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第二話 笑うなら、もう少し大きな声でお笑いなさい

 菊乃は舞台へ向かった。


 袖幕の向こうは、白く熱を持っていた。

 安い照明に照らされた板の上は、いつも少しだけ現実ではない。

 けれど、現実より楽なわけでもない。

 客席の暗がりには、いろいろな目がある。

 笑おうとする目、値踏みする目、退屈そうな目、酔った目、何かを忘れたがっている目。


 その中に、倉橋義房の顔もあった。


 菊乃は、見ないふりをした。


 芝居は、金のない令嬢が長屋に迷い込み、長屋の者たちを下々と呼んで怒らせる筋だった。

 笑いどころは明らかに菊乃である。

 つまり、慎吾の悪意で出来ている。


 銀次が大げさに腰を抜かし、小鈴が頬を膨らませ、客が笑った。

 菊乃は出て、第一声を言った。


「わたくしをどなたと心得て――」


 そこで、ほんの少し噛んだ。


 客席の前の方で笑いが起きた。

 倉橋の顔が、暗がりの中でかすかに動いた気がした。


 菊乃の喉が縮む。


 いつものことだ。笑われるのは慣れている。慣れているはずだった。

 けれど今夜の笑いには、昔の座敷の埃が混じっていた。


 水無瀬の名も地に落ちた。


 誰かがそう言う前に、自分で聞いてしまう。


 菊乃は台詞を見失った。

 小鈴が舞台の端で、心配そうに目を走らせた。

 銀次が間をつなごうとして、妙な咳をした。


 その時、袖から赤鉛筆が一本、ころりと転がってきた。


 慎吾のものだった。


 客には見えない。菊乃には見えた。

 彼が投げたのか、落としたのかは分からない。

 ただ、その赤い色が目に入った瞬間、台本の書き足しが頭へ戻った。


 菊乃は息を吸った。


 そして、背筋を伸ばした。


「笑うなら、もう少し大きな声でお笑いなさい」


 客席が静まる。


 菊乃は顎を上げた。


「こちらも張り合いがございません。水無瀬家の娘が落ちるところなど、そう何度も見られるものではありませんわ」


 一拍。


 銀次がぽかんとした。

 小鈴が噴き出した。

 それにつられるように、客席から笑いが膨らんだ。


 今度の笑いは違った。


 菊乃は分かった。

 馬鹿にされたのではない。自分で差し出した恥に、客が乗ったのだ。


 それでも腹は立つ。

 腹は立つが、足は前へ出た。


「もっとも、落ちた先が浅草なら、地面もなかなか賑やかですこと。水無瀬の屋敷より、よほど人の声がいたしますわ」


 客がまた笑った。


 銀次が慌てて続ける。


「へえ、お嬢様。じゃあ、この長屋もお気に召しましたか」


 菊乃は銀次を一瞥した。


「掃除がなっておりません」


 小鈴が返す。


「お嬢様が掃いてくださる?」


「なぜ、わたくしが」


 客が待っているのが分かった。

 菊乃は少し間を置いた。慎吾がよく言う間である。悔しいが、効く。


「……ただし、箒の持ち方くらいなら、下々へ教えて差し上げてもよろしいですわ」


 笑いが起きた。


 菊乃は、その笑いの上に立った。

 膝の奥がまだ震えている。けれど、もう逃げる場所ではなかった。板の上には逃げ道などない。ないから、かえってましだった。


 芝居は進んだ。


 途中で菊乃はまた一度台詞を間違えたが、その間違いさえ銀次が拾い、小鈴が突っ込み、客は笑った。

 慎吾の台本は意地が悪い。

 けれど、役者が転んでも膝を擦りむくだけで済むように、変なところに藁が敷いてある。


 終わった時、拍手は大きくはなかった。


 だが、確かにあった。


 菊乃は頭を下げた。

 顔を上げる直前、客席の隅を見た。


 倉橋義房は笑っていなかった。


 それで菊乃は、ほんの少し勝った気がした。

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