第一話 ……戦略的撤退ですわ
駒形座の裏口には、いつも湿った木の匂いがした。
昼の雨が、板塀の隙間にまだ残っている。
裸電球は黄ばんだ光を落として、舞台裏に吊られた衣装の影を、壁へ痩せた幽霊のように揺らしていた。
表では三味線が調子を合わせている。
客の咳払い、下駄の音、安い煙草の匂い。
浅草の夜は、どこか汚れているくせに、妙に明るい。
水無瀬菊乃は、その明るさが時々いやになった。
扇を胸に当て、楽屋口から半身を出したところで、彼女はぴたりと止まった。
逃げるなら、今しかない。
客席に、あの男がいた。
倉橋義房。
かつて水無瀬家の客間で父と碁を打ち、祖母の葬儀ではもっともらしい顔で焼香をした男だった。
水無瀬家がまだ水無瀬家らしく見えていた頃、よく絹の羽織を着て訪ねてきた。
親族というほど近くはない。
他人というほど遠くもない。
だから厄介だった。
水無瀬家が傾きはじめた頃、倉橋の足は少しずつ遠のいた。
最後に会ったのは、たしか父の葬儀の後だった。
彼は菊乃に向かって、まだお若いのだから、と言った。
その声には憐れみがあり、憐れみの下に、ほっとしたような響きがあった。
自分の家ではなくてよかった。
菊乃は、そう聞こえた。
その男が、今夜、駒形座の客席にいる。
水無瀬の娘が、浅草の安小屋で、笑われるところを見に来ている。
「……戦略的撤退ですわ」
自分に言い聞かせるように、菊乃はつぶやいた。
逃亡ではない。戦略的撤退である。
言葉を変えれば、だいたいの恥は多少ましになる。
その時、背後から低い声がした。
「逃げるなら裏口だ。そこから出ると、帳場の婆さんに捕まる」
菊乃は肩を跳ねさせた。
葉室慎吾が、古い机に腰を預けて立っていた。
片手には赤鉛筆、もう片方には台本。
着物の袖口が少しほつれている。
本人はまるで気にしていない。
「……盗み聞きとは、品性に欠けますわね」
「聞かれたくない独り言なら、頭の中だけでやれ」
「わたくしは逃げようとしていたわけではありません」
「そうか。じゃあ、客席に背を向けて楽屋口の寸法を測っていたわけだ」
菊乃は扇を広げた。
広げたところで、手がわずかに震えているのが見えたので、すぐ閉じた。
「あなたには分かりませんわ。今夜は少々、事情があるのです」
慎吾は舞台袖から客席の方を一瞥した。
それから、菊乃を見た。
「客に知り合いがいるな」
菊乃は黙った。
「昔の水無瀬を知ってる男か」
「……なぜ分かりますの」
「芝居を見に来た顔じゃない。古い家具の値踏みに来た顔だ」
「家具?」
「お前のことだ。本人より埃の方をありがたがる連中は、だいたいああいう目をする」
菊乃は顔を背けた。
当たっていた。
当たっていたから、腹が立った。
「よくもまあ、人の嫌なところをそんなに正確に言えますこと」
「正確だから嫌なんだろう」
楽屋の外では銀次が声を張っている。
前座の馬鹿噺に客がぽつぽつ笑った。
その笑いが、今夜に限って遠く聞こえた。
「水無瀬家の娘が、浅草の小屋で笑われるのですわ」
「そうだな」
「それを昔の知人に見られるのです」
「便利じゃないか。伝言の手間が省ける」
「葉室さん」
「敬称で怒るな。余計に腹が立つ」
菊乃は唇を結んだ。
本当なら、こんな男の言葉など相手にしなければよい。
水無瀬家の娘として、薄く笑って、扇の影へ置き去りにすればよい。
そうやって生きてきた。
家が傾いてからは、なおさらそうだった。
けれど慎吾は、扇の影を覗き込んでくる。
下品なほど遠慮がない。
そして、いやになるほどよく見ている。
「客は家系図を見に来たんじゃない」
慎吾は言った。
「お前が転ぶか、噛むか、泣くか、笑わせるかを見に来たんだ。水無瀬家の値段なんぞ、木戸銭に入ってない」
「わたくしが笑われても構わないと?」
「笑われろ。どうせお前は、逃げても笑われる」
菊乃は睨んだ。
「なんて励まし方ですの」
「励ましてない。事実確認だ」
「あなたは本当に、人の心というものを質屋へ預けてきたのではありません?」
「預けても値がつかない」
慎吾は台本を差し出した。
菊乃は受け取らなかった。
「何ですの」
「二場目の入りを一行変えた」
「勝手に?」
「俺の台本だ」
「わたくしの舞台ですわ」
「だから変えたんだ。お前が逃げずに出るなら、こっちの方が立つ」
菊乃はようやく台本を受け取った。
そこには赤鉛筆で、短い台詞が書き加えられていた。
――笑うなら、もう少し大きな声でお笑いなさい。こちらも張り合いがございません。
菊乃は、しばらくその文字を見た。
古い紙に、赤い字が妙に生きていた。
腹立たしい。
けれど、確かに自分の口に合う。
彼はこういうことをする。
人を蹴飛ばすように言葉を投げて、そのくせ、こちらが倒れずに済む場所だけは測っている。
「……相変わらず、性格の悪い台詞ですこと」
「お前に合わせた」
「失礼ですわね」
「礼儀が欲しいなら、客席のあいつと茶でも飲め」
菊乃は台本を握ったまま、少しだけ笑った。
笑ったことに気づいて、すぐに顔を引き締めた。
「よろしいですわ。そこまでおっしゃるなら、出て差し上げます」
「舞台に恩を売るな」
「では、あなたに売ります」
「値切るぞ」
「最低の男ですわね」
「今さら気づいたのか。観察が遅い」
表から声がかかった。
「菊乃さん、次です!」
菊乃は一度、目を閉じた。
古い座敷。白い襖。母の匂い。
傾いた家の中で、誰も貧しいとは言わなかった。
言わないことで、かえって貧しさが濃くなった。
それらが一瞬だけ胸の奥へ寄ってきた。
慎吾が言った。
「水無瀬」
菊乃は目を開けた。
「何ですの」
「扇は開くな」
「なぜ」
「震えてる」
菊乃は扇を見た。
確かに、指先がわずかに揺れていた。
慎吾は続けた。
「手を隠すと、客は手を見る。胸を張れ。お前の虚勢は、正面から見せた方がまだ値打ちがある」
「虚勢ではありません。気品です」
「じゃあ、その気品を転ばせるな」
菊乃は扇を帯へ差した。
「見ていらっしゃい。水無瀬菊乃の高貴なる勇姿を」
「勇姿はいい。台詞を忘れるな」
「あなた、本当に一言多いですわ」
「一言で済んでるうちに行け」




