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パレイドリア  作者: 江坂慶介


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7/10

光を浴びる/前編


「はい、かしこまりました、じゃあオーダー通しておきますので」

 統は笑った。

 オーナーは部屋の奥だ。嬢たちはそれぞれ、鏡やスマホを気にしている。統のその作り笑顔を目にしている者は誰もいない。受話器を置くと、統の口角は降下する。それは張り詰めた弓が矢を弾かれ、ぱちん、と元の形に戻るようだった。

 持ったままだったペンを一度テーブルに置き直す。用紙の一番上を引き破ると、びり、と大きな音が響いた。嬢が一斉にこちらを向く。

「はい、ナナちゃん入りまーす」

 破った紙を人差し指と親指で摘んで、ひらひらと舞わせる。統の視界の端で、ナナが立ち上がって、怠そうに息を吐いた。

 統がデリヘルのバイトを始めたのはちょうど一年ほど前の話だ。元は車内で深夜ラジオを聞きたいがためにドライバーとして志願したのに、勤務から半年ほどで内勤の電話受付の担当に変えられた。とは言っても、電話を受けて相手の注文を聞き、それを伝達するだけ。あとは店長の言われた通りに使い走りを演じ、掃除や雑用をこなす程度の、統にとって簡単な仕事だった。統は昔から、話をするのと聞くのだけは上手いとよく言われた。客がどんな女性をイメージしているか、言葉巧みにワードを引き出してその様相を捉える。この作業だけしていればいいバイトだなんて、統にとって天職とさえ思えた。時折、切羽詰まったようにがなるクレーム電話が入ることもある。しかし、統の心はいつも穏やかだった。なぜなら、統はこの店に電話を掛ける客をことごとく見下しているからだ。奴らが、今から自分は性欲処理をします、そんな宣言をしているように思える。自分はただ電話口の声色しか知らないのに、恥部まで暴いてしまう気さえする。無精に様に髭を生やした小太りのオッサン、いい歳こいて仕送りとバイトで生計を立てる二十八歳、運動も勉強もろくにできず、あまつさえ腕っ節も弱い最低の人間――もとい自分に、同じく男である彼らは自らの全てを晒しているのだ。いい気味だった。

 統は、ナナが立ち上がったのを確認して、またにっと口角を引き上げた。

「また例のお兄ちゃんよ、ナナちゃん」

 狭い部屋に、統の嗄れた声がよく反響する。

「あの人、面倒臭いんだよね」

 ナナが長い髪を手で弄りながら、準備を始める。統は、この動作が何を意味するのかわからない。女の子は大変だな、と思いながら、鏡の前をうろつくナナをぼんやりと眺める。

「フェラしてる最中に、美味しいかどうか聞いてくんの。キモくない? 美味しいわけねえじゃん、体の一部だぜ」

「ぎゃは」

 ヘアアイロンをこちらに掲げながら、ナナはちっと舌を鳴らす。彼女は口と柄が悪い反面、猫を被るのも上手い。つまり人気が高いのだ。

 統はナナのさっぱりした生き様をかなり好いていた。嬢の中でも特段話しやすく、また馬が合う。彼女は嘘つきだ。統もまた嘘つきであるため、彼女の中にある激しい表裏が垣間見える時、面白くて仕方なかった。

「今日のは美味しいかもしれないじゃん、期待していこうやあ」

「日によって味変わんの? シェフの気まぐれチンコじゃん」

「なんじゃそりゃ」

 統が声を上げて、ひゃはは、と背を反らし笑うと、座っていた椅子がギイと鳴った。

「まあまあ、人気なのはよいことですから」

「うざ」

 二人の単調なやりとりに他の嬢が、セクハラ、と横槍を入れる。

「勘違いだってばー、よしてよフミちゃーん」

「うっせえドーテー」

 おもちゃの宝石箱が宙に放り投げられたような、きらきらとした笑い声が浮かぶ。

 あーあ、羨ましいな。

 童貞ちゃうわ、と大きく叫べば、嬢たちは一際楽しそうにきゃあきゃあと騒ぎ出す。

「オサムちゃんって今年でいくつだっけ」

「今年でまだ二十九ですー、魔法使いとは言わせませーん」

「やば、見抜かれてる!」

 テレパシー使えるとか、やっぱ魔法使いじゃん! 誰かが言うと、マジだマジだと全員が言い出した。じゃれんな、うっせー。けらけら笑って全員をいなしつつ、統は尻ポケットの中で光るスマホに手を掛けた。


【飯島一寿】

【ズボンのポケットにティッシュ入れたまま洗濯機入れんの まじでやめろ】



 朝になると世界が動き出す気がする。

 比喩とかではなくて、地球そのものがまるまるさっきまで止まっていて、時計が五時を回る頃にようやくぎこぎこと動き出しているような、そんな気がする。統はコンビニのレジ袋をちょっとだけ振り回す。がさがさ、と風が袋を鳴らす。

【ごめんー、洗濯あざす!】

【メシ買ったけど牛丼とカツ丼ならどっちがいい?】

 片方の手でスマホを操作する。統の使っているスマホは小さいから、その大きな手にすっぽりと入り込んでしまう。ぱぱぱ、と文字を打ち込んで、送信。この時間でもそろそろTシャツ一枚は寒いな、先月まではまだ暑かったのにもう冬が来るんだな、とぼんやり思っているうちに、ぽん、とスマホから音がする。返信だ。

【カツ】

 一寿は返信が早いし、何より端的だ。統はその二文字を親指でなぞって、またメッセージウィンドウを開く。

【オッケー! なる早で帰りますので、待っててねー】

 ぽん。

【了解】

 了解。簡素なメッセージが、統の脳内で読み上げられる。一寿の声。低い癖にか細いんだけど、滑舌が悪くて赤ちゃんみたいにもたもたしている、あの一寿の声。りょうかい。それだけなのに、それだけなのに、統は少しだけ駆け足になる。ぎこぎこ、動き出した街が、浮き足立つ統を迎え入れた。



「は、マルハチかよ」

 一寿は厚い唇を尖らせる。

「ミナミマートだと思って期待したじゃん。スーパーマルハチのカツ丼は玉葱多いんだよな」

「文句言わんと食いなさいよ、買ってきてあげたんだから」

 統が置いたレジ袋をがさごそと漁りながら一寿は、げえ、と不服そうな表情をしている。あ、めんどいかも。

「じゃあ玉葱食べて。よけとくから」

「いやいや、俺が残飯処理係かいな」

「当たり前じゃん」

 何が当たり前や。しかしこれを言ってしまうと、大喧嘩が始まり二つの丼が冷めてしまうので黙っておく。偉いな、俺。統は自らの薄い胸板を撫でつけながら、不平を言う一寿の手を退けて、ほかほかの丼たちをテーブルに並べていく。一寿はテーブルの前に座り込み、テレビのリモコンを手に取った。こいつ、自由気ままやな。レジ袋から箸を取り出すと、一寿はリモコンを持っていない方の手でひったくるようにそれを奪う。サンキュー、とぼそぼそ声がする。一寿の長い睫毛が、こちらを向いた。あら、かわいい。すぐいい気になる単純な自分が、笑えてきた。

 時計は八時を指している。昼飯と言うにはまだまだ早い時間、なのだけれど、一寿がこうして箸を手に取った瞬間に統の世界はすっかり真昼になる。一寿は、基本的にいつも時計を見ない。というか、液晶画面に向かっている時間が大半なので、腹が減ったら飯を食い、眠たくなったら寝る、というリズムを繰り返すだけで、そこに昼も夜もありゃしない。メトロノームみたいな奴、と揶揄したら、夜にしか活動しないテメーには言われたかねえよ、と怒られたことがある。ぐうの音も出ない。この家には、正しい時間が流れない。

 一寿がリモコンを液晶に向けると、小さなテレビがばつんと言いながらワイドショーを流し始めた。この時間は情報番組しかやっていないというのに、一寿は食事の時間はいつでもテレビを点ける。効率化が好きな彼らしいと言えば、彼らしい。

「あ、おいお前これ、お前の好きなやつじゃなかったっけ」

 牛丼の蓋を開けていた統は、一寿に促されて顔を上げた。

『有名プロデューサー・寿アキラ氏によって運営される人気アイドルグループ・花霞14が、突然の解散を発表しました』

 一瞬、女子アナの顔を見て、〝お前の好きなやつ〟が指す言葉は彼女のことだと勘違いしてしまった。

「あー、え、花霞ちゃん? 解散すんの」

 統が口を開けたまま画面を見ていれば、可愛い女子アナがご丁寧な解説を始めてくれる。まるでテレビと喋ってるみたいになったなあ。統は込み上げる笑いを堪えた。

『花霞14は、有名プロデューサーである寿アキラ氏によって運営され、デビューシングルが女性グループ初のオリコン首位連続五週を突破したことでも知られています。その突然の解散発表に、驚きを隠せない方も……』

 花霞の画像が、街頭インタビューの映像に切り替わる。隣に視線を遣ってみると、一寿もテレビをきょとんと見つめている。興味があるというより、画面に映るものをじいっと目で追っているらしい。その様子が初めて無機物を見た子猫みたいで、そればかり眺めていた統はニュースの内容をほとんど聞いていなかった。なんでワイドショーひとつにそんな反応ができるんだろう、こいつ。純粋とかそういうもんじゃない。ガキじゃん。小学生じゃん。よくわからないニュースの文字を目で追っ掛けて夢中になれるの、小学生までだろ。

『え、うそうそ、あの? アイドルの?』

『びっくりい』

『俺めっちゃファンでした! ショックなんだけど』

『なんか、ファン多かったですよね。芸能人とかにも』

『デビュー曲、めっちゃ聞いてました! 今も、たまに……』

「な、お前、好きだったよな?」

 え? と、思わず飛び出た声が裏返る。インタビューなんてすっかり聞き流していた統は、一寿の横顔が突然こっちに正面を向けるものだから驚いて固まった。

「……なんか、よく聴いてるって言ってたじゃん」

 不貞腐れたような声。一寿が俯く。なんだ、その反応は。

「うん、まあ、一曲」

「なんてやつだっけ」

「覚えてるでしょ、さては」

「……知らねえ、もうどうでもいい」

 つん、とそっぽを向かれて、会話が終わる。もうお前の話なんか聞きませんと言わんばかりに、一寿は丼にがっつき始めた。なんなんじゃその感じ。アナタそういうとこありますよね。そんなわかりやすい照れ隠し、通用しませんからね。冗談めかしてそう追及してやりたかったけれど、黙っておいた。この家を追い出されても文句が言えなくなる。

 この家は飯島一寿の家であって、井上統の家ではない。だが、事実上二人の家だ。

 一寿は統より一つ下で、ウェブデザイナーという肩書きのもとに収入を得ている。そして、統はそんな彼がぎりぎりの状態で得た家に、住み着いている。それは寄生とも呼べる態勢で、つまり世間一般で言うヒモ状態にある。一応、自分の身の回りのことは掛け持ちしているアルバイト、主にデリヘルの受付で賄っているが、家賃やら複雑なものはぜんぶ一寿に任せ切りだ。一寿ももちろん文句は言うのだが、なんだかんだ統を野に放ることはない。放りかけられたことは数度あるが。

 もちろん一寿にとってもデメリットだけではない。一年中のデスクワークをこなす一寿の生活は統以上に偏っている。それを正すのが統の役割であり、契約上の使命とも呼べる。無論、統も昼夜が逆転しているので健康的とは言えないが、いないよりマシ、ということだ。実際、コンビニ弁当だろうとなんだろうと食べないより良い。たまに統が作ってやることもあるし、概ね好評なので一寿もそれに口は出さない。いないよりマシ、食べないより良い。それに尽きた。

 なぜ一寿がこの生活を良しとするのかは統にはわからない。しかし、この関係性をマイルドな表現で言い換えるなら、たぶん、同棲だ。同居、ではなく。

「花霞ちゃんね、可愛いよねえ」

「ミリも思ってねえだろ」

「思ってるよ」

「ファンならグループ名にちゃんとかそんな呼称くっつけて呼ばねえよ」

 お得意のわかってる風で、一寿はぶすくれたまま箸を口の中に突っ込んだ。そんなことないでしょ。偏見でしょ。まあ、実際にメンバーの名前なんか一つもわからないから、そういう風に呼んでみたわけですが。

「あ、でも、センターの子は知ってるよ。かめこちゃん」

「可愛い?」

「んー、オサムちゃんの好みではないですね」

「聞いてねえわそんなこと」

 軽口を叩き合いながら、統も牛丼を箸で突く。ワイドショーはすっかり話題を別に移して、知らない政治家の知らない不祥事を流し始めた。統は画面から目を離し、牛丼に集中する。

「うん、でも、あのねえ、曲は良いよ」

 ぱく。統が口に運んだ甘いタレの染み込んだ牛肉とほかほかの温度を持った米が、途端その匂いを鼻にも漂わせた。やっぱり電子レンジとコンビニ飯、現代最強のカードデッキだな。これ二枚で優勝できるわ。三ツ星。シェフはどこだ。シェフ、あ、俺か。そんな一人芝居を脳内で繰り広げていると、一寿が唸るように、ええ、と疑問符を発した。

「寿アキラの歌詞でしょ」

「そうそう」

「薄っぺらい、なんかあの、弱い私たちで革命起こそうぜ! みたいな歌でしょ」

「そうそう」

「綺麗事じゃん」

「そうそう」

 どこがいいのよ、と一寿は怪訝な顔で言った。やっぱり曲まで知ってるじゃん。こいつはこうやって律儀に人の発言を覚えておく男だから、たぶん、ずっと引っ掛かってたんだろうな、と統は甘ったるい米を咀嚼しながら妄想に耽る。

 で、そういう、律儀な男だから、許せないんだろうなあ。ああいうの。

「綺麗事だからいいんだよ」

「はあ?」

 隣の容器から、カツを一つ奪い取る。ああ、と一寿が声を上げたが、無視して頬張る。塩っぽい卵とじの香りと、甘い牛丼のタレの匂いが口の中で混ざり合う。

「大人が書いた綺麗事の歌詞をさ、思春期の女の子がさ、よくわからんまま歌わされてんのがいいじゃん」

 あー、カロリーの味がする。米の塊を箸で掴んで、口に放り込む。コンビニ飯って美味すぎる。最強の、堕落の味がする。

 一寿がまた唇を尖らせる。そういう顔すると、口許のほくろがすごく目立つよね、アナタ。ほんと、鼻は高いし実は奥二重で、黙ってればモテそうなのにね。俺は黙っておくけど。

「お前」

 何よ。続く言葉、わかってますよ。


「……性格、悪い」


「最初っからそうじゃん」

 アナタもそうでしょうに。



 世間一般で言う昼寝が統にとっての就寝時間だ。反対に、起床時間とは所謂夕方のことを指す。烏が鳴くから帰りましょ、と唄う町内放送で統は目を覚ます。いい感じ。倦怠にぐったりする身体を引っ張り上げて、硬い床にしばしの別れを告げる。

 クローゼットに手を突っ込んで、仕事のための服を探す。着替えて、歯を磨いて、顔を洗ってそのまま軽く髪をセットする。ここまでして、ようやく人間の形に戻れた気がする。それまでは何だったのかというと、何者でもない。社会のどこにも位置しない、動物としても不完全、なんか、よくわからない怪物。キメラ。ヒトモドキ。でもみんなそうなんじゃないかと統は疑ってみたりする。街に出たら人間が闊歩している社会ではあるけども、スーツと革靴を脱いでしまえばみんなヒトモドキだと統は思っている。スーツと革靴を身に着けて街に出るような知り合いが統にはいないので、まったくの想像でしかないが。

 歯を磨きながら、片手間でスマホのホームボタンを押す。右手に歯ブラシ、左手にスマホ。こういう時、自分が男でよかったなあと思ってしまったりする。女の子は手が小さいから大変なんだろうなあ、とか、背が低いから大変なんだろうなあ、とか、力が弱いから大変なんだろうなあ、とか、そんなことばっかり考える。これからたくさんの女の子に会いに行くけど、みんなは歯磨きしながらSNSチェックなんてできないんだよなあ。しかも、俺みたいな一応見とくか、みたいな感じじゃなくて、ちゃんとやり取りしてたりして。そんで、その後にはメイクして髪巻いて、ってするんだよね。ああ、いや、でも、もしかしたらあれか。女の子って、こういう馬鹿でかいスマホなんか買わないのか。じゃあ、大丈夫か。いやいや、でも待てよ、俺らの世代の女子高生って、携帯にじゃらっじゃらのストラップつけてたじゃないの。あれは何? か細い腕から伸びてて、スマホも握り切れない小さな手の平は、なんで手元のもとに重量を足すんだ。あ、世代の差かな。ていうか、こうやって勝手に心配してみたりするけど、普通に片手で持てるんじゃないの、スマホ。そういえばナナちゃんもフミちゃんも右手にヘアアイロン左手にスマホのストロングスタイルで活動してたような気がする。ヘアアイロンって凶器みたいに重いよね? なんであれあんなに重いんだろうなあ。華奢な腕があんなもん握らなきゃいけないのはなんでなんだろうなあ。髪型が決まってるって、そんなに大事なんかなあ、女の子。

 吐き出した水が、ぐるぐると螺旋を描いて排水口の奥へ消えていく。ヘアワックスを適当に掬い取って、つむじからべちゃっと乗せる。鏡を見ながら形を整えて、どんな具合か確認しながら全体に馴染ませていく。おいおい、人間らしくなってきたな。統はこうして今日も、汚いヒトモドキから小汚い人間になる。なお、小綺麗な人間になれた日はない。どうやら、元のレベルが足りないらしい。

 傍らに置いたままのスマホの液晶画面を覗き込んでみると、まだSNSのトレンド画面が【花霞解散】の文字を粛々と映し出している。ありゃりゃ、みんなそんなにショックだったんだ。そりゃ、そうか。好きな人はめちゃくちゃ好きだもんな。いや、別に俺も嫌いとか関心ナシってわけじゃないけどさ。誰にでもなく心で言い訳をしながら、その四文字をタップしてみる。

【ねこ大好き:4分前

 花霞解散。寿アキラの売り出し方って、今じゃウケないんだよな。

 ていうか、商売の匂いが強すぎて、頭の悪いアイドルオタク以外食いつかないっていう(笑)】

【寿アキラを許すな:1分前

 花霞っていうか、藤岡芽以を売り出そうというやり方が透けて見えすぎ。

 そんなんだから、他のメンバーは腐っていったんだよ。

 唯一の潤滑油だった佐々木千景がいなくなったら、そりゃぶっ壊れるだろ】

 ぱっと目についたのがわかりやすい批判ばかりだったので、統は少しだけ驚いた。もっと、なんかこう、ファンが大騒ぎしてるのかと思ったら。

 寿アキラの売り方って、やっぱ大多数から見ても問題アリだったんだ。藤岡芽以ってあれな、かめこちゃんな。確かに俺もあの子しか知らないや。そうなると他のメンバーが可哀想ではあるなあ。佐々木千景って女優の子か。最近ドラマ出てるよなあ、いっつも会社でいちばん頭が切れる新人女子役、ってイメージ。主人公じゃないけど、主人公がうじうじしてる時スパッと正論かましてるような感じの。あー、あの子元は花霞だったのか。大躍進だなって思ってたけど、演出された華麗な転身ってことなんだ。

 統の視界に、右から左へ、高速で思い浮かべたことが流れていった。いつだって、統の中のまとまらない思考たちは、ベルトコンベアに乗せられたようにすべてが自動的に右から左へ運ばれていく。まるで動画サイトのコメント欄のように。

 そんな複数のコメントたちから、他愛もなくて薄いものを搔い摘む。それをそのまま、SNSの投稿画面に書き込んだ。

【嫌いじゃなかったけどな、花霞。まあ同じ箱に年頃の女の子を十数人詰め込んだら、ごちゃごちゃにもなるよねー】

 送信を押して、そのままスマホをポケットに仕舞う。それをスイッチに、一度頭をリセットして洗面所を出る。肩を回しながら、廊下を歩いてリビングに出て、黒いショルダーバッグを持った。

「もう出るの」

 もたついた声色に、統は振り向く。一寿だ。この時間はいつも作業に集中しているのに、珍しい。

「うん、まあ」

「……あのさ、明日」

 パソコンのモニターから目も離さず、一寿はぽつりとそれだけ零した。明日、明日ね。その言葉の先は、知っている。わかっている。だから統は、うん、とだけ応えた。一寿がこういう、か細い声を出してこちらの出方を伺う時は、そういう時だ。そして、統と一寿の関係は、そういう契約だ。

「じゃ、帰ってきて、昼寝したらな」

 行ってきます、とゲーミングチェアの向こうの背中に告げる。

 ほんとに素直で、律儀な奴だな。

 統は、有り余る苛立ちと得も言われぬ高揚で身体中がいっぱいになった。たぶん、一寿も同じ気持ちだ。



「入りまあす」

 可憐な声が、ドアを潜り抜ける。この気怠そうな癖にころころした声色は、ナナだ。

「ナナちゃんお疲れえ」

「ねえ今日最悪だったんだけど!」

 ナナは、ほとんど私服の黒いダッフルコートを着込んだまま、統の座るデスクにばしんと両手を置いた。

 どうしたのよ、と訊ねてみれば、客がね、と大声で早口に話し始める。他の嬢たちや清掃スタッフの視線を一身に集めているが、そんなことお構いなしだ。いや、もしかしたらこれも計算通りかも。ナナちゃん自己顕示欲えっぐいしなあ。客っていうのもたぶんここのことじゃなく、ここに来る前に出ていた別のアルバイトのことだろう。確か、居酒屋。結構大手のチェーン店の、名前は忘れちゃったけど、確か高田馬場だったような気がする。あれ、それはメグちゃんの話だっけ。

「なんかさあ、きっしょい男四人くらいの集まりがさあ、喧嘩したとかなんとかで。それがうるさいって、店員にクレーム入って。注意してきてとか言われて、仕方なくテーブルの近くまで行ったら、なんか暗い男がさあ、あたしのことばあんって押し退けて店出ていって。最悪、ほんと最悪」

 ナナはそこまで一気に捲し立てると、話し終わるか終わらないかといったところで勢いよく踵を返してメイク室へ向かっていった。こういう突拍子もないような、直情的な言動はナナらしいといえばらしい。出会って二年も経っていないけれど、ナナのことはほとんど掴んだと統は自負している。わかりやすくて、その上難しい人であろうとか考えるプライドもない。だからこそこの仕事が向いているのだろうし、同じようなタイプでもある統をいたく気に入っているのだろう。

 統はデスクの上に放っていたスマホを手に取る。明るくなった画面に映し出された時刻表示を見ると、ちょうど日付が変わるところだった。あと一時間もすれば、深夜ラジオの時間。そういえば今週はどこにもメールを送ってないかも。三面鏡、今週のテーマメールって何だったっけ。あー、自分が異端なのかと思うこと、だっけ。面白いこと書けそうにもないよなあ、まあ今週はいいか。コーナーのネタメールだけ考えよっかな。そこまで考えて、ぐう、と腹が鳴った。急激にリアルに引き戻される。一応、今は勤務時間だ。休憩を取ってしまった今、この空腹に太刀打ちできる術はない。

 自分が異端なのかと思うこと、かあ。

 統は、デスクに肘をついて、メール作成画面を開いた。たちまち、連絡先に追加済みのメールアドレスと作成済みのテンプレートが、待ち侘びた出番に勢いよく飛び出てくる。東京都練馬区、井上統、ラジオネーム・デリヘラー。思いついた言葉を、ひたすら白い画面に文字を打ち込んでいく。

 大きなゲーミングチェアに凭れる一寿の背中、その姿が統の思考を塗り潰していく。細くて、猫背で、情けない癖に、クソ真面目に画面に向かう姿勢。あーあ、ネタメールも思いつかないし、たまにはいいか。惚気じゃねえかって怒られっかなあ。まあでも、選ばれるとは限んないしいいか。どうせ放送作家が捨てちゃうでしょ、こんなメール。ていうか、そもそも今週のテーマが面白くないのが悪いよね。この番組、パーソナリティの三面鏡は面白いのに、このまま春まで行ったら作家のせいで打ち切られるよなあ。まあそしたら、次の世代の芸人がやるんだろうけど。三面鏡みたいな、馬鹿っぽいイカれた芸風の若手、好きなんだけどな。

 今度はその顔が頭に過ぎる。一寿の好みのお笑いは、あるある系や抒情的なコントで、奇天烈な芸風やシュール系が好きな統とは真逆だ。深夜ラジオが好きなのは同じでよかったけど。そもそもそれが切っ掛けで会ったんだし。そうでもなけりゃ、マッチングアプリで会った奴と何回も顔を合わせることなんかないし。

 ――いや、そんなことないかも。

 いつだってこうなのだ。一寿と一緒にいたって特別楽しいわけでも気が合うわけでもないのに、なぜだかこうして一人でいると奴が恋しくなる。統と一寿はもうすっかり変な二人だ。友達じゃないし、仕事仲間じゃないし、たぶん、別に、恋人でもない。別に得ばっかりの契約でもないけど、損ばっかりでもなくて、だからこうしてだらだらしている。統自身も、統と一寿も。

 メールを送信し、スマホを傍らにまた放る。役目を終えたスマホが、すっかり表情を暗くした。あーあ、今日もリアタイは厳しいか。統は、向こうの壁に掛かった古臭い時計の針を目で追う。溜息が漏れた。

 彼女欲しいなあ、と項垂れて呟けば、嬢の誰かがキャアと声を上げる。

「やだやだ、オサムちゃん、一生童貞卒業しないでよ」

 名前も知らない嬢が笑った。

「それは難しい」

「なんでよ、うちらみんなのオサムちゃんじゃん」

 いつもみたいに笑い飛ばそうとして、喉に声が引っ掛かった。へ、とか、は、とか、そんな音だけを発して、口角だけを上げて見せる。

「俺、そんなに綺麗なわけじゃないのよ」

 女子の声がそこら中に弾けて、耳を塞ぎたくなる。女の子って、一斉に笑うだけで、その場を花畑にできるんだよなあ。

 太腿を叩いて笑う嬢を見ていると、一寿の笑い声が聞こえてくる気がした。毒されすぎだって、と統は自嘲した。



 半径八十センチ以内に自分以外の寝息が聞こえる、そんな状況になるたび、人間って馬鹿だなあ、と統は思う。

 実家で飼っていた猫は、丸くなって寝ている時に統が近寄ればぐるんと上体を捻らせて飛び起きていた。そいつは野良だったのを拾われた猫だったから、死ぬまで警戒心が強かった。特に統には、最後まで懐かなかった。声が大きい母親にはすっかり怯えていたし、統のことは攻撃対象として見ていた。懐いていたのは家の中で唯一静かな父親だけだった。それでも、寝ている間に父親に急所を触られれば、すぐに手が出て足が出た。両親も幼かった統も、みんな傷だらけだった。猫一匹のために。

 それが、目の前にいるこいつは、どんだけ鼻を突いても頬を引っ張ってみても起きない。疲れてるんだな、とも思う。けれど、馬鹿だなあ、とも思う。だって、今俺が包丁持ってたらどうするの、アナタは。もしくは、俺が実は狼男だったら。俺がこの瞬間を狙った殺人鬼だったら、死んじゃうんだよ、わかってんのかな。わかってないだろうな。だって俺、殺人鬼じゃないしね。統は、一寿の伸び切った襟足を摘む。前みたいに結べるほどじゃないけども、まあ、早いこと切った方がいいよなあ。こいつ、たぶん忘れてるだろうけどさ。

 食べて、寝て、あと繁殖活動に勤しんで。それでよかったんじゃないの、人間って。

 セックスの後、いつも統はそればかり思う。恐らく、一寿も同じことを思っている。

 なんか、ぜんぶ、もうどうでもいいじゃんか。そんな破滅的な思考に囚われて、そればかり考えて、眠りに就く。世界は想定より勝手に動いていて、だから統はいつも嫌になる。朝なんか来なくていい。世界が勝手に動き出して、ついてこいと言うので、足の遅い統が惨めな思いをする。足が遅いから悪いんだけど。笑いが込み上げてきて、枕に突っ伏した。足が遅くたっていいんだよ、みんなと違くたっていいんだよ、それはあなたの個性だよ、なんて。綺麗事じゃん、ねえ。

 一寿の睫毛が揺れる。本当に、男らしくない睫毛だな、と統は笑った。



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