アウトローリー/後編
――雪乃ちゃんはさ、自分のことばっかりなんだよね。
真夜中のファミレスで、そんな風に言われた。
雪乃は、ただ黙って頷いた。そんなことない、と言い切れなかった。
店員が雪乃の前にコーヒーを置く。彼が立ち上がる。それじゃあね、仕事頑張ってよ。うん、とだけ返した。
こうして雪乃は彼に一方的な別れを告げられた。温かいコーヒーは湯気を雪乃の顔に被せていく。わたしもあいつも店員さんもみんな一斉に、このコーヒーみたいな真っ暗闇に落っこちちゃえばいいのに。雪乃は自滅的にコーヒーを啜った。砂糖もミルクも入れなかった。苦い、と舌が叫んだけれど、無視して飲み干した。
仕方ないじゃん、わたし、自分のことで精一杯だから。
テーブルに出したままのスマホが震えた。松田と表示された通知。推しが、三面鏡が、ライブを終えたらしい。
ライブ、見に行けばよかったな。
それから数年が経って、三面鏡は売れて、劇場での出番は減った。だけど、雪乃に新しい彼氏が、恋人ができることはなかった。
――仕方ないじゃん、わたし、自分のことで精一杯だから。
大手出版社の休憩時間とあれば、そこそこに人が動き回る。雪乃は、デスクから動かないまま、また弁当箱を開く。
スマホのホームボタンを押せば、青と赤のストライプ柄のロック画面が表示される。三面鏡の衣装をイメージした、ファンが作ったコラージュ画像だ。そこに、数件の通知が溜まっている。クーポン情報やニュースサイトの通知を消していくと、ある文字列が雪乃の手を止める。
スマホに表示された時刻は十二時二分。二分前に、三面鏡の動画が更新されている。雪乃はその通知を開いた。動画内容を確認するだけ。
【動画が更新されました:男芸人が今話題のゆめかわメイクしたらとんでもないことになりました】
「小田切さん」
背後から不意に声を掛けられて、雪乃は何も言わず通知を閉じた。睦美だった。睦美が、隣のデスクに腰かける。
「今日もお隣いいですか」
にこ。音が聞こえるくらい、可憐に微笑まれた。今日も睦美は可愛い。フォーマルだけど無骨すぎないブラウス、ふわりと揺れるフレアスカート、ゆるく巻かれたセミロングヘア。
「大丈夫だよ、食堂行かなくていいの?」
「ありがとうございます、食堂ちょっと苦手なんです」
そうだっけ、じゃ、ないな。
「そうなんだ」
「人混みっていうか、ざわざわしたところで食べるの、苦手で」
じゃあ一昨日まではどこで食べてたの?
――なんて、聞くのは無粋だし、意地が悪いかな。
「ご飯は静かに食べたいよね」
「そうなんですよお」
きっと、睦美は雪乃の傍に来た理由がある。昨日のうち試しに隣に座ってみて、雪乃に拒絶されなかったから、今日も来た。きっと明日も来る。明後日も来るし、二週間くらいは続く。
睦美はその整った顔立ちと愛嬌のおかげで、男性社員からの人気が高い。だから、恐らく、休憩時間とあれば話し掛ける人も多い。睦美にとっては興味もないであろう老齢の上司やら、その人気に嫉妬する女性社員が、彼女の隣を奪い合う。それが嫌だから、毎日ふらふらしているのだろう。そして、昨日、食べる場所を探しているとふと雪乃を見つけた。同じ課の先輩で、あまり男っ気のないお姉さん、雪乃はそう見られたのだろう。この人の隣にいれば、大丈夫だと思われた。そういうことなんだろう、と雪乃は考えながら弁当箱に箸をつついた。
何を食べてもサラダみたいだな、と思う。米と、昨日の夜つまみにした野菜炒めの残りと、適当に炒めた豚肉。箱二段分もたんぱく質や炭水化物が詰まっているはずなのに、何を食べても味がしない。義務的に食べているような気さえした。見た目はこんなに茶色いのに、味はゼロ。食感だけが雪乃の口の中に残る。
ちら、と右隣を見遣れば、睦美の弁当箱はやはりその爪と同じピンク色――かに思えた。
「……パン一つ?」
「あ、はい。お昼に食べすぎちゃうと、午後動けなくて」
その両手にはコンビニのロゴがついた菓子パンの袋が握られていた。濃厚サクふわメロンパン、と明朝体が淑やかに主張している。
「昨日はお弁当食べてなかったっけ?」
「えへ、まあ、そうなんですけど」
睦美は少しだけ肩を竦めて、雪乃から目を逸らした。
「朝、時間なくて」
朝、時間なくて。
それだけじゃない、と雪乃は思った。
睦美は雪乃に目を合わせないまま、メロンパンに小さく齧りついた。さくり、と子気味のいい音がする。気まずそうな顔から察するに、女性社員たちに弁当の中身に文句でもつけられたのだろうか。あるいは、弁当箱の柄を上司に揶揄されたとか。それか、いつもは彼氏に作った弁当の残りを食べているけど、つい昨日彼氏に振られてしまった、なんてのも妥当か。
「たまにはコンビニのパンもいいですねえ」
さく、さくとメロンパンを頬張る音に、雪乃はようやく我に返った。
またやっている。
雪乃は、人の一挙一動から考察という名の邪推を進めてしまう癖があった。これは、三面鏡の動画を見る度に行っていることが、習慣化してしまったせいだ。二人が着ている服から考えて、この動画はあのテレビ収録と同じ日。足の指を怪我したのは先月のラジオ収録だから、この動画はもっと最近録ったやつ。SNSでの呟きが先々月だから、この動画の中であの日のテレビ収録は――と、そんなことばかり考えて、ふと気づく。
わたしって、どんだけ傍迷惑なオタクなんだろう。
「あ、そうそう。小田切さん、ちょっと聞いてくださいよ」
睦美がこちらを見つめてくる。
あーあ、可愛いな。どんなコスメ使ってんだろ。
「昨日言ってた私の推し投稿者が炎上してるんです!」
今ってプチプラでも可愛いのあるし、この時代の若い子っていいな。
「なんか、動画で取り上げたマスカラが、ステマ? だとかなんとか、言われまくってて!」
とはいえ、きっとどんどんコスメも安くなって、その割に質も良くなって、お客様の声に答えられるように進化していくんだろうなあ。
「推しはちゃんと、この動画はPRでした記載漏れがあってすみません、って謝ってるんです! なのに、見てるだけの視聴者、消費者が、無茶苦茶言ってるんですよ!」
商品作る人は大変だろうけど、未来の世代の若い子は、もっともっと可愛くなるんだろうな。
「私は推しがどれだけ頑張って動画作ってるか知ってるから、ブスとか卑しいとか言われてるのが許せなくて!」
羨ましいな。
わたしはもう、とっくに古い方の人なのかも。
「許せない、わかる」
「えっ?」
睦美が丸く艶やかな瞳を見開く。
「私も、推しっていうか、追い掛けてる人がいるんだよね。テレビだったり動画だったり、彼が話してる一部だけを切り取って、適当なこと言われると、本当に許せないと思う」
こんな芸人知らねえよ。面白いと思ってやってる? 世界観独特すぎてついていけねー。これが今のお笑い? こんなんで笑えないよな。誰だか知らないけどテレビに映らないでほしい。売名で人気出てよかったねー。事務所のゴリ押しだろ、おもんない。若手が調子乗んな。
あーあ、うるさいうるさい。みんな嫌い。揃いも揃って、ネットでネチネチ文句垂れるしかできない癖に。お前、未成年のうちからお笑いに命賭けられるのかよ。さぞかしあんたは雛壇もロケも大喜利も食リポも卒なくこなしてみせるんでしょうね。若手若手って、ベテラン出したら出したで見飽きたとか言うんでしょ、どうせ。どんな売り方だろうと、売れたもんが勝ち組でしょ。わたしの推しは、お前らとは違う世界にいるんだよ。
雪乃は、卵焼きを一つ、口に放り込んだ。味がしない。どれも、これも、ばさばさした茶色い塊だ。
「小田切さんにわかってもらえるなんて」
かさ、と袋が音を立てた。睦美が握り締めている、パンの袋の音だ。
「超、超めちゃくちゃ最高に嬉しいです! 小田切さんって、推しとかいないと思ってました!」
睦美がぱあっと表情を晴らす。嬉しい、という気持ちが滲み出た、きらきらの笑顔。餌を待つ犬より、虹の架かる空より可愛くて綺麗だ。
「あんまり社内では言ってないけど、私、オタクだから」
「え、えーっ、最高すぎます、私もめちゃくちゃオタクなんです!」
それまでの彼女とは打って変わって、睦美は早口で話し始めた。高揚が言葉の端から伝わる。
「今の推しはこの配信者なんですけど、昔からアイドルとか俳優とか追っ掛けてファンクラブ入ってお金落として、ってやってたんですよ!」
薄い頬が赤くなっていく。あ、この子、スイッチ入るタイプか。いつもにこにこ誰にでも優しげに微笑んでいる睦美が、目をかっ開いて忙しなく薄桃色の舌を動かしている。これがアイドルの推し、これが俳優の推し、そして今推してる配信者がこれ。話しながら、睦美はスマホのカメラロールをすいすいと動かす。彼女のカメラロールには、綺麗な顔の男性ばかりがいた。どれも顔写真ではなくて、背の高いイケメンが椅子から転げ落ちているシーン、鼻筋の通った美形の青年が大口を開けて爆笑しているシーン、自作と思しき下手なイラストを掲げているシーン、子猫に引っ掻かれているシーン、大御所俳優の物真似で変顔をしているシーン、共演者からダサいと一蹴されているシーン、格好悪いシーン、情けないシーン、とにかく残念なシーンばかりだった。
「私、残念なイケメンがとにかく好きなんですよ。今推してるるりりも、美容系の男配信者なんですけど、フェミニンなんだけど天然すぎてやばいっていうか、もうほんとアホすぎん? 可愛すぎん? みたいな!」
そのままスマホを操る睦美は、動画アプリを立ち上げた。雪乃は卵焼きをもう一口頬張る。
画面の中の青年が、気さくに挨拶をこなしていく。思ったよりも塩顔の、幼い顔立ちだった。整った造形をふにゃりふにゃりと歪ませて、楽しそうに高い声色を弾ませている。今日は、半顔メイクで、男の子も女の子も楽しめる夏メイクを紹介していきたいんですけどお。なんか、僕、バカすぎて、間違って全顔メイクやっちゃって。くく、と笑いながら青年は眉を寄せる。ぽかん、というSEと共に、画面上には、ポンコツ、というテロップが表示される。
「企画ガン無視じゃん」
「それなです!」
睦美は雪乃のツッコミをけらけらと笑い飛ばしながら、取ってつけたような敬語で返した。こんなに手叩いて笑うんだ、この子。
「顔は可愛すぎるのに、中身ほんとやばいんです、ほんとやばい」
スマホの中ではまだるりりが最悪ぅ、と高い声で何かを嘆いている。そんな言葉も使うんだ、この子。
「はあ、最高、マジで好き」
でもまあ撮っちゃったから、その辺ご了承して、見て貰えると嬉しいです! そう笑って、ポンコツと呼ばれた青年は自身の頭を小突いた。
そんな楽しそうな表情できたんだ、半田さんって。
視線を感じてか、睦美は動画アプリをホームボタンで強制的に閉じた。ところで、と彼女が半身を動かしたことで、隣の椅子がきいと鳴る。
「小田切さんの推しって、誰なんですか?」
えっ、と。
咄嗟に発した意味を成さない三文字だけが、空中を彷徨う。頭では、言ってはいけないとわかっている。なのに、胸が、どきどきして、止まらない。
もし、私もお笑い好きです、なんて言われちゃったら。
そんなわけない、そんなわけがない、と小さく頭を振る。雪乃が口を開こうとした途端、室内に大きな音が鳴り響いた。休憩時間終了のチャイムだ。
「あ、ごめんなさい、休憩終わっちゃった。明日もここに来ていいですか?」
パンの欠片を口に押し込んで、睦美がこちらに笑い掛けた。よかった、と思った。少しだけまだ残念がる自分がいて、雪乃はそれを覆い隠すように弁当箱を片付ける。少しだけ隣を見ると、睦美の揃えられた爪がつやつやとこちらに向いていた。
――半田さんのね、ネイルって言うのかな。あれが、部長が言うにはだけど、会社的に良くないらしくて。
――同じ女性だし、小田切さんから言ってもらいたいんだよね。半田さん、女の子といるところあんまり見かけないし。
瀬戸の声が、耳の奥で鳴り響く。
睦美の爪の色が、昨日のそれとは違った。
ピンク色、には、淡すぎる。艶やかに磨かれてこそいるけれど、何も、塗られてはいない。淡い、薄い、なんでもない爪の色。
雪乃が声を掛けるまでもなかったのだ。睦美はとっくに、自分に向けられる視線に気づいていた。いや、いつだって何もかもを悟っている。
「うん、また明日ね」
わたし、いつだって自分のことばっかりだ。
弁当箱を鞄に仕舞う。会社が動き出す。睦美が立ち上がる。ふわり、とフレアスカートが広がった。花のような砂糖のような香りがして、雪乃は彼女にただ手を振った。
電車に揺られている時間は、次の駅のアナウンスばかりが気になってしまう。もう乗り過ごしていたらどうしよう、終点を間違えていたらどうしよう。毎日毎日乗っているはずなのに、いつまで経っても慣れることはない。雪乃は、落ち着かない自分の視線をなんとかしたくて、鞄の奥底に眠ったイヤホンを手に取る。捨てられないまま鞄に押し込まれたのレシートたちが指に絡みついて鬱陶しい。
気にしすぎ、とよく言われる。真面目なんだね、とも。その割に、机の上も鞄の中も自分の部屋も片付けられない。雪乃は自分が気にしすぎる性分だと思ったことは一度もない。だけど、どうして、みんなは気にならないんだろう。電車の中で眠ったり、レシートを貰うのを断ったり、みんなはどうしてそれができるんだろう。どうしてわたしはそれができないんだろう。できないことが積み重なって、机の上や鞄の中、自分の部屋に散らかっていく。いつだって、自分のことしか、考えられない。
スマホを弄って、音楽再生アプリを立ち上げる。新進気鋭のアーティストの気取った宣材写真が並ぶ中で、その一つが雪乃の指を止めた。
【花霞14解散 名曲を聴いて、鮮烈なデビューから今を振り返ろう】
それがアプリ側が作った公式プレイリストだということは、その文字の隣に置かれたアイコンですぐにわかった。雪乃は画面の右上を見る。ブルートゥースイヤホンの接続が滞りなく行われていることを確認すると、プレイリストのはじめの曲をタップした。
両方の耳に、『アウトローリー』のイントロが流れ始めた。激しいドラムから始まり、ギターサウンドが介入してくる。そこに不釣り合いな、あどけない少女たちのコーラスが混ざり合い、主旋律をキーボードがなぞる。
雪乃は手すりを強く掴む。窓の向こうに、ドレスのような長い丈のワンピースを着て踊る少女の姿が見えた気がした。藤岡芽以だ。
――君は自分を殺すのか?
――それでもいい、なんて妥協じゃないのか?
――あの川の流れは、君の酸素を奪うだけだろう?
――曲げられるくらいなら、真っ直ぐなままでいよう。
――僕らが他の何者でもない僕らであることを、証明しよう!
歌い切った藤岡芽以は、口角を歪める。
薄い唇に、にい、と笑みを浮かべて、吊り上がった目を細める。
まさしく、アウトローリーな、他の誰にも何にも例えられない、不敵な笑みだった。
『改めまして三面鏡の松田です』
『須賀です!』
『番組への感想、メールテーマに沿ったお便り募集しております。本日のメールテーマは、これって自分が異端なのかと疑いたくなるようなこと、です』
『メール届いてます、ラジオネーム・あん肝バクター』
『出た、あいつだ』
『《僕は先日誕生日を迎えたのですが、その日の放課後、クラスの女子から呼び出されて箒を手渡され、お願いね、と言われました。まさか女子から誕生日プレゼントを貰えるなんて思わなかった僕は、スキップしながら箒を片手に帰ったのですが、道を歩く人がみんな僕を見ていました。楽しいことがあったからスキップしたのに、変な目で見られてすっごく最悪でした》だって、ふ、ふふ』
『お前それ、たぶん、その、さあ。パシられてんだよ』
『はははっ! なんだよ、なんでそんなこと言うんだよ』
『それプレゼントじゃねえから! 箒片手にスキップしてる奴がいるからみんな引いてんだよ、いやスキップそのものもだいぶキモいけど。箒持ちながら楽しい気持ちになれるのなんか、掃除狂いか魔法使いしかいねえんだから』
『掃除狂いってなんだよ!』
『言わせてもらいますがお前はパシられています。そんで箒は学校のものだから返しなさい!』
『数足りなくなって先生に怒られるからね、はい次のメール読みます。ラジオネーム・デリヘラー』
『うっわ! 出たな』
『《僕は付き合って七年の恋人がいるのですが、》えっ! 嘘!?』
『デリヘラーって彼女いるんだ、深夜ラジオリスナーに彼女いる奴初めて見たわ』
『《退勤して、同棲中のその子にお弁当を買って帰るのが、僕のルーティーンになっています。しかしこの前、カツ丼を買ってあげたら、この店のは玉葱が多いと難癖をつけられてしまいました。その後なんやかんやあり喧嘩してしまったのですが、これって僕が悪いですかね?》とのこと』
『知らねえよ! てめえの惚気じゃねえか。ぶっ飛ばすぞ』
『あーあ、松ちゃんの悪いとこ出てる! しかしデリヘラーがこんなフワッとしたメール送るのは珍しいね。なんか、いつも、もっと』
『勝手にやってろよ。どうせオッサンだろ!』
『まあでも安いスーパーのカツ丼は玉葱が多いよね、だから相対的に玉葱が多いと安物な気がして嫌っていうのはあるわ、俺は』
『玉葱ってそこまで嫌か? 俺はむしろシャキシャキくらいの方がいいな、親子丼とかも』
『は!? 親子丼の玉葱は鶏肉の食感殺すから、それはマジでない』
『あ? お前、正気か? 鶏肉と玉葱の真逆の食感が良いんだろうが。あれか? 玉葱食べられないのか。血液サラサラになるんだぜ、玉葱食べるとな』
『ちげえよ野菜嫌いで有名の松田と一緒にすんな!』
『おい、終わったら喧嘩だぜ』
『受けて立つ、楽屋で震えて待て』
『……さて、曲行きましょう。須賀さん曲紹介お願いします』
『はい、本日はちょっと何も言わず、この曲を流させてください。花霞14で、アウトローリー』
欠伸を噛み締めながら、雪乃はコピー機の蓋を開く。コピー機が呻く、ギギ、という音がラジオの周波数を合わせる時のそれに似ていて、つい頭が深夜一時に戻されそうになってしまう。やっぱり、次に仕事がある日に深夜ラジオをリアルタイム視聴するのは、金輪際やめにしよう。今という時代は、アプリでタイムフリー聴取だってできるんだから、と雪乃は自分に言い聞かせた。でも、たぶん、無理だ。深夜ラジオは深夜に聴くから面白い、それが雪乃の持論だった。
ぱさ、ぱさとコピー機が紙を吐き出す。拾おうとして屈み込むと、胃か腸かなにかの内臓が、ぎゅるると不具合を訴えた。やっぱり夜更かしは身体に良くない。なにより、三面鏡が二人で選んだラジオテーマ曲が流れ出すとがんがん冴えてしまう癖に、朝になると睡眠を求めてしまうこの目が悪いのだけれど、パブロフの犬現象とは恐ろしい。もう、深夜でなくとも、その曲を聴くだけで目が冴える。三面鏡が二人揃って大好きな、日本語ラップの名曲。頓痴気な音が走り回っていて、だけど重低音のビートが耳を揺さぶる、詳しくない雪乃にとっては不思議だらけのヒップホップミュージック。わざわざ聞きにいくことはないけれど、最近はCMなんかでも流れ出すから雪乃はその都度胸が高鳴ってしまう。
だけど、昨日は、エンディングだけ違った。
須賀が愛してやまない、やまなかった、花霞の楽曲が流れた。二曲。『アウトローリー』と、それから、雪乃は知らない、須賀がいちばん好きだったらしい曲。前者はCMの前に、後者はエンディングとして流れた。二人は花霞について言及することはなかった。須賀の心境を思ってか、ただ無言で楽曲だけ流した。粋な計らいだ、と雪乃は思った。雪乃は、ラジオは集中して聞きたいために、番組中のパブリックサーチは行わない。だから、厳密な意図はわからない。けれど、恐らくはラジオのスタッフと、そして三面鏡の二人の、彼らなりの花霞への謝礼、感謝の気持ちなのだろう、と思うことにした。藤岡芽以の少し低い歌声を聴きながら、雪乃は眠りに就いた。
花霞は、どうして解散したんだろう。
気になって、気にしないことにした。雪乃は、藤岡芽以のことを、これ以上知りたくなかった。彼女を好きになってしまえば、今より苦しくなるような気がした。藤岡芽以にはそういう魅力があった。彼女の気持ちは、誰にも推し量れないものだと、雪乃は漠然と感じていた。
眠さで半開きになる口を抑えながら、コピー機から吐き出された紙の束を手に取る。いつになっても、プレゼンの雰囲気には慣れない。自分に注目が集まるあの感じに、慣れない。記憶にある限り、確か小学生の頃から人前に立つのは苦手だったと思う。どちらかと言えば、消極的な態度が目立ちます。通知表にはそればっかりだった。今思うと、別にスピーチの声が小さいこと以外にも何かしら書くことあるだろう、なんて憤慨することもできるのだけれど、そういった評価のせいで苦手意識が確信に変わってしまったような気もする。だからと言って、スピーチの声が小さいという事実が、社会に出てみると自身の欠点として扱われるのも間違いではないのだが。
立ち上がり、デスクに戻る。単純な動作にも、睡眠不足が祟って足腰に悲鳴が上がる。歳なのかな、と心の中で呟いてみたりするが、返答はもちろん誰からも返ってこなくて、余計に虚しくなった。
ふと、コピー機の向こうが目に入った。
安っぽいパーテーションを跨いで、向こう。奥のデスクに、上司と誰か、女性社員がいる。上司は座っているけれど、女性社員は立っている。遠目から見ても可愛らしくふわりと巻かれた髪の毛を見るに、睦美だった。睦美は、上司に何かを言われて、にこ、と笑みを見せている。昨日よりは、ぎこちない、ように見えた。
なんとなく、直感した。睦美が、楽しくなさそう、ということだけは、ただなんとなくわかった。
だけど楽しくないでしょうと訊ねに行くのもわからないし、助けてほしいなんて、思ってないかもしれない。若くて綺麗で可愛くて、努力を怠らない、それでいて聡い睦美は、たぶん、セクハラだって受けるし、謂れのない暴言を吐かれることだってある。けれど、今は本当にそうなんだろうか。あの上司は雪乃の直属ではないから数度しか話したことはない。語尾を伸ばして話す、えーだかあーだか口籠りながら話す、そういうことしか知らない。小田切さん、あのー、雑用で申し訳ないんだけどねえ、暇なら、これやっといてもらえる。はい、わかりました。交わしたことがあるのは、そんな会話だけだ。
楽しくないけれど、楽しくないだけかもしれない。もしかしたら楽しんでいるかもしれない。困っていても、自分でどうにかすると決めているかもしれない。睦美が何を考えているか、はっきり言ってわからない。だって、わたしは彼女のことなんか、何も知らない。だから、助けるなんて、筋違いだ。お門違い。雪乃は、そう思い込むことにした。パーテーションが、テレビの液晶画面に見えた。この先は別世界、のような気がした。
「半田さん」
気づくと、テレビの向こうに声を掛けていた。社内の視線が一斉に集まる。睦美はこちらを振り返って、目を丸くしている。あ、違う。こんな、こんなつもりはなかったのに。
睦美の足を止めていた上司が、禿げた頭を俯かせた。デスクワークに戻ったらしい。睦美がこちらに小走りで向かってくる。今日も可愛らしいフレアスカートがふわふわ揺れている。秋らしい、黄色が雪乃の視界で跳ねた。とん、とん、とん。小さくて確かな足取りが、こちらへ向かってくる。
「どうしたんですか?」
「えっと、」
もしよかったら、これホッチキスで留めるの、手伝ってくれないかな。
口から出まかせ、正直なところ自分一人でやってしまった方が早い仕事を任せてしまった。咄嗟の言葉だった。手元にあるコピー用紙は枚数自体少なく、かき集めても薄っぺらい。少人数向けのプレゼン用資料なので、こんなものをわざわざ別の仕事を受け持つ後輩に頼むなんておかしい。睦美もそう思ったようで、ぽかんと小さく口を開けている。
「もしかして、助けてくれたんですか」
「え?」
「私があの人に捕まってるの。気づいて、助けてくれたのかなって」
小声で睦美がそう言った。雪乃の手にある紙の束に手を伸ばすので、そのまま手渡してやると、受け取ったその一枚一枚をぺらぺらと捲り出す。
「睦美ちゃんは若くて可愛いんだから自分の身なりに気をつけないと狙われるよ、なんて言われて、ダルすぎるんだけど~って思ってたの、気づかれちゃいましたかね」
何事もないかのように、少しだけトーンを押さえた声で睦美は雪乃に笑いかけた。
「この間も、その爪はよくない、とかなんとか言われて。私を自分好みの冴えない女にしたいんでしょうね」
ざわめく午前のオフィスの中で、睦美の声は雪乃の耳にしか届かない。なのに、雪乃には睦美の声しか聞こえなかった。
「瀬戸さんからも言われました。俺は良いと思うけどね、なんて言われました。気を遣ってるんだと思います、セクハラとか厳しい世の中ですし。でも、私は誰かに見せたくて自分を着飾ってるわけじゃないんです。そりゃ、可愛いって言われたら嬉しいけど、本当の私は、可愛い私が好きなだけ」
ぺら、ぺら、ぺら。雪乃が書き連ねた引き継ぎ書が、睦美の手で繰られていく。細い指に、もう光らない薄桃色の爪。
雪乃の頭の中に、あの曲が駆け巡る。
アウトローリー。
――君は自分を殺すのか?
――それでもいい、なんて妥協じゃないのか?
――あの川の流れは、君の酸素を奪うだけだろう?
――曲げられるくらいなら、真っ直ぐなままでいよう。
――僕らが他の何者でもない僕らであることを、証明しよう!
藤岡芽以は雪乃に語り掛けた。
そうだ。言わなきゃ。
睦美は、あの上司にも、瀬戸にも、縛られるような存在であってはならないんだ、彼女は自由でいいんだ、自分を解放するべきなんだ、他者からなんと言われようと、どんな目で見られようと、彼女は彼女であるべきだ、睦美は、だって、可愛いから。可愛くなるために、人一倍努力しているから。それを縛るのも妬むのも厭うのも蔑むのも間違っている。睦美がこんな思いをする必要なんて、本当はないはずだ。だから、だから、わたしが。わたしが、肯定しないと。わたしが肯定してあげなければ。睦美の、きらきら輝くピンク色の爪を、自己愛の象徴とも言えるそれを、守らなくちゃいけない。曲げられるくらいなら、真っ直ぐなままで、他の何者でもない、僕らであることを、――証明、しなきゃ、いけない。
「半田さん」
ばちん、と音がした。
「でも」
睦美が、戸棚からホッチキスを手に取って、紙の束に穴を空けた。
「上から言われたことに反抗するだけじゃ、何も始まりませんからね」
ばちん。
「なんで思いっ切り可愛い格好で出社しちゃ駄目なんですか、って言ったって、駄目なものは駄目」
ばちん、ばちん。
「命が関わるならともかくですけれど。社会には、我慢すればいいことを我慢できない奴に、できる仕事なんかありませんし」
ばちん、ばちん、ばちん、ばちん。
睦美は、いつもと変わらない朗らかな笑顔だった。
「キリがないんです。何もかもに怒ってたら。私は自分のことで精一杯だから、どうして学校でメイクしたら駄目なの、どうして人を怒らせるといけないの、どうして夜に口笛を吹いちゃ駄目なの、どうして若い女が男に媚びちゃいけないの、なんて、考えてたら、私ばっかり満たされてないみたいで、馬鹿らしくなってくるでしょう。私は、私のことだけでいっぱいいっぱい」
――雪乃ちゃんはさ、自分のことばっかりなんだよね。
あの日のコーヒーの匂いがする。あったかくて、でも冷たい、苦くて黒いだけのでろでろとした何か。
「流行りの曲も、芸能人も、みんな自由ばっかり謳う。解放とか、自己愛、証明、やさしい生き方、そんなことばっかり。多様性を認めよう、声を上げよう、理不尽に立ち向かおう。私は誰にもそんなこと望んでないけれど、やさしくない人はやさしい人たちに糾弾されて、やさしい逆転劇に揉みくちゃになって、消費されていく」
――昨日言ってた私の推し投稿者が炎上してるんです!
――なんか、動画で取り上げたマスカラが、ステマ? だとかなんとか、言われまくってて!
――推しはちゃんと、この動画はPRでした記載漏れがあってすみません、って謝ってるんです! なのに、見てるだけの視聴者、消費者が、無茶苦茶言ってるんですよ!
あの時は、ちゃんと聞いていなかった睦美の言葉。睦美の努力や頑張りを見透かした気になって、聞き流していた言葉たちが、雪乃の胸に溢れ出した。
「好きな人が好きなことしてるなら、なんだっていいんです、私」
どうしてか、須賀の笑顔が睦美の表情に重なる。
「小田切さんなら、わかってくれるかなって思いました」
こんな芸人知らねえよ。面白いと思ってやってる? 世界観独特すぎてついていけねー。これが今のお笑い? こんなんで笑えないよな。誰だか知らないけどテレビに映らないでほしい。売名で人気出てよかったねー。事務所のゴリ押しだろ、おもんない。若手が調子乗んな。
――わかる、わたしも、好きな人が好きなことしてるなら、なんだってよくて。
藤岡芽以を、好きになれないんじゃなかった。
好きになろうと、していなかった。
雪乃の価値観を変えてくれたのは、藤岡芽以ではなくて、須賀だった。
藤岡芽以のカリスマ性に酔っていたのかもしれない。新しい扉を開くのが怖かったのかもしれない。
だけど、雪乃は確かに須賀が、三面鏡が好きだった。
何もできない自分には、花霞14の鮮烈さが眩しいんだと思っていた。でも違った。何も見てはいなかった。
雪乃も睦美も、目を逸らしていた。
藤岡芽以は、花霞14は、真っ直ぐに見据えていた。
でもどこかで、それを遠いものだとしか思えなかった。
同調圧力からの解放、自己表現、アイデンティティの証明。
だってそんなの、現実には無理じゃん。
花霞14は、大人が生み出した、少女たちの幻想。
雪乃が憧れていいものではなかったのだ、最初から。
「小田切さんって、芸人さんとか好きなんですよね」
雪乃は思わず顔を上げた。どうして、と聞くより先に睦美が答える。
「スマホの通知、三面鏡のチャンネルからよく来てますよね。三面鏡、私も好きですよ」
心臓の鼓動がうるさい。怖い。睦美の口から、その単語が出ることが、怖くて仕方なかった。
「三面鏡、売れすぎてショックだったりしませんか?」
違うよ。わたしは、いちファンでしかないんだから。
そう言えたのか、言えてないのか、雪乃には何もわからなかった。
ばちん、とホッチキスの音が響いた。




