シナプス/前編
は、と口は音を発していた。
はあ、と叫びたくなったのに、紀之の喉は理性に従った。呟きが誰かに聞こえていないか、そして今自分は現実を生きているのか、不安になって紀之は辺りを見回した。
誰も、叫び出したりはしない。いつもの大学のPCルームだ。もうすぐ三限が始まる、と立ち上がる学生が紀之の前を横切った。
震える指でホームボタンを押し込む。ブラウザのアプリを閉じて、SNSのアイコンを開く。誰か、誰か、どういうことか教えてくれ。
ぶわっと白い画面が広がって、世界中の人間のたくさんの呟きが羅列されるタイムラインが表示される。文字、文字、文字。紀之は必死にただ、その脳内を占領している二文字を探す。
【腹減った。休憩なし五時間えぐい】
【ちょ笑 これめっちゃわかる(RT)】
【え、花霞解散? どゆこと】
【三面チャンネル更新きたこれ~】
どくん、と心臓が音を立てたのがわかった。
幻なんかじゃない。バグなんかでもない。
紀之はスマホをタップする。トレンド表示に切り替える。今現在、呟かれた数が多いワードが並んでいる。その中にも、やはり、あった。
【花霞解散】
紀之の呼吸が荒くなる。逸る鼓動を抑えることもできず、ただその文字をタップする。
【花霞解散とか信じらんない、センターの子好きだったんだけどなー】
【マジか、花霞解散】
【えー花霞解散って。ヤバいね。アイドル業界もそろそろキツいの?】
【花霞解散って言われても、正直センターの子のイメージしかない。かめこちゃんだっけ】
【花霞解散むり病んださいあく唯一好きだったアイドル】
喉が渇く。口の中の涎が歯の裏に引っついて、ねちねちと音を立てた。
そんな、そんな、どういうことだ、どういうことだよ。
SNS、ニュースアプリ、動画アプリ、そのすべてに同じ文字があった。たった四文字のそれが、紀之の時間を止めてしまった。ごおんごおんと、学内にチャイムが響き渡る。隣の席にいた学生が立ち上がって、そいつの右手にあったコーヒーの匂いが遠ざかっていく。だけど、紀之は椅子から立ち上がることができなかった。
検索欄を閉じて、タイムラインに画面を切り替える。誰か、説明してくれ。今、俺は現実にいるのか? そんなこと、起こり得るのか?
――解散、なんて。
紀之のタイムラインにはいくつものカラフルなアイコンが飛び交っているが、どれも十代後半から二十代前半の少女の写真だ。紀之のタイムラインではそれが当たり前だった。アイコンは自分を指すものではなく、自分が〝誰推し〟であるかを示すものだ。そう、だから、紀之の画面には――
【ニジュ@宮内佑果最推し】
薄桃色のゼッケンを身につけた、ダンスレッスン中の宮内佑果が、女神のように微笑んでいる。
【ジャキジャキジャンクははやみんのために生きてる:9分前
はい! もう会社辞めます! 推しがいなくなるのに労働に意味なんてない!】
【望月乃々推しの亡霊:9分前
推しグループの解散は、さすがに生まれて初めて】
【かぶとむし*くらるな単推し:9分前
死のう】
【オレンジ:8分前
とにかく俺は、いかちゃんが選ぶ道についていくのみっすよ……】
解散後の進路については、どうやらメンバーによるらしい。
紀之は花霞の公式サイトからブログページに飛ぶ。すいすいとサイト内をスクロールで駆け抜け、すぐさま目当ての四文字を見つけた。宮内佑果。最新記事は九月三十日、スマホが示す今日の日付は十月一日。さすがに、まだ更新はないみたいだ。紀之は落胆しつつも、少しだけ安堵している自分がいることに気がつく。もし、これで芸能界引退なんていきなり目にしたら――心臓が凍るように縮むのを感じた。
だが、気持ちが落ち着いたわけじゃない。頭の奥がじんじんと痛む。頭蓋骨に直接圧を掛けられているような鈍痛が、紀之の脳味噌を覆っている。
紀之は、再びSNSのアプリを開いた。そして、混乱するタイムラインを一瞥してから、暫し逡巡してまたホームボタンを押す。今度はブラウザアプリを取り出して、震える親指で開きっ放しのタブに移動した。
【花霞14宮内佑果を応援するスレ★Part79】
匿名掲示板の、見慣れたスレッドタイトルが紀之を迎え入れる。ここには、〝味方〟しかいない。紀之は、すいすいと急かすように指を動かして、最新のレスを表示させた。
【387:名無しのドルオタ
解散ねえ、まあこのスレでも散々言われてたけど】
【388:名無しのドルオタ
来週、ってか五日の握手会とミニライブが実質的な活動ラストか。
とりあえず宮内が個人活動するって言うなら俺はついてくぜ】
【389:名無しのドルオタ
公式サイトによると最後のミニライブで新曲披露して終わりらしい。
しかし新曲が出来上がってたのに解散とは、なんかきな臭いな……。
藤岡が寿アキラと揉めたってのはマジなんかな?
佐々木の脱退以降、雲行きは怪しかったよね】
【390:名無しのドルオタ
マジかー。ということは、ラジオとかテレビの番組も順番に終わっていくんだな。
メンバーと内輪の妄想話してゲラゲラ笑ってる宮内は、もう見れないのか……】
スマホに齧りついていた紀之を現実に引き戻したのはチャイムだった。ごおん、ごおんと無機質な鐘の音。小中高と聞き慣れたあのチャイムとはまったく違う、この大学固有の低い鐘の音。
壁に掛けてある時計を見て、これが本鈴であることを理解した紀之は、慌てて傍らに置いたままのリュックサックを引っ掴んだ。蔑ろにされていたノートもペンケースもその大きく開いた口に放り込んでしまって、撃ち抜かれたように立ち上がる。次の授業はゼミだ。遅刻なんてできない。遅刻なんてしたら、遅れてあの教室に入ろうものなら。
エレベーターに飛び乗り、ボタンを連打して、六階まで辿り着いたところで開いたドアから飛び降りる。そのまま一直線に走って、突き当たりの教室まで急ぐ。
ドアの真ん中に作られた窓ガラスから、教室の中を覗き込む。見る限り、すっかり授業は始まっているらしかった。十数人の生徒が、パイプ椅子に座って一点を見つめている。もう教授もスクリーンにスライドを映しているようだ。何人かはノートをぱらぱらと捲って、何人かは隣の席の人間と小さく言葉を交わしている。
もう、駄目だ。
紀之はその場を後にした。もうこうなってしまえば、この教室の中に入る術は――いや、入るのに必要な自分の度胸が、足りない。
ドアを開いた自分を想像して、背筋が凍る。全員の視線を集めて、ひっそりと教室の後ろまで移動する自分。遅れましたと乾いた喉で訴える自分。自己紹介以来話したこともないゼミ生たちの、冷ややかな目を一身に受ける自分。無理だ、帰ろう、単位は教授に直談判してなんとかしてもらおう。紀之の足取りは速くなる。さっさと、この廊下から抜けたかった。
紀之には、大学での友達がいない。そして、大学で、人と接したことが、ほとんどない。
【503:名無しのドルオタ
宮内のブログ更新はまだないね。高杉と山口は引退、荒木・土門・速水は女優コースか】
【504:名無しのドルオタ
何よりもアイドルでいられる自分が好き、ってみやうーは言ってたからなあ。
芸能界ごと引退はショックだけど、あり得るよな】
【505:名無しのドルオタ
ホストに貢ぎまくりのキャプテン候補生は引退】
【506:名無しのドルオタ
岡崎、倉田もブログ更新。二人とも引退だってね。
岡崎は宮内とのツーショ上げてる、岡崎宮内の漫才がもう見れないのは悲しいなあ】
【507:名無しのドルオタ
>>505
お前まだ粘着してんのかよ、消えろ】
【508:名無しのドルオタ
荒らしに構うなって……
そんなことより、俺は歌手路線に賭けるけどみんなはどう】
自宅の最寄りへ向かうバスの中で、紀之は数時間ぶりにスマホを開いて、またスレッドのタブを眺めていた。大学を出て、電車に乗ったりしているうちに、二百件近いレスが更新されている。
六年前、花霞14がデビューした頃から、紀之はいつもこのスレッドをチェックしていた。
紀之にとって、花霞は、宮内佑果は〝永遠の推し〟なのだ。
紀之は、花霞の動向も、彼女たちが行き着く先も、栄光だと信じて疑わなかった。運営の目指す路線や、プロデューサーである寿アキラの搾取商法だとか、そういう嫌な話はいつでも紀之の周りを飛び交っていた。だけど、何もかも無視した。囲っている大人たちがどうであろうと、スポットライトを浴びている彼女たちは何も間違っていない。彼女たちは、一心に、栄光という名の夢を持ち合わせている。花霞14を始めて見た時、紀之はそう確信した。そうして、彼女たちに未来を託した。周りの声に耳を塞いでいるうちに、コミュニティの作り方がわからなくなった。だけど、紀之が孤立すればするほど、花霞はステップを上がっていった。紀之は、人生を託したのだ。ひたむきに走り続ける、アイドルという現実に。
ブラウザのアプリを閉じて、SNSを開く。紀之は、こればかりを繰り返す自分が惨めに思えたが、少し目線を動かして車内を見渡せば、誰もがスマホを見て俯いている。
ダイレクトメッセージの通知画面をタップすると、紀之を心配する文言がずらりと並んだ。痛む頭とは別に、紀之の胸が弾む。
【@ジャキジャキジャンクははやみんのために生きてる
ニジュさん、ニュース見ましたか……】
【@望月乃々推しの亡霊
突然DMすみません。ニュースやトレンドはもうご覧になっているとは思いますが、どうしてもニジュさんの様子が気になって……。というか、こちらも情報の処理が上手くいっていないので、是非ゆっくりみんなでお話ししたい所存です~】
【@オレンジ
うおおおニジュさん、飲み行きましょおおおお俺許せねえよおおおお】
ニジュ、というのは紀之のアカウント名だ。このアカウントを設立した当初、六年前は、自分の誕生日が十二月二十日だからニジュウ、と適当につけた名前だったのだが、すっかり紀之のもう一つの名前となった。奥野紀之には気軽に接せる相手なんていないが、ニジュは一言呟けば人が集まる。アイドルの動向を追い、それに感想を述べれば、たくさんの人間がそれに同調したり共感したりする。花霞の結成当初から活動を知っているファンというのはそれだけで価値があって、ニジュは新規のファンにも古参と呼ばれるファンにも慕われた。
リプライやダイレクトメッセージを送ってきた者は、顔を知っている相手もいれば声さえ知らない相手もいる。みんな、ニジュさん、と紀之を呼んでいる。宮内佑果の名を知り、SNSに精通した人間ならば、誰でもニジュの名前を知っている。ニジュは宮内佑果の生配信ではもっとも高額の投げ銭をし、ファンクラブ会員のグレードはプレミアム、どのライブにも当然のように現れ、一度の握手会において何度も宮内佑果のレーンを回る。その姿は、誰が呼んだか〝プロのファン〟だ。紀之はそんなニジュの形を誇りに思っていたし、そう呼ばれる自分こそが宮内佑果のいちばんのファンだと認識していた。それは驕りでもなんでもない、単なる事実だった。
紀之は多数届いているダイレクトメッセージの中から、一つを手に取るようにタップする。
【@望月乃々推しの亡霊
突然DMすみません。ニュースやトレンドはもうご覧になっているとは思いますが、どうしてもニジュさんの様子が気になって……。というか、こちらも情報の処理が上手くいっていないので、是非ゆっくりみんなでお話ししたい所存です~】
【To:望月乃々推しの亡霊
いやいやこちらこそ! 僕も頭ぐちゃぐちゃなんで、話したいです!
ジャンクさんとか、オレンジさんとか、かぶとむしさんも誘いましょう! そんで、みんなで飲み明かしたいです……】
送信ボタンに親指が触れる。亡霊の名を冠しているこのアカウントは、望月乃々というメンバーを推すものにとっては神のような存在で、宮内佑果推しにとってのニジュと同列の〝プロのファン〟だ。通称、亡霊さん。亡霊さんはニジュとよくリプライを交わし合うアカウントの中でもかなり礼儀正しく生真面目な性格で、いつも文面からその聡明さが溢れている。紀之はいつでも、亡霊さんからの通知がもっとも嬉しい。亡霊さんのような頭の良い人に呟きを〝いいね〟と言われれば、自分の人格のすべてが肯定されたような気にさえなれる。何度か現実で顔を合わせたこともあるが、紀之よりは七つ上の二十七歳で、その若さには見合わない落ち着いた声と仕草に驚かされた。亡霊さんはリアルでも亡霊さんだ、とその時の紀之は思った。太いフレームの眼鏡を掛けて、冴えないようにも見えるが、文学青年といった風の知性を感じさせるその姿に、紀之は憧れさえ抱いた。亡霊さんという大人の前では、中学時代から使い続けてぼろぼろになったリュックサックをいつまでも提げている自分が、情けなく思えた。
ジャキジャキジャンク、通称ジャンクさんは速水ひかる推しにとっての神、オレンジさんは菅田愛夏推しにとっての神、かぶとむしさんは倉田瑠奈推しにとっての神。つまり、たった今紀之が送信したダイレクトメッセージは、実質、神々の会合への招集だ。
ふと、車内アナウンスが次に停まる場所の名前を告げた。紀之はスマホをパーカーのポケットに仕舞って、ボタンを押す。次止まります、と機械の声が響いた。
「邪魔」
ばさばさばさ、と紙が床に散らばる。
倒されたリュックサックの開きっ放しの口から、使ってもいない真っ白なルーズリーフが溢れ出ている。紀之は、あ、と言う前に背中を突き飛ばされた。
バランスを崩して膝をつく。転がした張本人である理央は、紀之に目もくれずすたすたと自分の部屋に戻っていく。紀之はリビングに取り残されて、溜息を吐きながらソファに座った。
高校三年生の理央は、この時期にはそろそろ二学期の中間考査を控えている。登校が必須になる日が少なくなってきていて、ここ最近の午後はほとんど家にいるようになった。年が明ければ受験だというのだから、ストレスが溜まるのも頷けるが、どんどん兄である紀之への当たりがきつくなっていく。母親にも父親にもそんな素振りは見せないのに、紀之と二人でいるところりと表情を変えて、弟でも次男でもない何かになる。紀之はその何かに触れるのがすっかり恐怖になっているのに、母親にも父親にもそんなことは言い出せなかった。自分の生活のすべてを、両親に頼り切っていることは自覚している。大学の中では一人暮らしや寮生活なんて単語が耳に入ることもままあるのに、未だに小遣いで毎日を過ごしている紀之はこの家で頭の上がる存在ではなかった。だけどアルバイト募集の広告を見ても、スマホを耳に寄せただけで足が震えてしまって駄目だった。電話もろくにできない自分が、自立なんてできるわけない、と思ってしまった。両親が紀之に不自由のない暮らしをさせているのは意地だ。大手広告代理店に勤める父親から裸で手渡される数万を、紀之はいつも自分の財布に入れていた。両親にも、理央にも頭が上がらない。何もかも自分が蒔いた種だ。
紀之はこの家で肩身の狭い思いばかりしていた。巣立つことも、追い出されることもできない。とはいえその一方で、自立という言葉を他人事のように思っているのも事実だった。
「紀之、帰ってたの?」
嗄れた声に玄関の方を振り向けば、ビニール袋のがさごそという音と共に母親が家に入ってくるのがわかった。
「うん」
「木曜日は遅くなるんじゃなかったっけ」
「今日の三限は休み。ゼミの先生が、今日来れないって」
ふうん、と言って母親はそのままダイニングの方へ向かっていった。紀之はその顔も見ず、テレビを点ける。もっと追及されるものだと思って身構えていたというのに、母親の反応が想定より希薄で拍子抜けした。その一方でこういう反応が予想通りでもあったから、紀之はそれ以上何も考えようとしなかった。
テレビが光を放って、紀之の両眼を強烈に突き刺した。この時間はどのチャンネルもワイドショーばかりだ。つまらない、と思いながらもそのまま画面を眺めておく。知らない政治家が知らない女性と知らない店で密会。どうでもいい、と紀之は心の中で呟いた。そんなこと掘り起こさなければ誰の人生に支障が生まれることもないというのに、どうしてわざわざそんなこと取り上げるのだろう。こんな真っ昼間に。
ダイニングの方から、母親の声が響いた。
「この人、前もなんやかんや言われてたよねえ」
「そうなん」
「前はねえ、国のお金で風俗だったかなあ、お母さんそういう人ほんとに無理だわあ」
無理って何が無理。聞こうとして、やめた。紀之の母親はワイドショーを賑わす誰かの不祥事に対して、潔癖すぎるきらいがある。紀之が小さかった頃と比べたら、年を経てから流行りの音楽を聴かなくなったし、漫画の話をすればわからないと一蹴するようになった。それと反比例するように、芸能界のゴシップやスキャンダルに熱心に耳を傾けるようになった。〝国のお金〟や〝風俗〟が細かく何を指しているか、何のためにそこにあるかは思考せず、ただ〝無理〟という一言で悪い噂を呑み込むようになった。紀之ほどじゃないが、母親もよくスマホを弄ってはSNSにログインしていて、面白いと思った投稿を紀之や理央に見せるのが家族の話の種にもなっている。その話というのも、紀之には聞いてすぐガセだとわかることや、偏った思想が基になっているものが多々あって、いつも反応に困った。理央はそういう時、上手く母親の考え方の軌道を修正する誘導ができるし、父親はそもそも話に深く入り込まず曖昧な相槌で話を終える。正しい対応ができない紀之だけが母親の逆鱗に触れてしまうから、返事には気をつけざるを得ない。最近は、どんどんSNSの声に影響されるようになって、テレビは害悪だ、テレビに出ている人間はみんな汚い金を貰っている、などと陰謀論じみた口調で語ることも多くなった。そもそも、汚かろうが綺麗だろうが金を貰わない仕事の方がおかしい、と紀之は思っていたが、そんなことを言えばまた論争になるのが目に見えている。論争、と言えば聞こえはいいが、お互いに言いたいことを言い合うだけの無駄な時間だ。そういう時の母親は思考をすっかり停止させてしまっているから、どれだけ議論のポーズをとってもそこに進展はないのだ。じゃああんたは、これが正しいって言いたいの。母親は、紀之にそう言うが、紀之からすれば正しいメディアなんて存在しない。地上波に乗って、芸人が下世話なネタを披露するのも、やらせが見え見えのドッキリを掛けるのも、スタッフの狙い目がわかりやすい恋愛ドラマが横行するのだって、面白ければそれでいい。母親からするとどれも正しくなくて、世には悪いことらしいけれど、紀之はどれも面白いからいい、と思っていた。
――例えば、アイドルのスキャンダルだって、そうだった。
「今の世の中、こんなんばっかりで嫌になるねえ。政治家はみいんな目が死んでるし、音楽はどれもこれも昔のパクリばっかりで。お笑い芸人なんか、今の若手はなんも面白いことしないし、やることは古いし。なんやったっけねえ、前、夜中の番組でねえ。コンビのお兄ちゃんたちが出てたんやけど、ありゃあ売れないねえ。だって、漫才だってのにあっちこっち走り回って、喋ってることも一切理解できないし。やりたいことやってるだけ、笑かそうって気がないもんねえ」
紀之は、口を噤む。
違う、違うんだよ。
政治家の目が死んでるっつったって、夜通し政治に携わってんだから重たい表情にもなるだろ。
そもそも最近の音楽なんかサビ以外聞いたことない癖に。技術が進歩してるんだから、昔じゃあり得ない、えげつない転調してる曲とかいっぱいあるんだよ。昔の音楽しか知らないから、無理矢理そこに当てはめようとしてるんじゃん。
今の若手芸人はって、たぶん想像してるのはみんな中堅だよ。特に芸歴の浅い若手なんか、面白いからこそ、テレビに出られるんだよ。面白いと評価されてなかったら、表には出てこれないんだって。
あとその夜中の番組ってのは、俺も配信されてるのを見たけど、それってぎりぎりプライム帯でしょ。三面鏡、今ものすごい売れてるんだよ。売れてるからその時間帯の地上波全国区のテレビ出てんだよ。あんた漫才なんか生で見たことないだろ。ながら見でしかないから理解が追いつかないんだろ。笑おうって気がないのはそっちじゃん。そうやって偏った目で見てるから、SNSがすべてだと思ってるから、自分は賢いと勘違いしてるから、作られたものを楽しめないんだろ!
紀之は、ぎゅっと唇を噛んだ。駄目だ、駄目だ。そう言えば、また、自分は言葉のマシンガンを浴びるだけだ。怒ってるでも叱ってるでもない、主張。論拠なんてどこにもない、ただ自分は間違っていない、そういう価値のない理論武装で、語気だけで蜂の巣にされる。
もっと頭が良ければ。もっと話が上手ければ。もっと金を稼いでいれば。もっと、力があれば、こんな思いはしなくて済むのに。もっともっと、できることがあれば、こんな家を出て、自由になれるのに。自分が面白いと、好きだと、追い掛けたいと思うことだけ追い掛けていけるのに。
テレビの画面が切り替わる。続いてのニュースです、とキャスターが告げた。
『人気アイドルグループが、突然の解散を発表しました』
どくん、と心臓の音がした。
『有名プロデューサーである寿アキラ氏のもと、二〇一四年に結成され人気を博したアイドルグループ、花霞14が突然の解散を発表しました。公式サイトには、詳細を追って報告する旨と共に、寿アキラ氏直筆のメッセージが公開されています』
ビニール袋の音が、止まった。
『花霞14は、二〇一四年に発売されたデビューシングル、アウトローリーが女性アーティストでは異例のスピードで売り上げを伸ばし、鮮烈なデビューを果たしたことで多く知られています。既存の枠に囚われない、アイデンティティを意識したその路線に老若男女のファンを得ていました』
アナウンサーの声が、ロボットの自動読み上げ機能のようにさえ聞こえた。
あ、これは、まずい。
『今後の活動の動向については、メンバー個人による報告が待たれるとのことです。この報道について、街の声は――』
『えっ、嘘、マジで?』
『アウトローリー、好きでした! うわー、信じられねえー』
『センターの藤岡さんの印象が強いですね、解散はちょっと突然すぎてびっくり』
『一時期めちゃくちゃ聞いてました! 解散、本当ですか?』
がしゃ、と音が響いた。母親が、ビニール袋をゴミ箱に放り投げた、らしい。
「お母さん、あれだけは好きになれないわあ」
紀之は自分の手先足先の血が、すうと引いていくのがわかった。
聞いてないよ、そんなこと。
「まだ十四、五の女の子にパンクな服着せて踊らせて、エンタメとして消費するなんて」
うるさい。
「寿アキラの商法は昔から嫌いだったけど、ここまでくると人権侵害だよね」
うるさい、うるさい。黙れ。
「そんなのに群がるファンも、みんな盲目の信者でしかないんだから」
お前に何がわかる。
――耐えられない。
リュックサックを持ち、ソファから飛び退くようにリビングを後にした。
廊下を走るように抜けて、自室の部屋を勢い良く開く。
壁に貼られた大きなポスターが、グッズの数々が、棚に飾ったペンライトが、花霞の、宮内佑果のすべてが紀之を受け入れた。
母親は、きっと知っている。
花霞と紀之の関係を。
当てつけみたいな口調が悔しくて、勢いよくベッドに身を投げる。そのまま、手探りでスマホを掴んで、ホームボタンを押した。
新着通知が、一件。
亡霊さんだ。
紀之の胸が、とくんと鳴った。
【@望月乃々推しの亡霊
いいですね! ジャンクさん、オレンジさん、かぶとむしさんもこちらでお誘いしておきました~。
お三方は明日にでも集まれるとのことで、僕も仕事終わり次第向かいたいのですが、ニジュさんはどうですか?】
もちろん、大丈夫です!
紀之の指が動く。大学の講義も、ぜんぶ、サボってしまおう。なかったことに、してしまおう。
だってこんなの、非常事態だ。
俺にはもう、花霞とみやうーしかいないんだから。
【742:名無しのドルオタ
解散のせいでスレ荒れてんな】
【743:名無しのドルオタ
ブログ更新来ないな。これは引退説濃厚か……】
【744:名無しのドルオタ
ホストと結婚ルートだろ】
【745:名無しのドルオタ
みやうー、頼む、なんか更新してくれえええ】
【746:名無しのドルオタ
情報きた】
【747:名無しのドルオタ
きたね】
【748:名無しのドルオタ
花霞14公式ブログ:宮内佑果
二〇二〇年一〇月一日 / 『さいごに。』
《リンク先を表示》】
【749:名無しのドルオタ
マジか】
紀之は、ダイレクトメッセージの送信ボタンを、押した。




