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パレイドリア  作者: 江坂慶介


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8/10

光を浴びる/後編

 統がテレビのリモコンを持つ時、情報を得たいという気持ちが二割、残りの八割が惰性だ。リビングに着けば、ほとんど反射的に電源ボタンを押す。そうすると、リビングが一気に華やぐ、気がする。光と音の無い部屋は統にとってあまりに寂しい。だから、とりあえず、点ける。

 統と一寿の昼夜は入れ替わっているので、仕事を一段落終えてテレビを点けても、ワイドショーばかりが目に入る。そして気が滅入る。ニュース原稿作る奴って、世の中を腐したいんかな。そういう目的で作ってんなら納得できる。エンタメのニュースなら関心を持てるが、それ以外はてんで頭に入らない。頭悪いし、俺。そう思いながらも統は、そもそも頭に入れようとしていない自分がいることを笑った。とにかく朝のワイドショーは、コメンテーターたちがこぞって悪口を言う番組、という印象しかない。なんだって疲れた体に悪口を流し込まねばならないのか。このアナウンサー、また禿げたな。おい、このコメンテーター、昨日もいたでしょ。レギュラーじゃん、もう。あ、あのバンドのベースが不倫した話、まだ引き摺ってんの。その話してんの日本中探してもあんただけよ、もう。ま、蒸し返せばみんなまた湧くんだけどさ。

 一寿はまだベッドにいるらしい。道理で、返信が遅いわけだ。昨日、体力使ったから、疲れた? なんて聞こうにも当の本人が爆睡中だからつまらない。――昨日じゃねえか、正確には一昨日? あれ、どっちだっけ。

 テーブルに置いた卓上カレンダーを確認しようとして、統は軽く腰を浮かす。その時、テレビに映されたニュースが切り替わった。

『アイドルの握手会に、刃物を持った男が乱入しました』

 手元の紙をぺらりと捲り、局内にいるらしい女性キャスターがそんなニュースを告げる。お、事件っぽい、事件。不謹慎なもので、ようやく統は姿勢を正しテレビに向き直った。

『昨日五日に行われた、アイドルグループ・花霞14の握手会イベントにおいて、刃物を持った男が乱入しアイドルの一人に軽傷を負わせたとのことです』

 花霞ちゃん! 統は画面を指差した。当たり前だが、女性キャスターはそのままニュースを読み上げ続ける。

『男はカッターナイフのようなものを右手に持ち、イベント客との握手を待つメンバー・藤岡芽以さんのレーンに並び、順番が来たところで彼女の左腕に向かって刃物を振り上げました。藤岡芽以さんは全治二週間の軽傷を負いましたが、命に別条はないとのことです』

 あれ、解散するのに握手会なんかやってたんだ。まあいいか。男の名前は出るのかな、これ。

『事件を起こした男、奥野紀之容疑者は都内在住の大学生で、銃刀法違反及び暴力行為等処罰に関する法律違反の罪で現行犯逮捕され、拘置所に移送されています。警察の調べに奥野容疑者は、こんなはずじゃなかった、何もかも僕のせいです、と語ったそうです』

 大学生かあ。もしかして大ファンだったとかかな。まあ暴れたくなる気持ちもわかるけど、なんでそれでメンバー傷つけるんだろうなあ。かめこちゃんって俺でも知ってるメンバーなのに。実は人気じゃなかったりするのか。

『アイドルグループ・花霞14は、今月の一日に公式サイトでの突然の解散発表が話題となっており、今回の握手会イベントは活動ラストライブを兼ねたイベントだったとのことです。続いてのニュースです』

 あ、やっぱり、解散はするんだよなあ。ていうか、もうしちゃったのか。昨日がラストだったんだ。へえ。ラストでこんな事件起きるなんて、なんか、かめこちゃんって、ある意味持ってんなあ。

 統は、無意識にスマホを手繰り寄せ、ブラウザアプリの検索欄に藤岡芽以と入力した。すぐさま公式サイトや辞典サイトが引っ掛かる。画面上部に表示された画像一覧には、吊り上がった瞳でこちらをきりりと見つめる、頭の良さそうな少女。こりゃ、解散だろうがなんだろうが、まだまだ仕事は舞い込むだろうなあ。統は、スマホの中の藤岡芽以をしばらく眺めた。只者じゃありませんよ、って顔が言ってる。特別な美少女とか、世紀の麗人、お人形並みのきゅるんきゅるんフェイス、なんてわけはないのだが、なんとなく目が離せない。何をしていても見透かされたような気に、――なりそう、な感じだ。実際会ったことも喋ったこともないから、言い切れはしないけど。

 統は、彼女が傷つけられる様をイメージしてみた。頭の中で、藤岡芽以が、スポットライトを浴びながらそのポーカーフェイスを存分に発揮させている。そこに、図体の大きな青年が現れて、彼女の眼前にカッターの刃をちらつかせる。ちき、ちきとカッターが刃の音を奏でる。藤岡芽以は、ただずっと仁王立ちで、刃に映る青年の瞳を見つめている。青年が、彼女に歩み寄る。それでも、藤岡芽以は、動かない。いよいよ、青年がカッターを持つ右手を振り上げる。藤岡芽以の白い肌に、ぴっと赤い線が滲む。鮮血が弾けて、色のない板の上に模様を作り出す。それでも、藤岡芽以は、動かない。細い細い左腕から流れる血を拭うこともなく、ただ、その双眸で、刃の先を見据えている。それこそ、突き刺すように。

 ――いや、駄目だな。この子がしくしく泣いてるところは想像できない。

 そういう大人の作戦、というか、ブランディングなのは統の頭でも理解できる。それでも、統は藤岡芽以のことを知らない。この、鋭い視線の宣材写真と、ロックナンバーを踊り狂う彼女の姿しか知らないから、彼女でも泣いたり困ったりするという実感が、湧かない。まだ二十になったばかりの少女だというのに、彼女も人の子だと言うのに、これじゃあ、まるで。藤岡芽以には、性別も年齢も感じない。そういう生き物、みたいだった。

 大人に作り上げられたアンドロイドなんじゃないか。そんな阿呆みたいな疑念が統の頭を支配した。

 そして、気がつけば、検索欄に【藤岡芽以 笑顔】と打ち込んでいた。

 進化したインターネットブラウザは案外素直で、動画や個人サイトなどいくつもの項目を一気に提示してくれる。何度かスワイプを繰り返して、ある動画のリンクをタップする。

【藤岡芽以がMCに挑戦! 素のかめこ、笑顔が可愛すぎる件】

 明らかに素人が考えた適当な動画タイトルに、すぐそれがテレビ放送からの転載であることを察する。サムネイルから見るに、昼間に放映される生放送の情報番組か。さすがはインターネット、どんなに整備を行っても結局は昔と変わらない無法地帯。ま、なんでもいいけどね。真面目に金落としてるファンにぶっ殺されても文句言えないなあ、俺。統は、にやつく口許を押さえながら動画の再生ボタンを押す。

 画面の中の藤岡芽以は、まったく年相応の少女だった。

『じゃ、えっと、今回は、私が……MCを、務めさせてもらおうと……』

『どこ見てるの!? 緊張しすぎ!』

『あ、はははっ、ごめんなさい、ごめんなさい』

『頑張れ藤岡!』

『やだあ、恥ずかしい、今のとこカットでお願いします』

『生だから! 無理だよそれは!』

 宣材写真より幾分か幼い表情の藤岡芽以が、上半身をくねらせたり手で顔を覆いながらへらへら笑っている。スタジオにいる芸人にツッコまれ、スタッフの方を見たり、他のゲストを見たり、視線を泳がせている。いかにも、バラエティなんか初めての、思春期の女子アイドルといった具合だ。芸人のリカバリーもあって空気が冷えることはないが、生放送でこんなグダグダした進行を見せられては、反感を覚える人間も多いだろう。特にこの時間帯の番組は、ながら見の主婦やデスクワークを生業とする視聴者層が厚い。アイドルファンからは優しい声が上がるだろうが、番組にはそこそこのクレームが集まったんじゃなかろうか、と統は邪推した。

 案の定、動画のコメント欄ではアイドルファンと思わしきアカウントたちの【可愛すぎる】【天使】【ギャップが最高】という意見と、【何コイツ】【テレビなめんな】【芸人さん可哀想】といった意見が真っ向から対立している。ファンのアカウントはみんなそれぞれの〝推し〟なのであろう美少女たちをアイコンにしているが、批判的意見はどれもフリー素材や初期設定のままのアイコンだ。こんなわかりやすいこと、ある? 統は込み上げる気持ちを堪えて、くつくつ笑った。自分じゃない、自分の好きなものを自分というアイデンティティに設定してしまうファンたちの盲目さ、健気さも、情報のない真っ新な姿で自分は俯瞰的ですというスタンスを取りたがる批判側の厚かましさ、生真面目さも、どれもこれもおかしくて仕方がない。

 いやいや、これ一人だったら空気冷え冷えだからね。ギャップとかいう問題じゃないから。ていうか、社会性ありませんキャラのアイドルが、テレビ出たらへらへらしっ放しってそれ、ギャップじゃないでしょ。むしろキャラ通りじゃん。

 何コイツってお前、この動画タイトル見て開いたのお前だろ。お前はテレビ出たことも作ったこともないだろ。偉そうだな。可哀想ってなんだよこれリカバリーできるってのは芸人のスキルじゃん、憐れむんじゃなく褒めてやれよ。さては、〝繋がり〟目的のお笑い好き女子ってやつかな?

 リプライで攻撃し合う他人同士を見て、統はどんどん愉快になった。これだから面白いんだよな、インターネットは。

 ネットを使うのにアイデンティティが必要になったのはいつ頃からか。そのくらいの時代から、こういう争いは増えた、と統は漠然と思う。意見を求めていますと言う奴が求めているのは同意だ。議論をしましょうと言う奴が本当にしたいことは言い負かすことだ。みんな、学校という箱の中でふんわり学んできたことが、この時代はスマホを開くだけですぐ堪能できる。異を唱える奴は、大きな声を出したいだけ。指摘という建前で行われるのは、ただ文句を言い合う会だ。弱者に寄り添いたいと宣う奴は、弱者じゃない。多様性を認めよう、は、あたし達って変わってるよね、とおんなじ意味。

 統はそういうのを見て、けたけた笑う。統のような人間は正論によるとどうやら、寄り添われ認められる側、らしい。そんなことで自分のアイデンティティを証明したいなんて、馬鹿げている。俺もお前も肉の塊でしかないよ、肩書きなんて要らないよ。でもそういうことを言う奴は正しくない。他人に優しくしたがる奴は、優しくない奴に厳しい。そしてそういう優しい人間がいると、優しくされる側の人間がいる。そのターゲットにされている、と思うと統はいつも可笑しくてたまらない気持ちになった。

 ソファに凭れて、まだ開けてないカーテンの先を見る。もう日が昇っているけれど、光を取り入れよう、という気にならなかった。蛍光灯で十分じゃん。誰にも聞こえていないけれど、誰も聞いていないけれど、そんな言い訳をする。人間は太陽光を浴びないと不健康になるとか、外から見てずっとカーテン閉めてる部屋はヤバいとか、あと滅茶苦茶カビが生えるとか、そんなことはわかっている。そして、統はたぶん、あと五分か六分したら溜息吐いて立ち上がってカーテンを開けている。でも、なんか、今はいっか。手元に渦巻く無法地帯をそっとテーブルに置いて、しばらく宙を眺めた。



「オサムちゃん、アイドルの歌なんか聞くのな」

 ナナが言った。まあね、と統はスマホをひらひらと振って見せる。その画面には、『光を浴びる』『花霞14』の文字が並んでいる。

「最近解散したやつっしょ」

「そうそう」

「そんでなんか、腕切られたやつ」

「そうそう」

「ファンなの?」

「うーん、どうかな。好きだけど、本気の人からは怒られるかも」

「そういう感じね」

 そういう感じ、でこれを済ませられるナナはやっぱり、ちゃっかりした性分だと思う。統がブルートゥースイヤホンをデスクに置くと、ナナはすっとその場を離れた。話を聞いてやろうとするとどこかへ行くし、忙しい時に限ってうるさいのは彼女が彼女たる所以なので、もう気にしない。

 外したイヤホンからまだ音が流れている。ピアノを基調とする、静かなメロディ。か細くて頼りない、少女たちの声。何度もリピートしたわけじゃない。だけど、たまにこうして、聴きたくなる日がある。

 ――太陽が僕たちを突き刺すから、僕たちは太陽を睨み返した。

 ――だけどある時、気づいてしまった。

 ――地面も、風も、心も、温められている。

 ――きっと、僕も、君もそうなんだろう。

 ――光を浴びて、生きていかなきゃいけないんだろう。

 情けない少女の声が、代わる代わるそんな歌詞を唄う。誰が誰の声だなんて、統にはわかりっこない。なのに、そのメロディに浸りたくなる。詩的でもないその稚拙な歌詞と、まだ未発達の歌声、なんてことないよくあるメロディライン。

 『光を浴びる』は、統がサブスクリプション契約の音楽アプリでシャッフル再生を掛けた時、耳に入った曲だった。その頃から統は、花霞の名前は知っていた。しかしメンバーはおろか曲なんか一曲も知らなかった。だから、興味本位でそのまま流していた。どうやら、シングルの限定版にしかないマイナーな曲らしい、というのは画面を見てわかった。ジャケットの画像が妙に陳腐で、曲もなんだか噂に聞くより安っぽかったからだ。

 もう一度聴こう、とは思わなかった。なのに、アプリはいつもこの曲を勧めてきた。聞き流しているうちに、悪くないなと感じるようになった。聞けば聞くほど、安っぽくて綺麗事の歌だ、と思った。その安っぽい綺麗事が、統の耳にはありがたかったのだ。

 難しいことを言う方が簡単な世の中になった。難しいものを褒める方が、褒められる世の中になった。統は、そんな気がしていた。

 勉強しないでカラオケに行ってオールして、夜じゅう公園を占拠してバスケで遊んで、教師に悪態ついてテストで零点取って、そういう奴は〝ダサい〟奴になってしまった。すっかり、だ。勉強も運動もできなかった統はそうやって遊ぶしかなかったのに、今となってはすべてが〝ダサい〟思い出になってしまった。そんなこと大声で言うもんじゃないなんて、聞き耳立ててるのはそっちの癖してね。

 お笑い芸人を見て笑うと、怒られることがある。女優の演技に感動していると、嘲笑される時がある。理不尽を腐せば、巡り巡って誰かが勝手に傷つく。誰も傷つけない人だけが評価される。正しいものだけが評価される。今の若い子は生き辛いだろうな。いいじゃんね、楽しいことができるなら。

 かめこちゃんを刺し殺そうとした青年は、それでスッキリしたのかね。殺したいくらい憎いこともあるよね。

 解散が決まった花霞ちゃんのメンバーは、みーんな納得したのかな。疲れちゃったなら、辞めたいよな。

 ナナちゃんは、俺のこと気色悪いアイドルオタクだって思ったかしら。理解できないものには、そりゃあ近づきたくないよ。

 ――太陽が僕たちを突き刺すから、僕たちは太陽を睨み返した。

 ――だけどある時、気づいてしまった。

 ――地面も、風も、心も、温められている。

 ――きっと、僕も、君もそうなんだろう。

 ――光を浴びて、生きていかなきゃいけないんだろう。

 あーあ、いつからこんなにいろいろ、面倒臭くなったのかなあ。

 明日も、明後日も、好きなものが殺されないように生きていくしかない。花霞を殺したのが、世間からのバッシングだというなら。安っぽい綺麗事を、上等で尤もな正論が殺してしまうというなら。

 ――俺はいったい、どうやって生きていけばいいんだろうなあ。

 イヤホンから漏れていた声が途切れた。ああ、ちゃんと充電してから来ればよかった。



【匿名:1時間前

かめこちゃん刺されたってマジか】

【匿名:1時間前

まだ二十代でしょ。可哀想】

【匿名:57分前

アイドルのオタクって本当に厄介だな】

【匿名:52分前

花霞って狙った感じがあって嫌いだったんだけど、もしかしてこれもパフォーマンス?】

【匿名:44分前

酷い。きっと彼女はトラウマになっただろうに】

【匿名:36分前

解散したんじゃなかったっけ】

【匿名:35分前

女性から見た時、ただでさえ力で劣る相手である男性が刃物を持っているなんて、恐怖で立ち直れなくなってもおかしくない】

【匿名:22分前

藤岡ちゃん好きだった。解散後はどう転向するのかな】

【匿名:22分前

ゴリ押し営業アイドルはよ消えろ】

【匿名:21分前

もう芸能界にいない小娘のニュースとか、マスコミも話題作りに必死だな】

【匿名:10分前

一人の女の子がファンを名乗る男に襲われたって事実、これが問題】


【匿名:1分前

可哀想だな、この子】



「あのさあ」

 統はスマホから目を離した。どうしたの、と訊けば、一寿は温めた容器をただじっと見ている。見ているというより、考え事をしているらしい。一寿は、言葉に詰まった時に一点を見つめる癖がある。

「気に入らなかったか、牛丼は」

「違う」

 じゃあ何よ。形式的にこう言ってはみるけれど、言葉が返ってくることはあんまり期待しない。一寿は口が上手い方じゃないし、一度口籠ると長い。考えるからだ。自分は今何を言いたいのか、何を相手に伝えたいのか、それを咀嚼して噛み砕いて言葉にするまで、時間がかかる。素直すぎて、真面目すぎて、考えすぎる。不器用な男だ。だから、こうなると長い。こちらの関心を惹こうとして声を掛けたはいいけれど、何から話せばいいかわからないのだ。頭がいっぱいいっぱいになって、一点を見つめるしかできなくなる。足りない頭で、ショートするまで思考する。可哀想だな、と統の中の誰かが言った。可哀想って、なんだそれ。いい歳こいた男だよ、こいつ。

 欠伸を一つ噛み締めて、統も容器の蓋を開けた。だいたい三分経ったかな。ぺりぺりと蓋を剥がしていくと、白い湯気と醬油味の匂いが部屋に流れてくる。割り箸を左右から持つ。ぱきん、と言って箸が二本になる。

 さて、何と言ってくるかな。やっぱカツ丼がよかった、かな。それとも、牛丼食べたかったから嬉しい、とか、はないな。じゃあ、あれかな、テメーまた洗濯物にティッシュ入れたままだったな、とか。いやいや、昨日と一昨日はちゃんと確認してから出しましたよ。仕事入ってきたからまた忙しくなるわ、とか。こいつはそんな話、俺にしないじゃん。じゃあ、なんだろう。出ていけ、って言われるかな。そろそろ。

 別れよう、って言うのかな。それか、もう会わないでおこう、って言うのか。

 どれも違うな。最初から、一緒にいたいとか住みたいとか愛し合いたいとか、一言だって交わしたことないし。

 友達と言うにも恋人と言うにもおかしい。名前のない関係。正しくない関係。統と一寿は、ずっと間違っている。

「あのさ、」

 どうした、と返す声が震えていて、自分でも笑えてしまった。あーあ、いっつもこう。面白くない、怖いとき、いつも笑えてくる。心の底から、可笑しさが込み上げてきて、溢れる。くだらない、情けない、どうしようもない。統は、自分はもうとっくに頭がおかしいんだと思った。頭がおかしいから、泣きたいとき、怒りたいとき、許せないとき、笑うことしかできない。考えることが止まらなくて、誰の味方にもなれない。誰の気持ちも痛いほどわかって、誰の気持ちにも寄り添うことができない。だから、こうやって、目の前の男一人、理解ができない。ずっと間違っている。ずっと、正しいコミュニケーションができないでいる。

「俺、仕事でさ、やりたいことがあって」

 うん。うん、知ってる。

 苛々した。その先なんてわかり切っているのに、こちらを傷つけまいと気を遣う姿勢が、愛おしくて仕方なくて苛々した。ちぐはぐな統の中の方が、今すぐにでも目の前の男を殴って殺して口も聞けないようにしてやりたいと思った。そうできたら楽だと、楽になりたいと思った。

「それは、その、たぶん、ここで俺たち二人で住んでたら、無理なんだよね」

 うん、そっか。

「無理って言うか、もうちょっと都心、いいとこに移りたい、と思ってて」

 ああ、そう、じゃあ。そうだね、だから。

 だから、


「だから、一緒に来てほしくて」

 

――無理だったら、別にいいんだけど。

 牛丼を見つめながらぶっきらぼうにそう言った。一寿の耳の端が、少しだけ赤い。

 なんで、そんな。

「なんでそんなこと言うの」

 思わずそう声に出ていた。眉を寄せて、呆れたように溜息を吐かれる。

「嫌ならいい、別に、俺一人で引っ越すから」

「いや、なんで」

「だから、別に。ついてこいなんて言ってないし、ただ、でも」

 一寿がまた唇をもごもご動かして、大きく息を吸う。

「区によっては俺らみたいなのが一括りになれる制度とかもある、みたいだし」

 一括りに。自意識やプライドが邪魔をしたのか、濁しに濁したその表現に思わず統の口が開いた。一括りに、なれる。

「な、何その言い方」

「わかるだろ! なんか、あの、横文字多くて覚えられねえんだよ」

「いやいや、絶対覚えてるじゃん、言ってよ、教えてくんないとわからないよ」

 牛丼に注がれていた視線が突然向きを変えて、統のそれとばちんと重なった。

「俺らみたいなの、でわかるだろ」

「わかんない」

「おい、俺らみたいなのに、正式な名前なんかないだろ、バカ」

 明らかに淀むその声色に、思わず手を叩いた。俺らみたいなの、確かに。そう言うと、一寿は余計にきっと顔を顰めて怒る。

「いいよもう、そんなに言うなら、ついてくんな」

「ちょっと待ってくださいよ」

「いい、もう、悪かった! 忘れろ!」

 この期に及んで謝罪なんてするのだから、こいつはどこまで行ってもクソ真面目だ。どうやら、統が本気で迷惑がって、話を逸らそうとしているのだと一人で結論づけたらしい。違うよ、と統が言えば、一寿がわかりやすく目を丸くした。

「一緒に行こ。そんで、一括りになろ」

 部屋に充満した二つ分の湯気が、どこから出ているのかもうわからなくなった。統は、こんな自分が気恥ずかしくて仕方がなかった。だって、もうすっかりこいつのことが好きだ。ムカつくほど、悲しくなるほど、悔しくてどうしようもないくらい、こいつのことばかり考えてしまう。柄じゃないのに。

 でも、まあ、世界中に一件くらい、こういう家があってもいいよね。名前とか、絶対とか、自立とか優しさとか正論とか、なんにもなくたって、俺ら二人だけだから、許してくんないかな。頭の中に巣食う誰かに、舌を出してそう言い訳をしてみせる。


 ――だけどある時、気づいてしまった。

 ――地面も、風も、心も、温められている。

 ――きっと、僕も、君もそうなんだろう。

 ――光を浴びて、生きていかなきゃいけないんだろう。


 統の中で胡坐を掻く誰かが、やっぱり彼女は可哀想だ、と言う。同時に統は、その陳腐な歌詞を歌い上げた藤岡芽以と、――たった一度でいいから、握手をしてみたい、と思った。


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