赤くして、舞台の框に座っていた。

 そばに母親のおたみが立っている。

 顔色が悪い。

 帯の結び方が少し曲がっていて、今朝からただ事ではなかったことが分かる。


 楽屋の空気が、ゆっくり重くなった。


 松之助が先に声を出した。


「どうした、おたみさん」


 おたみは深く頭を下げた。


「すみません、座長さん。小春を……今日で、こちらに出せなくなりました」


 小春が顔を伏せた。


 銀次が言った。


「何です、それ。急に」


 おたみは唇を噛んだ。

 その沈黙を破ったのは、楽屋口に立っていた男だった。


 黒い羽織に、やけに白い襟。

 顔は笑っているが、目が笑っていない。

 こういう男は浅草にいくらでもいる。金の匂いのするところへ来て、金のない者の肩を叩く。


「急ではありませんよ。前々からのお話です」


 松之助の眉が動いた。


「誰だい、あんた」


「神田の興行を扱っております、仁村と申します。おたみさんとは、少々ご縁がありまして」


 慎吾が台本から顔を上げた。


「縁ね。紐の別名にしては品が悪い」


 仁村は慎吾を見た。


「何か?」


「いや。浅草には、縁を持ち歩いて人の首にかける奴が多いと思ってな」


「口の悪いお方だ」


「見る目のない奴に合わせてる」


 松之助が低く言った。


「葉室、黙ってろ」


「黙ると、こいつが喋る」


「どっちも困る」


 仁村は笑みを崩さなかった。

 おたみの肩が少し震える。


「おたみさんは、以前からこちらに借りがございましてね。まあ、こちらといっても私ではなく、私どもの旦那筋ですが。その返しとして、小春ちゃんにはしばらく別の小屋へ出てもらうことになりました」


 小鈴が言った。


「別の小屋って、どこよ」


「神田の方です。子どもがよく働ける場所ですよ」


 銀次の顔が曇った。


「それ、働けるって言うんですか」


 仁村は肩をすくめる。


「芸の道は、どこも厳しいものです」


 慎吾が赤鉛筆を置いた。


「便利な言葉だな。人を安く使う時は、だいたい道が厳しくなる」


 仁村は少しだけ目を細めた。


「おたみさんご本人の承知もいただいております」


「母親が首を縦に振れば、子どもの足まで勝手に売れるのか。勉強になる」


「失礼な」


「事実を綺麗に包む趣味がないだけだ」


 菊乃は小春を見た。


 小春は泣いていなかった。泣くのをやめようとして、かえって顔が歪んでいる。

 小さな手が着物の膝を握っていた。

 爪のところが白い。


 菊乃は胸の内に、嫌なものが沈むのを感じた。


 自分には関係がない。

 そう思った。


 この小屋には、金のない者が多すぎる。

 借金のない者を探す方が難しい。

 誰かが困るたびに財布を開いていたら、こちらが米を食えなくなる。

 水無瀬家にはもう、蔵もなければ、奥に眠る反物もない。

 持っている物を数えれば、あまりに少ない。


 だから、関係がない。


「お気の毒ですわ」


 菊乃は言った。


 声が、自分でも少し硬かった。


「ですが、わたくしにもどうにもできません。自分の借金だけで手一杯ですの。他人様の不幸まで抱えれば、腕が折れますわ」


 小鈴が菊乃を見た。銀次も何か言いかけたが、やめた。


 慎吾だけは見なかった。


 仁村は菊乃へ丁寧に頭を下げた。


「さすが、よくお分かりで」


 その言い方が、菊乃の耳に引っかかった。

 さすが。

 何がさすがなのか。


 没落しても旧家の娘は損得を知っている、という意味か。

 それとも、薄情を上品に言える女だと褒めているのか。


 菊乃は扇を握った。


 それでも、何も言わなかった。


 おたみが小春の手を取る。小春は一瞬だけ抵抗したが、すぐに力を抜いた。子どもは、大人の不幸に慣れるのが早い。早すぎる。そこがいっそう残酷だった。


 仁村が言った。


「では、夕方に迎えを寄越します。荷物は少なくて結構です。向こうで用意しますので」


 松之助が苦い声を出した。


「待て。今日の舞台は」


「出せるならお出しください。ただし、夕方までです」


 仁村は小さく会釈して去った。


 楽屋に残ったのは、湿った沈黙だった。


 小春が泣き出した。

 声を出さず、肩だけを震わせる泣き方だった。


 菊乃は、その場にいたくなくなった。


「……失礼いたしますわ」


 誰にも目を合わせず、楽屋を出た。

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