さみしがりグラスホッパー/後編
「マジでテスト勉強なんにもしてねえわー」
志織がそう言いながら、背負っていたリュックサックを机に放り投げた。くっつけられているストラップやキーホルダーたちが、しゃららと音を立てる。
「今回の生物基礎えぐいよ、範囲」
「ちょっと待ってー。生物なんか私、一言も話聞いてないんだけど」
どかん、と椅子に座った志織に合わせて彼女のポニーテールが弾んで、まるで機嫌の悪い犬か猫かが尻尾を叩きつけたみたいになった。真波は、その毛先を目で追って、やっぱいいなあ、と口に出さず心で思った。
「なんだっけ、DNAだっけ」
「そう、そう。なんか、ヌク……ヌクレオなんちゃら、みたいな」
「ヌクレオソーム!」
志織は片手でリュックサックから教科書を取り出して、片手で真波を指差す。やば、覚えてたんだけど、天才じゃん、と一人で盛り上がっている志織に、小さくわざとらしい拍手を添えてやる。
「で、それって何なんだっけ?」
「知らねえ~」
真波はそんな志織の返答を聞いて、大きく笑った。志織は粗雑だし、口も悪いし、わからないことは素直にわからないと言うし、自分が楽しめることにしか興味がない。ある意味で真っ直ぐ、ある意味で超絶捻くれている。それは真波も同じで、そうなるとやっぱり真波と志織の馬は合うし、クラスメイトからは浮く。言葉遣いに気をつけて、流行を追い掛けて、勉強も頑張れる周りの女子からは、〝自己中〟としか呼ばれない。直接呼ばれたことはないけれど、きっと何人かはそう思っている。だから、志織は真波の元へ走ってくる。今朝だって、志織が最初に話しかけるのは真波だ。
――ある意味、依存。
でも高校生なんてそんなもんだ。みんな、一人になるのは怖い。だけど、誰しもと仲良くするなんて無理なのだ。結局、明日も明後日も、みんながみんな、教室のどの席を陣取るかで頭がいっぱいだ。
だけど、それってそんなに悪いことかな。真波は、明日も明後日も志織とアニメの話をして勉強を面倒臭がっていられたら、それでいい。
「高杉!」
真波は、遠くから響いた男子の声に振り向いた。すぐ、それが自分の苗字じゃないことに気がついて、だけど勘違いしたんだと目の前の志織に思われるのが癪で、大きな音にびっくりしたという体で音のする方を見た。
「おはよー」
「はよ、お前昨日古典の教科書返せっつったべ」
「あ、すまん」
席に着いた高杉は、真ん中で分けた長い髪を掻きながらクラスの男子と談笑している。へらへらと浮ついた笑みに、真波の胸の奥がむかついた。高杉の襟足は肩につくほどで、真波より長い。その癖、鼻は高くて睫毛も長い。なのに、真波より背が高い。
高杉を見ると、真波はいつも自分が未完成で奇怪な生き物に思えて、ただただ嫌になる。男にも女にもなり切れなかった自分が、酷く惨めに思えてくる。高杉みたいに、高い身長と運動神経それから綺麗な顔と素直な性格があったら、女だけど男より格好良い、なんて言われたかもしれない。高杉の大きな瞳に見下ろされると、今の真波じゃ男になるにも女になるにも足りていない、そう言われているような気になった。欠陥品め、と言われているような気がする。被害妄想だけれど。
「てかさあ、花霞解散したの知ってた?」
高杉の隣に座る男子が、わざとらしいくらい大きな声で言った。花霞、という言葉に、真波の心臓が飛び跳ねる。
聞かないようにしよう、とまた志織の方を向けば、志織はすっかり手元のスマホに夢中になっている。朝のSNSチェックは、確かに十七歳全員のルーティーンなので仕方がない。うんざりしながら、真波も教卓の方を向いて、自分のスマホを手に取った。どうせ、あと五分でチャイムが鳴って、担任が入ってくる。
タイムラインを繰っても繰っても、この時間に起きているフォロワーの数は少ない。当然、投稿自体も少ないから、結構退屈だ。志織はフォロワーが多いから、恐らく昨晩自分に来ていたリプライを返したりしているのだろう。
たった五分が、永遠に感じられる。その間も、不躾に男子たちの大きな声が耳に入ってくる。耳を塞げないどころか、手元から得られる情報がないせいで、どんどんそちらに気持ちが傾いていってしまう。
「ショックだわー。割と好きだったんだよね」
「え、高杉が? マジで? アイドルじゃん」
「なんかさあ、メンバーで俺と同じ名字の子がいて。それでちょっとだけ追ってた、一時期」
「え、可愛い?」
「可愛い。高杉めあり。可愛いけど、なんか去年とかかなあ、IT社長との写真撮られて、はは、それでどうでもよくなった」
「結局アイドルってそうなんだよな、てかヒット曲とかあった?」
「あったよ、たくさん。なんか賞とか取ってたし」
「ああ、俺あれなら知ってる。アウトローリー」
「あれめちゃくちゃ売れたもん。デビュー曲だし、活動家とかがこぞって褒めるから。でもさあ、本当はもっといい曲いっぱいあんだよね」
「えー、どうせ寿アキラが作ってるんじゃん? オッサンが書いた詞っしょ」
「そうそう、だからさあ、変にカッコつけたやつより、ふわっとした恋愛ソングがいいんだよね。歌詞も、難しいこととかなんもなく、ただ純粋にパフォーマンス楽しめる曲。それで初めて輝くメンバーがいるんだよ。まあ、プロデュース的には藤岡芽以とロック要素で売っていきたいんだろうなあって感じだったけどさ」
「恋愛ソングなんてあんの?」
「たくさんある。でも、めっちゃ人気あるやつで、俺が好きなのは、」
真波の、タイムラインを繰る手が、止まる。
――さみしがりグラスホッパー。
頭の中に、映像が浮かんだ。
初めてステージに立つ佐々木千景を見た、あの日の、目に焼きついて離れない、映像。
――どんなにどんなに走っても、あなたの歩幅に追いつかないの。
――飛び跳ねて飛び跳ねても、あなたの影を踏めなくて。
――だから、私、皮を脱ぐの。
――あなたの理想に近づきたいの。
――私とあなたの形に、名前をつけてほしいのよ。
『さみしがりグラスホッパー』。
花霞14の、四枚目のシングルに収録された曲。
表題曲ではない、ファンでなければ知らない隠れた名曲。
そして、佐々木千景が、唯一二列目中央で踊る曲だ。
センターは藤岡芽以だが、サビ入りの振り付けでフォーメーションの外側から座っていき、二列目中央に立つ佐々木千景が一人立つシーンがある。佐々木千景のファンにとって、『さみしがりグラスホッパー』は伝説の曲だ。ステージに一人立ち天を仰ぐ佐々木千景は、スポットライトを全身に浴びて、微笑む。その微笑みは鬼気迫る決死の微笑みであり、客席の視線を一身に集める。
佐々木千景は、藤岡芽以のような天才ではないし、神々しい存在ではない。メンバーの中でいちばんに人間らしく、不器用な、縁の下の力持ち。だからこそ伝わる、胸を引き裂くような笑み。曲が表現する、叶うことのない切ない恋心。
さみしがりグラスホッパーという曲は、佐々木千景という少女の魅力を最大限に詰め込んだ、珠玉の名曲なのだ。
真波は、脳が沸騰していくのを感じた。心臓がうるさくて、指先が震えた。
まだ、あの曲のこと、こんなに好きなんだ。
佐々木千景のファンである真波にとって、もちろんこの曲は名曲だ。だけど、それと同時に、佐々木千景を〝閉じ込めた〟曲でもあった。
佐々木千景の魅力が、この曲に集約されすぎているのだ。そして、この曲での実質的な裏センター扱いを最後に、佐々木千景がセンターになるフォーメーションが組まれることは結局なかった。
運営が、事務所が、寿アキラが、慢心し佐々木千景の魅力を閉じ込めてしまった。
真波は、少なからずそのことに憤っていた。
だけど、実際、人の口からその名前が出た時、こんなに心が躍る。
それが、悔しくてたまらなかった。
高杉が次に何かを言い掛けた時、チャイムが鳴った。がらがら、という音が響いて、担任が入ってくるのがわかった。
真波は、前を向けないまま、スマホを握り締めた。
【ねこ大好き:6分前
花霞解散。寿アキラの売り出し方って、今じゃウケないんだよな。
ていうか、商売の匂いが強すぎて、頭の悪いアイドルオタク以外食いつかないっていう(笑)】
【寿アキラを許すな:3分前
花霞っていうか、藤岡芽以を売り出そうというやり方が透けて見えすぎ。
そんなんだから、他のメンバーは腐っていったんだよ。
唯一の潤滑油だった佐々木千景がいなくなったら、そりゃぶっ壊れるだろ】
【デリヘラー:2分前
嫌いじゃなかったけどな、花霞。まあ同じ箱に年頃の女の子を十数人詰め込んだら、ごちゃごちゃにもなるよねー】
【社畜:2分前
積み重なっていた花霞14の失敗。
寿アキラのコネで大々的にデビューしたはいいけれど、パフォーマンスとビジュアルを追求した結果、全体的にコミュニケーション力の低い素人をかき集めたからお茶の間にそれぞれのメンバーが浸透することはなかった】
【社畜:2分前
藤岡芽以という天才がいたから、注目こそされたけれど一過性のものに過ぎなかった。だというのにそれに縛られて、運営側はアウトロー路線を継続。アイドルという華のある世界に憧れがあったメンバーは、次第にフラストレーションが溜まる。
元キャプテン・佐々木千景が全員を繋いできたが、事務所に推されないストレスとメンバーの不和により卒業という名の脱退】
【社畜:1分前
ここからすべてが狂った。佐々木がいなくなり、統率を失ったメンバーがどんどん勝手を始めた。倉田瑠奈と美容系動画配信者・るりりのSNS〝交際匂わせ〟騒動に始まり、望月乃々が年上経営者との不倫現場をスクープされ、高杉めありがIT社長との路上キスを撮られるなど、スキャンダルが相次いだ。新キャプテンは宮内佑果に決まったが、当の宮内も週刊誌で〝ホスト狂い〟の毎日を過ごしていることが明かされてしまう】
【社畜:1分前
花霞14の解散、つまり崩壊は必然だったと言える。
盲目なファンたちは数多くのスキャンダルやスクープを見なかったこととしているようだが、これは明らかな事実だ。
そしてもう一つ確かなことがある】
【社畜:現在
現在、花霞14を批判しているのは、そのほとんどがかつて盲目だった信者たちだ。
僕も含め、あの鮮烈なデビューに踊らされた、舞台装置の欠陥に気づかなかった者たちは、そのハリボテの先が見えたことに憤っているのだ。
アイドルという仕事が何なのか、その言葉がどんなことを意味するのか、君たちを愛しているのは本当にその隣にいる男なのか。
花霞14のメンバーには、それぞれの道へ進む前にこのことをしっかり受け止めてほしいと、切に願う】
気づいたら、SNSの検索欄にそのワードを入れてしまう。
真波は、誰のとも知らない公開アカウントの投稿を眺めながら、目を擦った。
中間考査の期間は、部活動がない。早く帰れるのは嬉しいけれど、正直、漫画研究部での活動がなければ、ただスマホを見るだけで午後を過ごせてしまう。
電車に揺られながら、真波は何度も検索結果を繰った。花霞の解散には、好意的な意見がよく目につく。きっと、自分の中で、そういう言葉を探しているからだ。あんなグループ解散してよかったよね、と誰かの同意を求めている。それはわかっていたし、愚かだと認識こそしていたのだけれど、やめられなかった。
学校では、志織も他の女子も、誰も花霞の話題なんか口に出さなかった。誰も興味がないのだ。みんなわかっているからだ。大人が作り出した〝流行〟なんかに縋るより、手元にある機械を操ればいくらでもエンターテイメントがある、ということが。
大々的にデビューしたアイドルグループなんて、実のところ一部しか食いついていないのだ。真波はそうだと確信していた。真波や志織はアニメが好きだけど、クラスでいちばん声の大きい竹内さんは韓流俳優が好きだと言うし、軽音楽部の稲葉さんはお笑いが好きで三面鏡という芸人を『推し』だと語っていた。絵が上手くて足が速い青木はバーチャル系の動画配信者が好きで、剽軽な性格で先生とすぐ打ち解ける伊藤は恋愛リアリティーショーにかなり詳しい。真波も志織も、彼女たちと一度もその話を交わしたことはない。反対に、彼女たちとアニメの話をしたこともない。それでいい。それでよかった。クラスのみんなは休み時間になるとそれぞれのスマホを手にしていて、その画面の中にそれぞれの世界がある。だから、真波は韓流ドラマもお笑いもバーチャル配信者も恋愛リアリティーショーも見なかった。そして、志織と花霞の話をしたこともなかった。
真波は自分の世界のタイムラインを、何度も繰る。最新の投稿を求めて、その先を目指す。
【ぼうれい:現在
花霞ってさ、結局大人の生み出した幻想でしかないんだよな。それを理解せずしがみつくオタク、さすがにダサい】
【623:現在
るりりとの一件があってから、花霞とか全体的に信用してない。解散してくれてよかった。もう芸能界に首突っ込まないでね、素人のお嬢さんたち】
【デリヘラー:現在
花霞といえば誰が好きだったとかは、オッサンにはないんだけど(笑)
スキャンダルとか云々、責めるほどのことじゃないと思うけどね。
清廉潔白でいなきゃ厳しいんだね、今の芸能界って】
【裏:現在
もうアイドルとか推すのやめようぜ。花霞なんか見えてた地雷じゃん。いいことないよ、みんな】
大人の生み出した幻想。素人の集まり。スキャンダルの温床。見えてた地雷。
真波の背後にある窓から、夕日が差し込む。車内アナウンスが、次は上井草、と繰り返した。
制服のポケットにスマホを仕舞って、リュックサックを背負いながら立ち上がる。こんなもの見ていたって仕方がない。志織にも、SNSのフォロワーにも花霞の話題は出していない。佐々木千景の卒業以来、アイドルが好きな人間と繋がっていたアカウントはぜんぶ消した。今でも使っているアカウントでは、花霞の名前を一度たりとも書かなかった。
あんなに好きだったのが、馬鹿らしい。
沸々と湧き上がる、侮辱されたような悔しさと心にぽっかりと穴を残した失望感が、真波の中にあるプライドという壁に阻まれてその名を呼ぶことを拒んだ。
顔を上げると、ドアに貼りつけられた車内広告の中で、見覚えのある顔が何かを携え立っていた。
佐々木千景だ。
風邪薬か何かの広告だ。右下に、九龍製薬と書かれている。巨大なカプセルの隣に、手足をすらりと伸ばした佐々木千景が、堂々とした表情で仁王立ちしている。
【ちょっとの風邪にも、負けんな!】
そんなキャッチコピーと共に、佐々木千景はそこにいた。
――そういえば、最後に曲とか出したんだっけ。
――解散って、実際はいつになったら完全に終わるんだろう。
――ラストライブとか、やるのかな。
真波は頭を振った。
もう、今更彼女たちを好きになんてなれない。
佐々木千景が大好きだった。
佐々木千景が好きだと言う、花霞が好きだった。
それだけだった。
――俺だけ、じゃないよな。
花霞に失望してしまったのは、花霞を好きになれなくなったのは、自分だけじゃないはずだ。
みんな失望して、好きになれなくなって、解散を喜んでいるはずなんだ。
なあ、そうだよな。誰か認めてくれ。
電車が止まる。真波の足がふらつく。ドアが開いて、佐々木千景がいなくなる。
隣の車両から、人が降りていく。
真波は一歩踏み出して、電車を降りた。劣化でぼろぼろの柱が、真波を迎え入れていた。
クラスで花霞の話をしている人はいない。
花霞の解散を悲しむ人はいない。花霞の解散を喜ぶ人も、いない。
アニメも韓流ドラマもお笑いもバーチャル配信者も恋愛リアリティーショーも、その話をしているのは、全員じゃない。
真波も、志織も、竹内さんも稲葉さんも青木も伊藤も、高杉も、みんな一人だ。
みんな、好きなものがある。
みんな、好きになれないものがある。
だけど、みんな、一人ぼっちだ。
歩き出した拍子に、スカートのポケットに入れられたスマホが、ずんと重くなった気がした。だからスカートは嫌なんだ、と真波は色の薄い唇を噛み締めた。
「昨日、勉強した?」
「してねえ」
「じゃあなんでそんなに眠そうなの」
志織は肘をついてそう訊ねた。およそ返答と呼べる答えが思いつかなくて、ううんだかむうんだかよくわからない返事で誤魔化した。実際は、スマホを見ていたら日付が変わった、というだけだ。
水曜日の二時間目は、睡魔との格闘で忙しい。生物基礎の授業なんかほとんどまともに受けてこなかったから、考査が近づくたびに易々寝てはいられない状況に陥る。優等生になれない真波は、せめて目立った不良にはなりたくないというわけで、赤点やクラス最低点はどうしても避けたかった。中学時代から文系の真波には、生物教師が放つ言葉がどれも理解できない。理解できても、カタカナだ、というレベルだ。
「そういえばさ、昨日『オムニバススター』の舞台化発表されたじゃん」
「え、何、それ漫画?」
「そう、そう。まだ読んでないんだけど、めっちゃ次来るって話題よ」
志織がスマホに顔を向ける。どうやらその漫画の画像を探しているらしいが、睡魔との格闘で疲弊し切っている真波はほとんど目が開かない。
「どういう話」
「高野は好きだと思うなあ、青年漫画なんだけど。ゾンビが出る話で」
「お、好きだわ」
自分の机に向き直って三限の用意を始める。生物からの体育。体操着の入った袋を机の横から引っ張り出し、席を立つ。志織もそれに合わせて立ち上がるが、相変わらず視線はスマホに向いている。教室の中からどんどん人が動いていく。
「あのね、舞台のキャストが豪華なんよねー」
「俺、俳優詳しくないけどなあ」
「主役が藤本ケンジで、ヒロインが芥見楓」
「お、その辺は知ってるかも」
「あと、後藤丹次郎とか、佐々木千景、えーっとあと尾田心とかも有名どころだね」
「佐々木千景?」
「うん、高野好きだったよね? 佐々木千景」
その時初めて、志織がこちらを見た。あ、そうか、それを言いたかったのか。
志織は真波が一年の頃、佐々木千景を、花霞を追い掛けていたことをなんとなく知っている。ちょっと前まで好きだったんだよね、とは確かに数度伝えたことがある。だけど、お互いそこにそれ以上踏み込めなかった。真波が志織に花霞の話を振れないように、志織も真波に花霞のことは聞かなかった。だからこうして、さり気なく、今の心境を伺っている。気遣いでもあり、野次馬でもあり、悪意も善意もそこにはなかった。志織は、花霞に興味はない。佐々木千景にも、興味はない。志織の興味の矛先が向いているのは、〝花霞を失った真波〟だ。
「……まあ。佐々木千景は、ね」
「え、じゃあさ、今度一緒に行かない? 十二月から始まるんだって」
「いいよ、別に」
「やったー、じゃあ後で昼休みにいろいろ送るね」
志織がスマホをスカートのポケットに仕舞う。すんなりとした動作、短いスカート。あ、いいな。真波はまた、心の中でぽつりとそう呟いていた。
「及川」
不意に、背後から声がした。額に皺を寄せた生物教師が、志織を呼んでいた。
「ちょっと、こっち」
うわ、やば。志織はそう零して、口を押さえている。
「どうした」
「提出物、たぶん」
そのまま彼女は、教卓の方まで走っていく。
出し忘れか、足りないところでもあったかな。真波は、深く考えず、先行ってるよと志織の方へ声を掛けた。オッケー、と指でサインを作る彼女は、どうやら今から怒られることに違いはないらしい。
仕方ない、一人で体育館まで行くか。
既に大多数が抜けた教室を、真波もひっそり後にする。
その時だった。
「高野さん」
声がした。
低くて、よく通る声だった。
高杉だ、とすぐわかった。振り返った真波を、高杉は見下ろしていた。
あ。
真波は、思わず声を漏らしそうになってしまった。
――ショックだわー。割と好きだったんだよね。
――なんかさあ、メンバーで俺と同じ名字の子がいて。それでちょっとだけ追ってた、一時期。
――変にカッコつけたやつより、ふわっとした恋愛ソングがいいんだよね。歌詞も、難しいこととかなんもなく、ただ純粋にパフォーマンス楽しめる曲。それで初めて輝くメンバーがいるんだよ。まあ、プロデュース的には藤岡芽以とロック要素で売っていきたいんだろうなあって感じだったけどさ。
――めっちゃ人気あるやつで、俺が好きなのは、
――さみしがりグラスホッパー。
まさか。
まさか、と思った。
高杉が真波を見ている。こんなに近くで見たのは、初めてだった。
睫毛が長い。眉毛は綺麗なアーチを描いている。口元にほくろがある。
瞬きをすれば、この一瞬が永遠になってしまうんじゃないかと思った。
「高野、さんってさあ」
どうしよう。
ごめん。もう、花霞なんか、好きじゃないよ。
違うな。
もしかして、知ってたの。
違う、違う。
解散して、どう思った。
あんなのプロデュース失敗だよね。
花霞のライブ行ったことあるの。
佐々木千景、好き?
違う。
「今日、日直お願いできる?」
「いい、けど」
あー、ありがと。助かったわ。
顔の前で手を合わせて、高杉が笑う。
「ごめん、マジでごめん。俺、今日早退するからさ。先生に言っといて、よろしく」
厚い唇を歪ませて、高杉はにかっと歯を見せた。
真波は、ほとんど何も考えられないまま、うん、と頷いた。ほら、だから、期待したって仕方ないのに。
高杉の顔の前で合わせられた両手は、黒くてごつごつしていて、丸いばかりの真波のそれとはまったく違った。やっぱり、これが正しいものだと言われたような気がして、真波の心の中にまた黒い風が吹いた。
どうせサボりだろ、と笑い飛ばすことだってできる。人間と人間なのだから、できない会話なんてない。なのに、真波と高杉の間には、大きくて硬い壁があった。真波は、思い出した。学校とはそういう場所だった。
――どんなにどんなに走っても、あなたの歩幅に追いつかないの。
――飛び跳ねて飛び跳ねても、あなたの影を踏めなくて。
視界の端に、あの艶やかな黒髪の踊るのが、見えた気がした。
千景ちゃん。
大好きで、憧れで、わたしが初めて目指したいと思えた、千景ちゃん。
――だから、私、皮を脱ぐの。
――あなたの理想に近づきたいの。
会いたい。
初めて行った握手会で、頭が真っ白になった真波に微笑みかけてくれた千景ちゃん。
週一の冠番組で、藤岡芽以や宮内佑果と肩を組んで企画に挑んでいた千景ちゃん。
卒業前最後のライブで、誰よりも綺麗な涙を流していた千景ちゃん。
――私とあなたの形に、名前をつけてほしいのよ。
わからないんだよ。
韓流ドラマもお笑いもバーチャル系配信も恋愛リアリティーショーも、志織が話すアニメも、真波には何もわからない。どれもが、自分の領域ではなくて。
花霞は大人の作り出した幻想だ。
その歌詞は綺麗事ばかりで、中身なんてない。ましてや、社会との繋がりなんて一切ない。
もし、社会人であの反骨心溢れる、勝手ばかりの歌詞に同調する人がいたらそいつは馬鹿だ。都合のいいように現実を解釈して、被害妄想に浸っているだけだ。そんな人間は、自分のことばかりで、社会に文句を言う権利なんてない。真波はそう思っていた。確かに、ずっと前から、そう思っていた。
だけど。
真波が好きだったのは、反骨心溢れるロックな、社会への抵抗を謳う、同調圧力からの解放を宣うアイドルじゃない。
さみしがりグラスホッパーを披露する藤岡芽以が、そしてメンバー全員が、佐々木千景を立てるために完璧なタイミングで座り込む。その姿が、その十四人が好きだった。
一つのアイドルグループを大成させたい、少女たちが理想像へ突き進むその姿が、真波は好きだったのだ。
佐々木千景の輝きは、メンバー個々人がなりたいと思い描いたアイドル像は、それを掴もうと足掻いた姿は、本物だったんじゃないか。
全員で向かう目的地を持っていた。
それが羨ましくて、同時に、尊くもあったんじゃないか。
高杉が、教室を走り出た。教師との会話を終えた志織が、こちらへ駆け足で近づいてくる。
まだ伸び切らない襟足に触れて、真波は思った。
花霞が解散して、本当によかったのだろうか。
真波は、この感情の名前を知らなかった。




