第三話 ご心配には及びませんわ。水無瀬家は昔から、見た目ほど高く売れたことがございませんもの
終演後の楽屋は、いつものように騒がしかった。
銀次は自分が受けたと主張し、小鈴は菊乃が噛んだ箇所を真似して、菊乃はそれに本気で怒った。
松之助は客入りの勘定をしながら、煙草の灰を畳に落としておえんに叱られていた。
慎吾は隅の机で、何もなかったように台本へ赤を入れていた。
「葉室さん」
菊乃は慎吾の前に立った。
「何だ。礼なら金でいい」
「誰が礼など申しましたか」
「じゃあ苦情か。お前の用件はだいたいその二つだ」
「先ほどの赤鉛筆」
「落ちた」
「あんな都合よく?」
「赤鉛筆にも人生がある」
菊乃は眉を上げた。
「あなた、やはりわたくしが立ち直ると思っていらしたのね」
「違う。立ち直らないと、二場目が死ぬ」
「わたくしではなく、芝居の心配ですの」
「お前の心配をして何になる。だいたい面倒な方向へ転がるだけだ」
菊乃は扇で慎吾の台本を軽く叩いた。
「最低ですわ」
「褒め言葉として受け取ってやる」
「褒めておりません」
「なら、なおさら受け取る」
言い合っていると、楽屋口の方が少し静かになった。
そこに倉橋義房が立っていた。
絹の羽織は昔ほど上等ではない。
けれど、本人はまだ上等なつもりでいるらしい。そういう衣服の着方をしていた。
視線は菊乃を通り越して、楽屋全体を眺める。
畳、衣装、白粉の粉、安い鏡、銀次の脱ぎ散らかした足袋。ひとつずつ値踏みして、最後に菊乃へ戻った。
「久しいな、菊乃さん」
菊乃は扇を開いた。
「倉橋様。お運びいただき、恐れ入りますわ」
その名を聞いて、慎吾が初めて男の顔を見た。
ただ、それだけだった。
倉橋という名前に意味があるのではない。
慎吾には、そういう目つきの男が一人増えただけだった。
「いや、驚いた。まさか、このような場所で水無瀬の名を聞くとは思わなかった」
「浅草は耳がよろしいのですわ」
「そうらしい。ずいぶん大きな声で笑われていた」
銀次の顔が険しくなった。小鈴が黙る。松之助が帳面から目を上げる。
菊乃は扇の骨を指で押さえた。
開いた扇は、手の震えを隠してくれる。慎吾の言いつけに背いたことになる。どうでもよかった。
倉橋は、さらに言った。
「水無瀬の名も、ずいぶん安くなったものだな」
空気が一段冷えた。
菊乃は笑った。
笑ったつもりだった。
「ご心配には及びませんわ。水無瀬家は昔から、見た目ほど高く売れたことがございませんもの」
倉橋の笑みが深くなった。
「それを自分で言うようでは、いよいよ――」
「安くなったのは名じゃない。お前の目だ」
声は横から来た。
慎吾だった。
机に置いていた赤鉛筆を指先で回しながら、面倒そうに立ち上がる。
顔には怒りらしい怒りはない。
だから余計に、言葉だけが刃物のようだった。
倉橋は眉をひそめた。
「何だ、君は」
「笑う場所を間違えた客に文句を言う係だ」
「無礼な男だな」
「礼儀が欲しけりゃ茶会に行け。ここは浅草だ。芝居を見る場所で、家柄の値踏みをする場所じゃない」
菊乃は息を止めた。
倉橋の顔が赤くなる。
「水無瀬家のことに、部外者が口を出すな」
「部外者だから見えるんだよ。お前らは昔の座敷に目が慣れすぎて、舞台の明かりが見えてない」
「何を偉そうに」
「偉そうなのはお前だろ。客席でふんぞり返って、今そこにある芝居じゃなく、古い家の値札を読んでる。そんな目なら、盃でも洗ってた方が役に立つ」
倉橋は菊乃を見た。
「こんな男と一緒にいるとは、水無瀬も落ちたものだ」
慎吾は即座に返した。
「まだ分かってないのか。落ちたんじゃない。舞台に上がったんだよ。お前みたいに客席で古い埃を撫でてる奴より、よほど働いてる」
倉橋の口元が引きつった。
しばらく、誰も動かなかった。
楽屋の外で、遠く笑い声がした。浅草の夜は、他人の屈辱に構ってくれるほど暇ではない。
倉橋は小さく鼻を鳴らした。
「浅草者の口は汚い」
「見る目のない客にはちょうどいい」
倉橋はもう一度菊乃を見た。
今度は何も言わず、踵を返した。
羽織の背が楽屋口の暗がりに消える。
銀次が低く口笛を吹いた。
「兄さん、今日はまた一段と切れ味がよくて」
「黙れ。お前は自分の台詞も切れ味も鈍い」
「こっちに来ます?」
「うるさい」
慎吾は机へ戻ろうとした。
菊乃はそれを呼び止めた。
「葉室さん」
「何だ」
「今のは、わたくしを庇ってくださいましたの?」
慎吾は心底いやそうな顔をした。
「違う。芝居を見ない客が嫌いなだけだ」
「では、わたくしの芝居は見る価値があったと?」
「転倒事故にも見る価値はある」
「あなた、死ぬまで素直になれませんのね」
「死ぬ時くらい黙る。期待して待て」
菊乃は扇を閉じた。
もう手は震えていなかった。
「けれど、今夜のあなたは少しだけ役に立ちましたわ」
「お前に評価されると、俺の人生が一段下がった気がする」
「ご安心なさい。もう十分下がっております」
「水無瀬家に言われると説得力があるな」
「葉室さん」
「何だ」
「明日の台本、わたくしの出番を増やしてもよろしいですわよ」
「誰が頼んだ」
「客が望んでおります」
「客に責任を押しつけるな」
「では、あなたが望んでいるということで」
慎吾は赤鉛筆を止めた。
ほんの一瞬だけ、菊乃を見た。
それから、台本へ目を落とす。
「お前が出ると、台本が不便になる」
「まあ」
「ただ、不便なものほど客は覚える。腹立たしい話だ」
菊乃は笑いかけて、やめた。
笑うと負けた気がした。
「では、せいぜい不便にして差し上げますわ」
「迷惑な女だ」
「高貴な迷惑です」
「値段は安そうだな」
「あなたの目が安いだけですわ」
慎吾は少しだけ口の端を動かした。
笑ったのかどうか分からない程度だった。
楽屋の外では、夜の浅草がまだ騒いでいる。太鼓の音、客引きの声、遠くの活動写真館から漏れる楽隊の調子。水無瀬家の客間にはなかった音ばかりだ。
菊乃は、その騒がしさを聞いた。
恥は消えなかった。
家名も軽くなったままだ。
客に笑われた事実も、倉橋に見られたことも、何ひとつなかったことにはならない。
ただ、舞台の上では笑いに変わった。
それが救いなのか、さらにひどい転落なのか、菊乃にはまだ分からなかった。
慎吾が新しい紙を一枚取り、赤鉛筆で何かを書き始めた。
「何を書いておりますの」
「明日の不便だ」
「わたくしの出番ですのね」
「転倒事故の続きだ」
「失礼ですわね」
「黙れ。面白くしてやる」
その言い方が、あまりに不遜で、あまりに乱暴で、そして少しだけ頼もしかったので、菊乃は今度こそ笑ってしまった。
慎吾は顔を上げない。
「何を笑ってる」
「いいえ。浅草というのは、本当に不作法なところだと思いまして」
「帰るなら今だぞ」
「帰りませんわ」
菊乃は扇を帯に差した。
「わたくしは今夜、落ちたのではありませんもの」
慎吾が赤鉛筆を止める。
菊乃は少し顎を上げた。
「舞台に上がったのでしょう」
慎吾は、今度は確かに笑った。
ただし、ひどく意地の悪い笑いだった。
「覚えが早いな。明日はその半分でいいから台詞を覚えろ」
「葉室さん!」
「声を出すな。客が帰ってくる」
浅草の灯は、夜が深くなるほど厚くなる。
その光の下で、水無瀬菊乃は初めて、笑われることと舞台に立つことが、まったく同じではないのだと知った。
そして葉室慎吾は、そのことを最初から知っていたような顔で、また一行、意地の悪い台詞を書き足した。
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