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パレイドリア  作者: 江坂慶介


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6/10

シナプス/後編


 紀之と宮内佑果が出会ったのは六年前、花霞14というグループそのものが発足した日だ。

 オーディションを勝ち抜いて、記者たちの切るフラッシュを浴びる宮内佑果に、紀之の目は釘づけになってしまった。

 それぞれの学校の制服を着て、壇の上に立ったその日、宮内佑果と十三人は確かにアイドルになったのだ。


 中学生の頃、そもそもアイドルなんか興味はなくて、そういうビジネスだとしか思っていなかった。顔だって女優の方がかわいいし、エロい女見たけりゃAVでいいじゃんか。紀之にとってはそうだった。だから漫画雑誌の巻頭にあるアイドルのグラビアページはいつも飛ばして読んでいた。ウブな女子にドハマりしたオッサンが、金落としまくって、それで成立するビジネス。俺には無縁だな、と紀之は思っていた。紀之の周りでアイドルに熱狂する男なんかいなかったし、自分がそれに夢中になる未来も想像さえできなかった。それに、アイドルオタクって、――なんか、ちょっと、ダサい。ネットニュースにアイドルの不祥事やらファンが起こした事件が載るたびに、紀之はそんな記事を鼻で笑っていた。遠い世界の話だ、と思っていた。

 その実、別に寿アキラのことが嫌いとかではなかった。嫌うほどの理由がなかった。紀之の友達の軽音楽部はみんなアイドルの握手券つきシングルがオリコン上位を独占するの許せねえ、とか言ってたけど別に音楽の良さって売り上げがすべてじゃないと思うし、寿アキラが儲けようが儲けなかろうがお前らの好きなミュージシャンのCDの売り上げが絶対的に変わるわけじゃないでしょ、と思っていた。喧嘩になるから口に出さなかったが、そういう売り上げだとか世間の相対評価に熱中できるのは頭空っぽでいいな、とも感じていた。喧嘩になるから、口に出さなかったが。

 だから、興味本位で記者会見を見ていた。同じ苗字の子とか、同じ誕生日の子がいたら応援してやろう、とか考えていた。紀之は芸能人って水槽の中の金魚じゃん、と言ったことがある。観賞用。だから、新しいプロジェクトが大々的に発表されるなら、ちょろっと顔出して知ったかぶってやろう。ニワカと呼ばれ糾弾されてもどうでもいい。だって水槽の中の金魚に、噛みつかれることなんてないし。俺が綺麗だなって言っても言わなくても、金魚には聞こえないし。金魚からしても、人間という名の有象無象がなんかこっち見てるぜ、としか思わないし。

 そしたら、世界でいちばん綺麗な金魚に出会った。

 アイドルの顔なんか女優に劣る、と思っていた自分を殴りたくなった。エントリーナンバー七番、宮内佑果。呼ばれて一歩踏み出した彼女は、目に涙を浮かべた彼女は、震える足で必死に壇上に立つ彼女は、紀之の十四年の人生で見た誰より美しかった。

 超可愛いじゃん、何だこの子。

 それが最初の感想だった。それ以上何も考えられなかった。可愛い。可愛い、可愛い、可愛い!

 黒目がちの瞳とぱっちりとした二重、丸くて小さい鼻、柔らかな頬、そして化粧っ気のない、あどけない素肌。

 小学二年生の頃、将来結婚してと紀之の小指を握ったあの子。小学五年生の頃、拙い文字で手書きのラブレターを渡してきたあの子。中学に上がってすぐ、彼女にしてくださいと頭を下げてきたあの子。そのどれにもピンと来なかったのに、初めて異性を見て心臓が高鳴った。あの子もあの子もあの子も、好きじゃなかったんだ。俺、この子が好きだ。ミヤウチユウカ。宮内、佑果。

 その時は、まだ、〝推す〟なんて考えられなかった。

 なのに、次の日もその次の日も、学校で授業を受けても塾で自習していても友達に話しかけられても彼女に手を握られても、紀之の心臓が不意に高鳴る時があった。それはいつも、宮内佑果を連想した瞬間だった。

 気がつくとスマホの検索画面に宮内佑果と入力していて、気がつくと表示された画像を眺めていた。そうしているうちに、グループの公式サイトを見つけ、開設したてのブログを見つけ、まだタイトルにパート数が表示されていない応援スレッドを見つけて、紀之はすっかり〝ファン〟になってしまった。

 当時はまだ同年代の半分程度しか持ち合わせていなかったスマホに興味があるのか、紀之の彼女はそんな紀之を不思議そうに見つめてきたけれど、もう彼女にすっかり興味を失くしていた。こいつで童貞捨てるなら、俺、宮内ちゃんみたいなタヌキ顔女子で捨ててえなあ。彼女の吊り上がった眉毛を見るたび思った。そしてそれが伝わったのか、程なくして彼女とは別れることになった。キスもセックスもしていない、知らない、大人の真似事だからこんなもんだろうと紀之は思った。さっさと社会に出て、大人になって、宮内ちゃんみたいな彼女見つけて、童貞捨ててえなあ。友達の前でそう呟いたら、お前キモい、と低いトーンで言われた。それが気に入らなくて、友達の誘いを断るようになった。断る理由は花霞14のライブ、だった。そうしていくうちに紀之は遊びに誘われなくなっていった。そして、一生童貞でいいや、なんて言葉も口癖になった。ステージ上で一心不乱に踊る宮内佑果を見ているうちに、彼女を汚したいなんて到底思えなくなった。化粧っ気のなかった素肌がメイクを覚えていき、拙かったダンスが上達していき、綿菓子のように甘い声が低い歌声に変わる、そんな宮内佑果を見ているうちに、彼女を女神としか思えなくなった。クラスの女子は下手なメイクに下手な言い訳を重ねて教師に反抗しているけれど、花霞は違う。彼女たちは、もっと大きなものと戦っている。大人になる、ステージ上でいちばんに輝く、そのためだけに一生を賭けている。信仰と呼ばれても構わなかった。紀之は、自分も彼女たちに一生を賭けなければ、と思った。その頃には、すっかり紀之に話し掛けるクラスメイトはいなくなった。教師も両親もそんな紀之を不審がっていたが、彼自身の毅然とした――憮然とした、とも呼べる――態度を見て、それ以上口出しはしなかった。三年生に上がる頃、紀之が学校で声を発すことはなくなった。だけどそれが誇らしくさえあった。中学生なんかみんな馬鹿だ。目先の問題しか見えていない。青春なんて言葉の聞こえはいいけれど、何もかも自己満足だ。そんな奴らと仲良くするより、俺にはやることがある。〝推す〟ことだ。花霞14という現代社会における代弁者を、代弁者たり得ようと努力する少女たちを、〝推す〟こと。そう考えて紀之は中学生活も高校生活もすべて宮内佑果に捧げた。親から貰った金も、受験勉強の時間も、すべて捧げた。供物でしかなかった。

 ニジュとしての紀之も、宮内佑果と出会ってすぐ生まれた。最初は、アイドルの追い掛け方なんて右も左もわからなかったから、とにかく詳しい人と繋がりたかった。だんだん知識がついてきて、ライブも握手会も緊張せず向かえるようになった。新曲が発表されるたび、電器屋で買った千円の携帯ラジオをつけてフォロワーと文面上だけで盛り上がった。学校に友達なんかいなくても、俺にはここに信頼し合える仲間がいる。同じ目的地を見ている仲間がいるのだ。自分より年上の人間とも、顔が見えない上に同じ趣味であることがわかっているから、気兼ねなく話せた。仲間が増えていくほど、ニジュはその名を界隈に知らしめていった。宮内佑果のことならなんでも知ってるフォロワー、という認識が大多数の共通認識になったのだ。紀之は、ニジュの人気が高まるほど配信の投げ銭の額を跳ね上げ、情報チェックと拡散は誰より早く行った。宮内佑果のファンなら誰でも知っているのがニジュという名前になった。その知名度は絶大で、ニジュのファンを名乗る女からメッセージが届くこともあった。もちろん、無視した。とうとう、直接的な誹謗中傷が届く日さえ来た。お前、でかいツラすんなよ。いちファンでしかねえのに調子乗んな。まさか自分のこと宮内の彼氏だとか勘違いしてんの。謂れのない糾弾を受けるほど、紀之の心はなぜか踊った。ぜんぶ無視した。ニジュはどんどん神になっていった。



【さいごに。:二〇二〇年一〇月一日

 こんばんは。花霞14所属、二十一歳、熊本県出身の宮内佑果です。

 この挨拶を打ち込むのもラストになります。

 みなさんご存じだとは思いますが、花霞は来週の握手会とミニライブで、実質的な活動終了を迎えます。

 現キャプテンとして、そして、六年間所属させていただいたメンバーとしては、寂しい結果になりました。

 六年前のわたしは、何の特技もない、誇れるものが一つもない、無力な一人の女の子でした。

 そんなわたしを、見つけ出して光を当てて、アイドルという立派な職業人にしてくださったのは、グループを運営してくださったスタッフの方々、苦楽を共にしたメンバー、そして、他でもないファンの皆様です。

 六年間、花霞14の宮内佑果を応援してくださり、本当にありがとうございました。

 勝手ではありますが、来週の握手会そしてミニライブを終えたあと、最後のブログ更新をさせていただきたいと思っています。

 思い出話は、たくさんたくさんあるのですが、まだわたしたちには仕事が残っています。すべてを終えたその時、どうかわたしの最後のお話を聞いてくださると、とても、とても嬉しく思います。


 そして、これからのわたしの、宮内佑果としての活動方針をご報告させていただきます。

 他のメンバーも、みんな決断を行ったことです。わたしは、最後まで迷っていたせいで、みなさんへの報告が遅くなってしまいました。本当に申し訳なく思います。どうか、読んでいただけると幸いです。


 十一月以降の、宮内佑果は、 】



「それじゃ、まず乾杯といきますか」

 居酒屋の喧騒をぶち抜いて、茶髪の男が大きな声を張り上げた。ジャンクさんはいつもこうやって仕切りたがる。乾杯、とみんなが口々に言いながらジョッキを掲げるので、紀之もその右手を挙げた。

 流れるように口に運んだビールが喉に染み込んでいく。苦みが口の中いっぱいに広がって、鼻の奥をすうと麦の匂いが通り抜ける。やっぱり、この味にはまだ慣れない。アルコール特有のぼんやりした粘っこさが舌にくっついて残った。一口と言い切れないくらいの微量を呑み込んで、ジョッキを置く。そしてほとんど同じタイミングで、ジャンクさんもジョッキを置いた。紀之の目の前に座っているジャンクさんは、いつもと同じ赤と青の柄がついたリストバンドをしきりに触っている。赤と青、ジャンクさんの推しである速水ひかるのサイリウムカラー。先々月に行われたライブグッズの中でも、まだ比較的普段使いできる部類のものだ。

ジャンクさんはいつでも手元の何かを確かめるように触れている。会話が盛り上がると、その骨みたいな足には貧乏揺すりも始まる。そういう癖まで知ってるのに、紀之はジャンクさんの本名を知らない。

 それどころか、ここにいる誰の名前も、本当は知らない。

「はあ、マジ、どうしますかみなさん」

 オレンジさんが項垂れて言った。そんな状態の割にしっかりジョッキを握り締めたままだ。オレンジさんは小太りで青髭の目立つ汚い肌をしていて、何回も大病に掛かったことがあるらしい。年は紀之やジャンクさんより一回り上で、だけど童貞だと胸を張って宣言していた。どんな冗談を言ってもノリ良く返してくれるのがオレンジさんだ。オレンジさんは菅田愛夏、愛称いかちゃんの最古参ファンで、やっぱり有名。菅田愛夏の生写真は全部交換なしで揃えているらしい。しかし、ランダム封入の生写真を全種コンプできるような財力はいったいどこから湧いているのか。紀之は、そして恐らく誰もが、知らない。怖くて聞けないからだ。

「どうとかじゃないっすよ、死ぬしかねえっす」

 かぶとむしさんがか細く言った。かぶとむしさんはいつも真っ黒い服に身を包んでいて、今日も例外じゃない。たぶん紀之よりは少しだけ上で、恐らく二十代の真ん中くらい。前髪が長いから、その表情はよく見えない。かぶとむしさんはコンビニバイトで食い繋いで一人暮らしをしているらしいが、ライブには欠かさず参戦する。プライドが低いのか、通販サイトやフリマアプリを活用して食費を削ってでも推しを追っ掛けている、らしい。かぶとむしさんの推しである倉田瑠奈のサイリウムカラーは白二本だから、もしかしたら黒一色のコーディネイトも彼なりのこだわりがあるのかもしれない。

「はやみんは合同の事務所所属で女優って扱いになるみたいですけど、ジャンクさんははやみん推し続けるんですか」

「もちろんよ、速水ひかるが俺の人生だから……」

 紀之の問いにジャンクさんがしみじみ呟いた。速水ひかるはジャンクさんの人生。返ってきた言葉を、アルコールで浮つく脳味噌が反芻する。紀之の左隣から、かぶとむしさんが斜向かいのオレンジさんに問いかける。

「いかちゃんはフリーでタレント扱いでしたっけ」

「それなんだよなあ」

 オレンジさんは神妙な面持ちで呟く。酒に焼けた声は、ついさっきまで一人で呑んでいたことを主張している。

「いくら長らく三列目でセンター経験してないとはいえ、いかちゃんや土門あたりだけ合同事務所の方には上げてくれないなんてな。高杉とか村上なんか、引退だしなあ」

「倉田瑠奈も引退ですよ」

 かぶとむしさんのその一言に、オレンジさんもジャンクさんも黙りこくった。速水ひかるがジャンクさんの人生なら、倉田瑠奈はかぶとむしさんの人生だ。

「まあまだ正式には何も決まってないですからね。乃々も引退ですけど、動画配信者をやりたがっているような動きもありますし」

 紀之の右隣に座る亡霊さんが、低くて落ち着いた声色で淡々とそう言った。雑然とした居酒屋にそぐわない、真っ白なシャツ。知的な瞳。

「俺、配信者やってるくらるな無理っす、推せる気しねえ」

「かぶとむしさん、今は配信者って言っても色んなジャンルがありますから。あと、引退したアイドルが別事務所に拾われてタレントとして細々活動し直すのも、最近じゃ珍しくないですよ」

 亡霊さんが全員に微笑みかけた。亡霊さんの推しである望月乃々も、公式ブログで引退が直々に発表されている。だというのに、この落ち着きよう。そして徹底した情報収集からなる現状分析。その上でこうやって、他者を気遣えるメンタリティ。紀之も含めこの場にいる五人の中で、もっとも冷静なのが亡霊さんだった。

「僕もしんどいですけど、でも彼女が選んだ道ですからね。最初から、こっち側は彼女たちにベットしただけ」

 亡霊さんがジョッキを呷る。その中身はビールの黄色ではない、ウーロン茶の深い色だ。亡霊さんは周りがビールを頼もうと、絶対にアルコールを摂取しない。酔いやすいんだと語っていたが、紀之が思うに、恐らくは羽目を外しすぎないためだ。やっぱり大人だ、と紀之はその細い鼻筋を見て考える。

 ジャンクさんは年が近くて人懐こいけど、意外と寂しがりだ。オレンジさんは最年長で面倒見は良いけれど、なんだかちょっとデリカシーに欠ける。かぶとむしさんは自我がしっかりしてるけど、思考が読めないから話を弾ませにくい。

 でも、亡霊さんはやっぱり大人だった。まともな会社員で、自立している。自分でお金を稼いで、それを趣味に注いで、決して無理はしない。だけどたくさんの意見に耳を傾けられるし、それに流されることもない。文章、話し方、手癖、どこをとっても知性と品性に溢れている。どうしてこの人が、アイドルというコンテンツにハマったのだろう。彼が望月乃々に惚れ込んだのは、いったい彼女のどんな部分が契機なのだろう。

「ほんと、なんでこんな突然、解散なんですかねえ」

 ジャンクさんがジョッキを持ち上げた。どこに投げ掛けるでもない、壁を打つような声。

「ずっと前から決まってたんだと思いますけどね」

 かぶとむしさんはジョッキを置く。

「前から?」

 オレンジさんがジョッキを大きく呷る。

「シナプス出たのって六月だったっすよねえ、その辺でもうラストシングルって決まってたんすかね」

 シナプス。現時点でもっとも最近出たシングル曲だ。

 自身の存在意義について思考する少年の歌、というのがまず浮かんだ感想だった。思春期という一言で軽くくるめられてしまうような歌詞は相変わらず、寿アキラお得意の、といった具合であったが、一本撮りという気合の入ったドラマ仕立てのMVは良かった、と紀之は思い返した。しかしまあもはやお決まりで、センターは藤岡芽以だった。宮内佑果推しの界隈も含め、ほとんどのファンが不満を募らせていたのはよく覚えている。それがもう四ヶ月も前。

「いや、たぶん最後のライブでやる新曲ってのがラストシングル扱いでしょ?」

 オレンジさんがまたビールを呷った。ジャンクさんがああ、そっか、と感嘆する。

「じゃあ、その新曲はもう出来上がってたわけですよね。やっぱ突然の解散っていうか――」

「もうやめにしませんか?」

 かぶとむしさんが、机を叩いた。

 ジョッキががしゃんと音を立てて、その衝撃に紀之の肩が上がる。ちら、と亡霊さんが紀之越しにかぶとむしさんを見た。話し込んでいたジャンクさんもオレンジさんも、ぽかんと口を開けたままかぶとむしさんを見ている。

「完全に、佐々木千景が抜けてから、おかしかったでしょ」

 重たい前髪の向こうから、ぎらぎらとこちらを睨みつける視線。かぶとむしさんが、怒っている。それも、〝こっち側〟に向けて。

「いいんですよ、もう、そういう気づかないふりは。ここ最近のスキャンダル続きで、人気が落ちて凋落しただけでしょ。それを突然の解散だとか、考えられないとか、ほんと、馬鹿みたい。俺らがいちばんよく知ってるじゃないですか」

 店内の騒々しさが、遠くに消えていく。

 ――こいつ、今、なんて。

 体温が上がる。代わりに、空気が冷えていくのがありありとわかった。

 思わず上体を起こして、左隣に顔を向ける。紀之は、口を開いた。

「あの、」

「やめにしてほしいのはこっちですよ」

 紀之より早く切り返したのは亡霊さんだった。ジャンクさんもオレンジさんも、声も出せないらしい。紀之も、何も言えなかった。

「あなたは単推しだから倉田瑠奈のことで頭がいっぱいかもしれませんけれど、僕たちはグループ全体のことを話しているんですよ。運営の仕打ちに不満が募っているのはわかりますけれど、水を差さないでください」

「水を差すとかそういう問題じゃないでしょ。さっきから気分悪いんですよ。なんだって動画配信者とかそんなワード出すんですか、俺の前で」

「何に引っ掛かってるんですか? 推しに対して、引け目でもあるんですか。推しの活動に胸張れなくて、よく今までやってこれましたね」

「あんたみたいなのが盲目なファンって呼ばれんだよ」

「構わないですよ。愚痴垂れて、一つの娯楽も満足に楽しめないような人になんと言われようが」

 ばたん、と室内に大きな音が響き渡った。かぶとむしさんが勢い良く立ち上がって、机やジョッキを揺らした音だった。

「帰ります。あと、俺はアイドルオタクやめます。もう会うことはないですね」

 捨て台詞のような口調に、思わず紀之の心臓がどくんと跳ねた。

 いなくなってしまう。かぶとむしさんが。

 倉田瑠奈推しにとっての〝神〟が。



「ここに二人で来るのって、結構久しぶりですよね」

 亡霊さんがブランコに腰かける。紀之はそんな彼を見下ろしながら、溜息を吐いた。

「カラオケ、最近行ってないですしね。オレンジさんがビールサーバー使いすぎて出禁になったから」

「そうだった、そうだった。二年前とかですよね、もう。あの時、ジャンクさんもニジュさんも未成年で」

 ブランコが揺れる。亡霊さんは、懐かしいなあ、と言いながらにこにこ笑っていた。

 結局、かぶとむしさんが店の外に出たのがわかると、ジャンクさんもオレンジさんも居心地が悪くなったらしく、トイレに行ったきりふらりとそこからいなくなってしまった。三人とも、せめて飲んだ分の金は置いておけよ、と紀之は思ったのだが、ビール四杯分を亡霊さんは呆気なく支払ってしまった。自分の薄い、安っぽい黒財布が酷く小さく見えた。

「亡霊さん、なんであんなこと言ったんですか」

 言葉を発した紀之を、亡霊さんが見上げた。ただ物音に振り向いた黒猫のようだった。

「……かぶとむしさんの話は、正直、みんな薄々わかってることでしたよね?」

 その言葉に、亡霊さんがわずかに目を細めた。あの時、あの瞬間の、ジャンクさんやオレンジさんの表情が脳裏に過ぎる。眉を寄せて、怒っているような、悔しいような、だけどその通りだと言うような。言い負かされたとしか言いようがない、表情。言い返そうとしたのは紀之と、実際に言い返した亡霊さんだけだった。はっきり言って、冷静じゃないのは紀之と亡霊さんだった。あの場にいるみんなが、かぶとむしさんの言葉を、事実として受け入れようとしていたのは確かだ。

「なのに、話を逸らした、というか。違うところから反論した、みたいな……」

 いつもの亡霊さんらしくないですよ。

 そう言い切る前に、紀之の喉は力をなくしてしまった。いつもの彼、いつもの飲み会、そんなわけがないんだから。振り絞った問い掛けだけが、砂の地面に転がる。

 夜の公園は空気が冷たい。昼間はあんなに温かいのに、夜の公園は平和に置き去りにされたみたいな、物悲しさがある。

「ニジュさん」

 亡霊さんが、紀之を見上げる。太い眉毛は、ぴくりとも動かない。

「ニジュさんは、誰が悪いと思います」

 厚いレンズの奥にある瞳が、紀之だけを見ていた。

 その声色は、いつもと同じように、いつもとは比べ物にならないほど、静かで落ち着いた声だった。

「さっきも話に出ましたけど、新曲は出来上がっていたこのタイミングでの解散は不自然ですよね。誰が悪かったんでしょうね、誰が花霞を突然の解散に追い込んだんでしょうね」

「誰が」

「寿アキラがプロデュースを放棄した、というのは事実ですよね。花霞というプロジェクト自体が、寿アキラの手の上のものですからね」

 亡霊さんは台本でも読んでいるかのように、すらすらと話し続ける。その語気は、紀之に入り込む隙を与えてくれない。

「あと確実に運営とも言えますね。プロデュース上層部と言うべきでしょうか、最終的な決定権はすべて彼らにありますからね」

 ギイ、とブランコが鈍い音を立てた。

「でも、そういう上からの判断にも、また理由があるはずですよね」

 声のトーンが、また、下がった。


「スポットライトは最初から、藤岡芽以にしか当たっていなかったんです。それを薄々察しながらレッスンを続けたメンバーたちも、次第に波長が合わなくなっていった。そのストレス解消にこっそり続けていた娯楽が、世間には不仲説やスキャンダルという形で露見した。佐々木千景が自身のキャラクター性を活かしてメンバー同士のクッションになっていたけれど、彼女も耐え切れず脱退。それからどんどん、ボロが出るように世間に花霞の本性がバレ始めた。さて、ここで悪いのは誰でしょう」


 亡霊さんが人差し指を立てた。

「一、スポットライトを全身に浴びながら他者の追随を許さなかった天才、藤岡芽以」

 紀之は首を振る。

「二、メンバー同士の調和を保てず、心身を疲弊させ脱退を選んだ元キャプテン、佐々木千景」

 首を振る。

「三、プロデューサーや運営の方針に未来を砕かれ、ルールを破ることを娯楽としてしまった多数のメンバー」

 首を、振る。


「四、メンバーを守り切れず、自らもホストという〝娯楽〟に逃げた現キャプテン」

 首を振る。首を振る。首を振る。

 違う、違う、違う、違う。違う、違う!

「――宮内佑果」


 亡霊さんがブランコから立ち上がって、長い足でその場を歩き出した。彼は立ち尽くす紀之とすれ違い、すたすたと歩いていく。

「ニジュさんは可哀想ですよね、人生を賭けて推した人が酷い目に遭って」

 声色は淡々として動かない。

「僕はね、一番だと思うんです」

 言葉が紀之の耳にただ流れ込んでくる。心臓の拍動が、疲れるくらい強い。

「宮内佑果も、他のメンバーも、誰も悪くない。ただ一人、藤岡芽以だけは違う」

 ステージに立つ藤岡芽以が、紀之の頭の上を掠めた。ぎらぎらと輝くスポットライトを一身に浴びて、鋭い視線をこちらに寄越している。白い肌は暗い板の上に映えすぎるほど目立って、その姿はまさしく、深い闇に差す一筋の光と呼べるだろう。

 ――僕は何を求めているのだろう。

 ――僕は何から認められたいのだろう。

 暗い曲調を、藤岡芽以の低く芯のある声が歌い上げる。

 紀之の脳内には、〝シナプス〟が流れ続けていた。少年のようなパンツスタイルの衣装を身に纏い、戸惑う表情を見せ、ぎこちなく笑う不器用さを見せ、自我に一人苦しむ繊細さを見せつける。藤岡芽以は、完全に主人公だった。その他は、端役だった。初めてMVを見た時の、四ヶ月で忘れてしまっていたあの感覚が、蘇ってきた。

 ――繋がらないんだ、シナプス。

 ――君を求めて、君に認められたかっただけだったのに。

 ――僕も世界も、おかしくなってしまったんだ、きっと。

 ――きっと僕には、君と向き合う権利なんか、もうないんだね。

 最初から、藤岡芽以の椅子しか用意されていなかったんだ。

 紀之は、目の前に立つ男の目を見て、すべてを悟った。

「あなたは、賭けに負けました。それは僕も、みんなも」

 隣のビルの明かりが消えた。男の顔の、左半分が見えなくなった。

「そして我々が次に提示された選択肢は二つです」

 紀之の足元に、百八十センチ程度の影が掛かった。

 それは、紀之を呑み込んでいった。

「こんなものは娯楽でしかないと切り捨て、賭けそのものをやめるか。自分の選んだ道を信じて、もう一度賭けるか」

 俯く紀之の頭上には、見下ろす男の痛めつけるような視線。それは、ずっとずっと前から知っているものによく似ていた。

 紀之を恥として突き飛ばす理央の目。紀之を異端と決めつけ拒絶する母親の目。紀之を見限った父親の目。

 紀之を外れ者として冷ややかに見るゼミ生の目。紀之に近づかなくなった昔の友人たちの目。

 政治家の不祥事を糾弾するワイドショー。的外れな意見で批評される芸人やタレント。世間という壁。自立し切った同年代の会話。

 テレビカメラに興奮する一般人が語る『好きだった』。街中の誰も興味を持たない、アイドルグループの解散報道。

 荒れるSNS。飛び出る批判。スキャンダル。週刊誌の大見出し。ホストに貢いで自己破産。噂に過ぎなかった報道の数々。そんなもの見なくていいと、自分が切り捨ててきたすべて。

 負けていた。とっくのとうに、賭けになんか負けていたのだ。

 過去と現在というチップをすべてドブに捨てた。沈みかかった船だとはわかっていたのに、何度もその綻びから目を逸らした。その結果がこれじゃないか。

「だけどあなたは特別ですから」

 男の声が、紀之の耳の中で木霊する。それは歪んで、回って、粉々になって、紀之の喉を締めつけた。

「〝ニジュさん〟はプロのファンだから、宮内佑果を救う権利があります」

 背負ったリュックサックが、どすんと重くなる。肩と肋骨が、背中に引っ張られてぎりぎりと痛んだ。プロのファンだから。その言葉が脳をかっと熱くさせた。

「攻略法は、これでわかりましたよね。あなたは、それを達成する権利がある。宮内佑果の、あなた自身の、明るい未来を創ることができる」

 紀之の胸が、心臓が、激しく音を立てる。

 彼の、言おうとしていることは、自分にしか許されていない。

 そうだ。家に居場所がなくても、学校に居場所がなくても、〝ニジュ〟はいる。それは、確かに地に足を着け立っていて、特別で絶対の力を持っていて、人間に囲まれ、すべてを成し遂げ、愛され、認められ、許される存在だ。だから、そうだ、ニジュにはできることがある、こんな敗北はニジュには起こらない。まだ終わっていない。まだ終わらせられない。

 宮内佑果を救うには。

 ニジュを守るには。

 藤岡芽以さえいなければ。


「見ているだけじゃ、始まりませんよ」


 チップはまだ残っていた。



【989:名無しのドルオタ

 ラスト握手会、現場来てる人いるー?

 地方民なんでレポお願いするわ】

【990:名無しのドルオタ

 現場にいるけど、なんか隣の藤岡レーンが渋滞中。

 ずっとその場から離れないやつがいるっぽい】

【991:名無しのドルオタ

 ちょ、やばい】

【992:名無しのドルオタ

 事件発生】

【993:名無しのドルオタ

 どうした?】

【994:名無しのドルオタ

 簡単に言うと、

 謎の男が藤岡のレーンに並ぶ、なんかカッターみたいな刃物取り出す、暴れる】

【995:名無しのドルオタ

 藤岡の個人スレ見てきたけど画像あったよ

 あれニジュじゃね?】

【996:名無しのドルオタ

 かめこレーンが長いのはいつものことだろ、と思ったらなんだなんだ】

【997:名無しのドルオタ

 かめこ血出してる、腕から】

【998:名無しのドルオタ

 >>995

 ニジュってあのイキってる自称宮内オタ?

 あいつ現場来てんのかよ。毎回周りのオタとつるんで打ち上げとかしててクソ迷惑だったわ】

【999:名無しのドルオタ

 やばい、これ警察沙汰だ。かめこ倒れた。

 >>998

 こいつそんな有名なの? なんか喚いてるけど、ドタバタしてて聞こえねえ】

【1000:名無しのドルオタ

 ニジュって誰だよ】

【1001:運営

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【ぼうれいさんがいいねしました:1分前

 藤岡芽以をカッターで襲った宮内佑果害悪オタクの正体。

 自称最古参の宮内オタク、アカウント名・ニジュ。もとい、本名・奥野紀之。

 平明大・経済学部経営学科所属。私立進新高等学校卒業。弟は都立礼汪高等学校三年生、奥野理央。

 ホス狂バレした女の肩持ち続けてるオタ、マジでヤバかった模様。ファン名乗る資格なし。

 #拡散希望 #花霞14 #かめこちゃんを守ろう】



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