さみしがりグラスホッパー/前編
ヘアアイロンを置く。痺れた右腕が、少しだけ楽になる。
やっぱり、まだ足りない。
真波は鏡に映る自分と向き合って、ただ落胆した。巻けない。巻けるくらいの長さには、まだ足りない。真波の両耳を隠す黒髪は、首と顎に沿うように波を描いている。その毛先は、肩には届かない。
白いブラウスのボタンの、一番上を閉める。やっぱり、俺には無理なんだ。スカートの裾の、ほつれた糸がちくりと真波のふくらはぎを傷つけた。鏡には、垢抜けないショートカットが惨めたらしく映り込んでいる。
リビングから母が真波の名を呼んでいた。はあい、と声を返すと、母は一層大きな声を出した。
「あんたあ、遅刻するよ」
「すぐ出るって。もう終わり」
「なあんで怒ってんの」
「怒ってないよ」
怒ってないよ、という自分の喉から響いた声が、確かに怒気を含んでいるように聞こえて真波は焦る。そんなつもりはないのに。
真波の声は女子の割に相当低い。電話口に、父親と間違えられたこともある。ちょっとした興味で自分の声をスマホに録音した時は、完全に男の声がして驚いた。音質が悪いのもあるけれど、その低くてがさついた声には色気も可愛げも欠片一つ感じられなかった。だから、真波が大きな声を出すと、十七歳の少女らしからぬ貫禄たっぷりな様子になる。幼い頃から成長の早かった真波は、身長もクラスの女子で最も高い。これでわかりやすく太っている体系とか、学校の中でいちばん運動神経が良いだとか、そういうのがあれば周りから弄られ持て囃される流れでもあったのだろうけど、生憎どちらも持ち合わせていなかった。食べても食べても、脂肪も筋肉もつかなかったし、なんなら小食のまま十七年間を過ごしてきた。母親も父親も成長が早かったと言うし、二人とも声は高くない。一人っ子の真波は、二人の特徴を十分受け継いだというわけだ。おかげで、真波は自分が女とも男ともわからないまま十七歳を迎えた。真波の周りの十七歳は、女子か男子か、だった。
なんとなく周りに流されて女子として体育に出たり保健の授業を受けたりしていたが、やっぱりランニング中の掛け声に自分の声が交じっていると気持ち悪くて、なんで自分はここにいるんだろう、と思った。合唱コンクールの練習なんかいちばん地獄で、アルトの音が喉から出なくて、実行委員からいつも怒られていた。中学時代の三回分と、高校に上がって最初のそれで、計四回。ほとんど恒例行事だったので、三回目あたりからは明るくおどけて乗り切った。俺、男子のパートに行っちゃおっかなあ、なんて言ったら真波の友達は笑った。マジで高野って男やな、と笑ってくれた。実行委員は笑わなかった。冗談だと思われたから、友達には笑われて実行委員には笑われなかった。だけど真波は半分本気だった。俺は女声パートにいていい人材じゃないだろ、とは言い出せなかった。
当たり前みたいに自分のことを俺と呼ぶようになっていた。私、あたし、あるいは自分の名前、どれもこの声帯を通るとしっくり来なくて、短くて気軽で発音が簡単な、俺、という一人称ばかり使うようになった。友達はみんなあまり気にしなかった。空気そのものが、高野ってそういうキャラなんだ、という程度だった。
別に男になりたいわけじゃない。女になれなかった。
「五限なんやっけ」
「数学」
「やっば、だっる、死んだ」
志織は机の上に項垂れた。チャイムがゆっくりと鳴り響く中、生徒や机が動く音で教室はいっぱいになる。真波も自分の机を半回転させて、志織の机と向かい合わせる。
「午後の数学はもはや睡眠の授業っしょ」
「それな」
真波は適当に返事をしつつ、机の横に掛けた鞄から弁当箱を取り出す。母親が用意してくれた巾着袋は、猫が跳ね回っている絵柄が印象的だ。その可愛さは真波の私物らしくないと思われそうで、正直、出すのが恥ずかしい。
志織は他人の持ち物に無頓着だから、直接突っ込まれたことはない。真波も、志織の私物に興味を示したことはない。真波と志織はそういう関係だった。志織は志織で女子らしからぬ怠惰な性格だから、クラスの女子グループのどこに属していても少し浮く。真波はそんな志織が面白い、と思った。
「中間の勉強してる?」
「してるわけなくね?」
「それなー」
今度は志織から適当な返事。二人揃って、巾着袋の紐をほどいて、二段になった弁当箱を蓋を開く。ぱか、という二つ分の音と共に、ふんわりと塩っぽい匂いが鼻腔を擽った。お弁当って、変な匂いだよな。真波はぼんやり思った。ほかほかのご飯とは違う、むわっとした匂い。冷えた空気。だけど、嗅ぐとそこにがっつきたくなる、不思議な匂い。志織はもうそこに箸をつつき出していて、米が詰まった一段目の六分の一くらいが、その口に収まっていた。
真波と志織はクラスで浮いている。それは、この教室の形がそれを示している。二人の向かい合った机はわかりやすく部屋の端に位置していて、窓から入り込む風が志織のポニーテールを揺らす。他の女子はみんな、お洒落だけど声の大きい女子が五・六人だったり、学級活動に熱心なタイプとその取り巻きが七・八人と、教室の真ん中でそれぞれの机をくっつけて談笑している。真波と志織みたいに、二・三人で机を向かい合わせているのはみんな窓際や廊下側だ。男子もほとんど同じだけれど、女子よりもそれぞれのグループの人数は少ない。真波も志織も、別にクラスの誰かが嫌いとか、逆に嫌われているとか、そういうこともなかった。しかし、どこかに交ざりたいとは思わなくて、別に二人でいれればそれでいいかな、というくらいの感覚だった。だからクラスから浮いている。
「ていうかさ、マジ昨日の見た? 桐山先輩カッコよすぎでしょ」
「見たー。桐センもそうだし、ソウタ何気に超良かったな」
「ソウタさあ、アニメで動くとやっぱ良いよね。原作のもにゃっとした顔もいいけど、アニメ見てると何気に美形なのが強調されて良い」
「わかる! 桐センもアニメだと睫毛バシバシだし。でもソウタの情けなさっていうか、ダサカッコイイとこが好きなんだよな」
「私は桐山ジュンヤ最推しで揺るぎないけど、今回でソウタ推しに転がる人多そうだよねえ」
がこん。
あ、やっべ、ごめん!
突然の物音と振動に、真波も志織も動いていた口が止まる。
机と机の間を走り回っていた男子が、志織の椅子にその腰をぶつけたらしい。
男子はそのまま何か叫んで走り去っていく。やっべ、ごめん、と言っていた、たぶん。志織は小さな声で、あ、全然、みたいなことをもにょもにょと言ったが、男子はもうとっくに廊下まで飛び出していた。
「いや、元気だな、高杉は」
志織は気を取り直して、とでも言うかのように笑った。こういう時、情けない思いをするのはやっぱりこっち側の、浮いてる側のクラスメイトだ。真波は目を細める。
高杉雅也は、春頃までは高野真波の一つ前の席に座っていた。クラス替え早々、出席番号順で結果的にそうなっただけだが、一番前に体格の良い高杉が並んでいるために真波はノートを取るのに苦労した。真波も女子の中では背が高い方なのに、高杉は十七歳で既に一八〇センチ近く身長があった。一番前にあんなデカい奴置くな、という大勢の意見に根負けし、二年B組の担任は六月という異例の時期に席替えを行った。そうして、籤引きの結果により窓際へ移った真波の、その後ろの席に座ったのが及川志織だった。
高杉と真波は打ち解けなかったし、プリントを手渡す時くらいにしか声を交わしたことはなかったけれど、真波と志織はすぐに打ち解けた。単なる黒一色と白いロゴマークにしか見えない真波のスマホカバーが、放映中のアニメ『ブレイブブレイド』の公式グッズだということに、志織が席替え直後すぐさま気づいたのだ。それからはこうして、ずっと『ブレイブブレイド』、通称『ブレブレ』の話をすることが、真波と志織のお決まりの会話であり憩いの時間になっていた。
「あーあ。うちのクラスにも桐山ジュンヤがいてくれたら、文句ないんだけど」
「あんなのいたら、クラス崩壊するだろ。性格クズっしょ、強すぎてよくわかんなくなるけど」
「そこがいいんじゃん。顔の良いクズって、無敵じゃん」
「お前、将来やばい男に引っ掛かるよ」
真波の鋭い言葉に、志織はげらげら笑った。マジでこいつ、『推し』のことになると頭空っぽなんだよな。誰に言うでもなく心の中で悪態をついて、真波は机の中からスマホを取り出した。ホームボタンを押せば、SNSの新着通知が一斉に画面に飛び出す。
いいねされました、いいねされました、返信が来ています、いいねされました、返信が来ています。そのどれもにいちいち心が躍る。内容はなんてことないぼやきだとかアニメの感想ばかりなのだけれど、それに同感してくれる人間がいる、ということを嬉しく思ってしまうのは仕方ない、と思う。真波のSNS上には、クラスみたいな空気がない。性格も趣味も合わない人と同じ箱に詰められることがないから、何を言っても許される。合わないと感じたらブロック、面白い投稿だなと思ったらフォロー。真波はアイコンもヘッダーもアニメの画像にして、この漫画が好きだとかこのゲームが楽しいだとかをただ投稿するだけだから、フォロワー数はぎりぎり二桁に乗るレベルだ。拡散やフォロー稼ぎを目的とするハッシュタグを、真波はほとんど使わない。SNSでの話題性がアニメや漫画の売り上げや販促に影響すると知ってから、そういうコンテンツの感想には使うようになったけれど、この投稿に共感した人はフォロー、といったハッシュタグはやっぱり使う気になれなかった。それでも、共通した趣味と空気感を持つ人間が真波をフォローして気に掛けてくれている。だからどうでもよかった。同じ距離感のコミュニティの、狭い世界にいることが、真波の安寧だった。
通知をスワイプして、SNSアプリを立ち上げる。リプライを返す前に、トレンドのタブに指を重ねた。ちらりと前を覗くと、どうやら志織もSNSチェックをしているらしい。真剣な目でスマホを凝視している。
「高野」
その声と同時に、志織のスマホが真波の方に向けられた。
「これ見て」
志織は眉を寄せて、妙な表情で真波を見つめている。何だろう、また面白動物映像か、なんて言おうとしたけど、志織の声色と表情が平和なものではないと物語っていた。
仕方なく、何も言わずその手に収まる小さな画面に目を遣る。真波の手元にあるのと同じ、SNSのトレンドタブ。
白い画面に、数行おきに並ぶ黒い文字列。この時間だから、休憩、とか、お昼、なんて文字が目立っている。
しかしすぐに、志織の言う、これ、が何を指しているのかはわかった。
【花霞解散】
嘘、と声に出ていた。
「やばいね、え、これマジのやつかな」
志織が早口で、独り言のようにそう言いながらスマホを自分の方に向けて何やら操作し始めた。恐らく、情報のソースを探しているのだろう。
真波の手元のスマホを確認しても、やっぱり同じ文字列が上がっている。ということは、この言葉は今現在日本中で話題になっている、というわけだ。
花霞14。
真波はその名前をよく知っていた。
寿アキラ。
藤岡芽以。
――佐々木千景。
心臓が少しだけ大きく、どくん、と鳴った。
「うわ、なんか、マジっぽい。公式サイトからお知らせ出てるんだって」
志織は真波の表情を伺っているらしい。なんかあったのかな、めちゃくちゃ人気だったのにね、なんでこのタイミングなんだろ、ファンの人とか今どんな感じなんだろうね。気を遣っているのか、志織が一気に喋るので、真波は遮るように言った。
「どうでもよくない?」
「え?」
「いや、どうでもいいよ。俺、寿アキラ、超嫌いだから。花霞も、もう」
志織は目を丸くしている。そりゃ、そうだ。
だって、二年生の初めのうちは、好きだったじゃん。
彼女の目がそう訴えている。そうだよ、確かに、クラス変わって最初の授業の自己紹介では、好きって言ったよ。
――でも、今は、大嫌い。
――綺麗事ばっかりの、プロデューサーの操り人形。
グループ内部の空気は最悪、と大々的な見出しをつけた週刊誌。噂される、女子同士の陰湿な蹴落とし合い。畳みかけるように次々取り沙汰されたスキャンダル。
――もううんざり、なのはこっちの方だよ。
真波のスマホの中で、背の高い一人の少女が躍っている。トレンド検索画面に上がった、ライブ映像の転載動画だ。
【寿アキラを許すな:12分前
元キャプテン・佐々木千景がいなくなってから、芋づる式に出てきたメンバーの問題。
やっぱ統制者がいねえとダメだったんだわ、天才(笑)もとい藤岡芽以に頼りっきりのオワコングループ】
匿名でしかない誰かの、そんな投稿の下にぶら下がった、ライブ映像。
背が高く、すらっとしたスタイルの、美形の少女。彼女が、カメラに向かって、叫ぶ。
――行くぞ、全員声出していけ!
その声は、細い体躯と淑やかな顔に見合わない、低く痺れる声だった。
佐々木千景は昨年のうちにアイドルを辞めた。だから、今の佐々木千景の肩書は『女優・タレント・元アイドル』だ。
黒いロングヘアに、凛々しい顔立ちで、長い手足。低身長の多い花霞14の中では、かなり目立つ容姿だ。
外見もさることながら目覚ましいのはその内面であり、ファンからの評価が高いのも彼女自身の持つ明るい性格だ。
花霞としての活動がスタートしてからすぐに放送が始まった冠番組では、つい数ヶ月前まで素人だったメンバーがバラエティ番組で能力を発揮できるわけもなく、スタッフやMCを務めた芸人も彼女たちのキャラクターを掴めずにいた。そんな中で佐々木千景だけは、自己紹介からふざける姿を見せて、MCにも果敢にボケをかましてみせた。他のメンバーが足踏みする状況で、MCやスタッフに積極的に彼女たちのアピールを行ったのも佐々木千景だったという話だ。元々高校時代からクラスのムードメーカー的存在で、困っている人を見ると放っておけない質だ、と彼女はいくつものインタビューで自身をそう語った。グループ発足から半年足らずで佐々木千景は『キャプテン』という役職を運営から預けられた。佐々木千景は、花霞14のキャプテンだった。そう、だった。
二〇一九年、佐々木千景は花霞14を卒業した。女優業に転身し、持ち合わせているバラエティスキルも活かしたタレント業も行う、というのが移った先の事務所で決められた方針だった。だから、今の佐々木千景の肩書は『女優・タレント・元アイドル』だ。
グループ内でも屈指の人気を誇るメンバーの卒業、そして、グループをまとめ上げ導いたキャプテンの卒業。たくさんのファンに惜しまれながら最後の握手会を終え、彼女は語った。
――私がみんなと踊ることは、もうありません。だけど、みんなと過ごした時間は、本当のものでした。だから、これまでのこと、これからのこと、全部抱き締めて頑張っていきたいと思っています。アイドルの佐々木千景を応援してくれて、ありがとうございました。
こうして、佐々木千景は花霞14で初めての卒業メンバーになった。
真波は、佐々木千景が好きだった。
中学に上がった頃、アニメを見ようと夜中にテレビを点けたあの日、目当てのアニメの放映時間がスポーツ中継のせいで押していたあの日、暇を潰そうと何も考えずチャンネルを回したあの時。真波は、佐々木千景を見た。その声を聞いて、手が止まった。
――この人、こんなに可愛いのに、こんなに美人なのに。
――俺くらい低くて、男っぽい声。
MCの会話に入り込む彼女の声に耳を疑った。低くて早口で、だけど何故だか信頼できる、不思議な声色だった。何より真波には、ロングヘアの美女からこの声が出ることが信じられなかったのだ。男みたいな低い声の女なんて、この世に自分しかいないのだと思っていた。それも、こんな、つやつやの黒髪が綺麗な、まだ若いアイドルからこんな声がするなんて。
それから真波は佐々木千景を追い掛け始めた。アイドルが好きになったと両親に伝えるのはなんだか気恥ずかしくて、バラエティ番組をこっそり録画して家に誰もいない日に一気に見た。ホームである花霞の冠番組を飛び出し、ゴールデン帯の番組でひな壇に座る佐々木千景も、やっぱり攻めたトークやノリでスタジオを沸かせていて、ベテラン芸人に褒められる一幕もあった。最初はそれを見ているだけで満足だったけれど、次第にCMや歌番組で花霞を見かけるたびに、真波は佐々木千景を探している自分がいることに気がついた。佐々木千景はいつでも、ダンスのフォーメーションにおいては後ろの列の真ん中だった。グループ内でずば抜けて背が高い彼女のスタイルを考えれば、見栄えとしてはぴったりの位置だ。キャプテンという役職上、みんなを見守りグループのバランスを取り持つ最適解でもある。だけど真波は、佐々木千景のファンたちは、どうして彼女が後ろの目立たない位置に追いやられるのかと不満だった。他のメンバーのことも覚え始めた真波は、もちろん藤岡芽以のセンターだってパフォーマンス的には素晴らしいけれど、シングル表題曲でなくたっていいから、佐々木千景のセンター曲が欲しいと思った。他のメンバーに魅力がないとか、藤岡芽以が好きになれないなんてことはない。他のメンバーの可愛さ、ダンススキル、パフォーマンス力を理解した上で、己の力量をバラエティと人柄に振り切りつつも不器用ながら頑張る佐々木千景を、運営に認めてほしいと願ってしまっていた。佐々木千景には、そういう魅力があった。これが『推す』という行為なのだと、真波はだんだん理解していった。
そのうち、テレビの録画欄を見た両親は真波が花霞を好きだと察し、母親のクレジットカードでファンクラブへの入会を許した。すぐに真波はライブのチケットを申し込み、そしてまた運良く当選することができた。最初は親に頼るなんて気恥ずかしくて仕方なかったのに、真波はそんなこと気にも留めなくなっていた。その頃にはSNSで花霞の話をするためのアカウントを開設していたから、そのフォロワーと共にライブへ出向いた。初めて出会ったフォロワーも女子中学生で、彼女とはCDの封入特典である生写真をメンバーごとに交換したりした。〝ささきち〟って、マジ美人なのに面白くて憧れるよね。佐々木千景をファンしか知らないあだ名で呼びながら、ファンしか共感できない話をされた。それがあまりにも楽しくて、嬉しくて、心が躍った。いざ出陣したライブでは席番が悪くメンバーの顔はろくに見えやしなかったが、真波は、この時が永遠になればいいとさえ思った。二階席からでもわかる、佐々木千景のスタイル。行くぞ、全員声出していけ、と会場を煽るその低い声。可愛くて、面白くて、格好良い。真波は彼女になりたいと思った。佐々木千景のような存在になれたら、この声もきっと自分のアイデンティティとして飲み込めるはずだ。こんな声で、得意なことなんて何もなかった自分でも、人から憧れられる存在になりたい。人から頼られる存在になりたい。人から、愛される存在になりたい。
追い掛ければ追い掛けるほど、佐々木千景が好きになった。だけど、追い掛ければ追い掛けるほど、不安にもなった。
花霞14は若い女子が集まったアイドルグループだ。注目度も高く、独自性のある売り方で人気を博している。だから、もちろん、悪い噂も立つことになる。
最初に真波が目にしたのが、メンバーの不仲説だ。それから、メンバー数人に実業家の彼氏がいるという疑惑、あるメンバーの実家が莫大な借金を抱えているとか、とにかく掘れば掘るほどゴシップが見つかった。真波は、どれも噂だからと深追いはしなかったが、やっぱりそれぞれのメンバーの顔を見ると、ネットの記事が頭を過ぎった。
佐々木千景にそういった噂はなかった。だから、真波はどんどん佐々木千景『推し』に倒錯していった。メンバーが不仲でも、誰かにスキャンダルが出ても、〝ささきち〟が槍玉に挙げられることはない、と確信していた。根も葉もない噂を信じていたわけではなかったけれど、佐々木千景を疑うことはなかったのだ。
だけどある時、佐々木千景はアイドルを辞めた。『女優・タレント・元アイドル』になった。真波が高校に上がってすぐのことだった。
春休み明けでまだ慣れない早起きをして、スマホを開いて真っ先にその目に飛び込んできたのが『佐々木千景卒業』という言葉だった。最初は理解ができなかった。SNSでみんなが嘆く投稿をしているのを見て、グループの公式サイトを見て、『佐々木千景に関しまして』というタイトルのトピックスが上がっていることに気がついて、そこで初めて実感が湧いた。
佐々木千景は、アイドルを辞めた。
ソファに寝っ転がると、スカートが足に絡みついて鬱陶しい。だけど立ち上がって着替える気にもなれなくて、そのまま傍らにあるスマホを手に取った。
今なお、花霞が解散するというニュースが、世間を賑わせているらしい。
そりゃあ、そうだ。
何も知らない、ファン以外の人間からすると、〝順調に人気だったアイドルグループの、突然の解散〟なのだ。
だけど、真波には、なんとなくわかった。
これは解散なんてものじゃない。ましてや、全員卒業、それぞれの道へ、なんて言葉で惑わせるものでもない。
崩壊だ。
花霞14は、崩壊したのだ。
カーテンから射し込む夕焼けが、真波の目に突き刺さった。
【名無しのドルヲタ:1時間前
花霞14が解散発表。正式には、最後の曲を出してから解散らしいけど。
卒業後の進路はどうなるんだろう。まさか、全員引退ってことはないよね?
……いや、あの体たらくだとありえるか(笑)】
【裏:1時間前
花霞解散、まあそりゃそうなるだろうな】
【ささきち大好き:1時間前
元キャプテンのささきちがいなくなってから、花霞なんかオワコンだったんだよね】
【寿アキラを許すな:1時間前
キャプテンが宮内佑果に代わってから、グループの人気は完全に下降してた。スキャンダルに匂わせ、終いにゃ路チューなんて聞いて呆れる。アイドルの仕事をナメすぎなんだよ。だから終わったコンテンツだって呼ばれる】
【ぼうれい:1時間前
まあ、藤岡芽以に頼りすぎてたし。ていうか、ぶっちゃけホスト狂いが新キャプテンじゃあ、ねえ】
スマホを眺めながら、真波はゆっくり目を閉じた。
胸の奥に、どす黒い何かが渦巻いているのがわかる。言葉の棘を、拾い集めている自分がいる。
不快なのに、快感。楽しいのに、最悪な気分だ。
大好きだった花霞14は、もうどこにもない。
佐々木千景が卒業してから、ファンクラブは抜けた。彼女たちへの熱量も失せた。
元から、佐々木千景のことが好きだっただけなんだ。
反骨心溢れるロックなアイドル、社会への抵抗を謳うアイドル、同調圧力からの解放を宣うアイドル、花霞14。その実態は、空虚な幻想でしかない。
みんなが大好きな花霞14なんか、やっぱりどこにもなかったんだ。
母親がパートから帰ってくるまで、あと二時間はある。
眠ろう。
母親はきっと、真波を心配している。
ニュース見た、と開口一番に問いかけてくる母親の姿が想像できて、真波は、言い訳を考えながら眠りに就く。
別に、元からそんなに好きじゃなかったんだよね。
俺、千景ちゃんが好きなだけだから。
花霞14自体は、嫌いなんだよね。
母親はたぶん、納得しないだろうけれど。




