アウトローリー/前編
画面の中の少女が、自分を見ていた。
そんなわけはないと頭ではわかっていても、雪乃は、彼女に強く鋭く睨みつけられていると感じた。
目を見張るとはこのことか、と直感的に思う。少女が踊っているスマホの液晶、その上下左右にはシックなフォントで飾られた文字があった。左上に、新進気鋭のアイドルグループが初のテレビパフォーマンス、という仰々しい言葉たち。画面の下部には、自由と解放を謳う、民衆運動とも捉えられかねない難儀な言葉が並んでいる。
――君は自分を殺すのか?
緑とピンクが派手に舞う照明の中で、十数人の少女たちが激しいフォーメーションダンスを踊る。その中で、主役、とも呼ばれるべき中央の位置に立つ少女。その中性的なショートカットと冷たい眼差しが、カメラのセンターと雪乃の視線を奪う。
――それでもいい、なんて妥協じゃないのか?
ああ、そうだ。そうなんだ、と雪乃の心の中で声が上がる。
――あの川の流れは、君の酸素を奪うだけだろう?
少女が指を差す。こちらに銃を向けるようなポーズで、彼女は雪乃に、確かに言った。
――曲げられるくらいなら、真っ直ぐなままでいよう。
雪乃の左手にあるビールはすっかりぬるくなっていた。
ぷすぷす、という炭酸の抜ける音が、スマホの向こうの激しい曲調に潰される。雪乃の右手は、箸を握ったまま、静止していた。
――僕らが他の何者でもない僕らであることを、証明しよう!
この日、雪乃は彼女の名前を初めて知った。
藤岡芽以。
後に〝現代アイドル界一の鬼才〟と表現される彼女と、初めて出会った日だった。
口に卵焼きを放り込む。
甘くも塩辛くもない。卵焼きを食べた、というより、なにか黄色い塊を口の中に押し込んだ、という感覚に近かった。
「小田切さん」
肩を後ろから叩かれ、座ったまま後ろを振り返る。
「お隣、いいですか」
半田、と書かれた名札が、窓から入る太陽光を反射してきらりと光る。半田、半田睦美、ああそうだ、〝睦美ちゃん〟だ。彼女と社内に飛び交う彼女の渾名を思い出し、雪乃は、自身の脳細胞が一つ動いたような気がした。
睦美の爪先は今日も小綺麗なピンク色をしている。社内で怒られないように、でも可愛い心遣いはしたい、そんな睦美のころころとした声が聞こえてくるようだった。雪乃は箸を握る自分の爪を見て、心の中で睦美への賞賛を送る。
「いいよ、時間ギリだけど大丈夫?」
「ありがとうございます、爆速で食べちゃいます」
ぴかっと笑いながら隣の椅子を引く睦美は、そう言いながらも既に弁当箱の包みを開いていた。
爆速で。その言葉の響きが妙に可笑しく感じられて、雪乃は頬を緩ませた。まだ入社一年で、歳も若い睦美の言葉遣いはいかにも現代っ子らしい。雪乃にとっては耳慣れないそれらを、睦美はするりと五十音の並びとして扱う。しかし、休憩時間や退勤後以外に睦美がこういった言葉を使うのは聞かない。公私をきちんとわけられる若者、その上、こうして先輩の隣にすとんと座ってしまえるほどの人懐こさがある。周囲に〝睦美ちゃん〟と親しみを込めて呼ばれる理由もわかる、と雪乃は頭の中で小さな計算式を立てた。睦美は、いい歳したオッサンと呼ばれるような上司たちにも、きっと雪乃と同じように接するのだろう。そうして、下の名前にちゃんをつけて、気さくな風に呼ばれる。
「小田切さんって、休日は何されてるんですか?」
咀嚼する口元を手で隠しながら、睦美が問い掛けた。ピンク色の爪先が、また、きらっと光る。
「特に何も。動画見たり、かな」
雪乃の弁当箱の横で、スマホが震えた。画面には新着通知一件、という文字が表示されている。雪乃は画面を手で覆い隠し、そのまま人差し指でスマホ本体のスリープボタンを押す。
「へえ、動画って?」
「なんでもない、オススメに出てくるようなの」
こちらに向き直り問い掛ける睦美の視線を無視して、雪乃は弁当箱の蓋を閉めた。かこん、と子気味いい音が鳴る。
「それなら、私が好きな美容系配信者、知ってますかね?」
るりり、って言うんですけどお、と言いながら箸を置いてスマホを持ち上げた睦美は、もうすっかり休憩時間というリミットの短さを忘れてしまっているらしい。
「聞いたことないなあ。見てみるね」
「是非!」
雪乃は、弁当箱を小さな保冷鞄に入れる。淡々と、ごちそうさまの儀式を進める雪乃に、睦美は気づいていない。動画アプリを開こうとしているらしい。そこで、彼女が人差し指で吹き飛ばしたニュースサイトの通知が、雪乃の目に入った。
「あ」
睦美も吹き飛ばした通知に何かが引っ掛かったらしく、指の動きを逆再生してその文字列を見直した。
「花霞、解散するんだ」
【人気アイドルグループ・花霞14、解散を発表】
雪乃は、そうなんだね、とだけ言った。
「へえ、普通に人気だったのに謎ですね」
睦美はそう言いながらもまたその通知をスワイプして、動画アプリのアイコンをタップした。
やっぱり、その爪は可愛かった。
社内に、チャイムが鳴り響く。睦美が、ウソお、と嘆く声が聞こえる。
ほとんど何もかも、聞こえる、だけだった。
二リットルの烏龍茶のボトルに、スマホを立て掛ける。昼間の睦美と同じように動画アプリのアイコンをタップする。雪乃の人差し指は、睦美のように着飾られてはおらず、剥き出しの皮膚と変わらない色をしている。
ベルを象ったアイコンをタップして、新着通知を確認する。昼間は見ることができなかった、通知。動画アプリの通知。何よりも心待ちにしていた、通知。
【動画が更新されました:企画! 視聴者の質問答えてみたのコーナー・第二弾!】
来た。
雪乃の胸はどくん、と高鳴る。
質問企画、前回が神回すぎたからなあ。今回も絶対に面白い。投稿から八時間でもう前回の動画の再生回数超えてるじゃん。どんな質問来てるんだろ。このチャンネルのコメントってみんな面白いからなあ。あ、サムネの二人、笑顔すぎる。かわいい。ていうかサムネよく見たら、兄弟とか家族とか書いてある。あ、もしかしてお兄さんの話とか聞けるのかな。楽しみすぎる。やばい。どうしよう。
雪乃は興奮のまま指先でその通知に触れる。画面が切り替わり、コミカルなフォントと共に二人の男が画面に映された。
『はいどうもやって参りました、サンメンチャンネルのお時間です』
『〝三面鏡〟の、須賀です!』
『松田ですう』
交互に挨拶を行う青年二人を見ながら、雪乃はコップの烏龍茶を啜る。顔は自然と綻び、心が踊っているのが自分でもわかった。
お笑いコンビである〝三面鏡〟は、雪乃が大学生だった頃に結成された。当時十八歳の松田と十六歳の須賀で構成された三面鏡は、その独特すぎる速いテンポと大袈裟なアクションで細々ながら人気を博し、すぐに事務所ライブへ出ることとなる。そして彼らは、お笑いライブの観覧を趣味とする友人に連れられ、軽い気持ちで事務所ライブを見に行った雪乃の心を鷲掴みにした。この子たち、私より歳下じゃん。てか、喋りのテンポ感速すぎる。ボケの子めちゃくちゃ動くなあ。歳下でこのウケ方って、すごいな、将来有望だな。あ、ボケの子、台詞飛ばした、っぽい。笑ってる。なんか、若き鬼才って思ったけど。二人で笑ってる感じは、意外と、歳相応だな。帰りの電車に揺られ、どうだったと友人に問われた雪乃は、既にその手の中に握られたスマホで、三面鏡と検索を掛けていた。
検索する度に一般名詞としての三面鏡ばかりが引っ掛かり、いちいちスペースを入れて、芸人、の文字を入れていた雪乃だったが、最近はその必要性がなくなった。三面鏡、と検索窓に入力するなり、サジェストに芸人の二文字が現れるようになったのだ。これは、雪乃から見てもわかる、結成から六年で彼らはたいそう有名になった、という事実の表れであった。
『今回は、結構前にもやったんですけど、コメントで募集した質問に答えていくという企画をね、第二弾、てわけで』
『やらせていただきます!』
雪乃は、ボケの須賀がとにかくはきはきと話す姿が好きだった。空回り、と形容されるくらい、須賀はいつでも声を張る。ネタ中だろうが平場だろうがとにかく大声。頑張りすぎていることが傍目にわかる、そんな須賀を応援したいと思った。
動画のシークバーは、どんどん右に動いていく。三面鏡の二人は、軽快な笑い声を飛ばしながら、視聴者の声を読み上げていく。テレビの収録について、ラジオと自分たちの動画チャンネルではどっちのフリートークが楽しいか、そんな質問が取り上げられるたび、雪乃は、売れたなあと心の中で呟く。全国区で放映される漫才の賞レースにおいてファイナリストとして選出されてから、三面鏡はあっという間に売れていった。コンビなのに三面鏡、二人とも二十代前半という若さ、他に類を見ない独特のネタ、さまざまな要素が掛け合って番組出演のオファーも増していき、昔では考えられないほど多くのファンがついたのだ。テレビもラジオも、この動画チャンネルの存在だって、彼らの人気と実力が実現させたことだ。雪乃にとってそれは、非常に喜ばしいものであり、また同じくらい寂しさを感じさせるものだった。
『あ、あとこれ須賀にですね』
『何? どれ?』
『花霞14は何きっかけで推し始めたんですか、とのことです』
うわあっと画面の中の須賀が声を上げた。
――花霞。
雪乃は、画面をタップして動画のコメント欄を表示させる。丸い形のアイコンとその横に文字が、複数行並ぶ。
【こういう企画ずっとやってほしい。にしても売れたなあ!】
【テレビスタッフの話、笑いすぎてしんどい! ネタもおもろいけどフリートークもおもろいんですね。次の質問回も楽しみですわ】
【仲良く喋ってる二人、ずっと笑っててなんかもうマジで仲良いんだなあ~って感じして超推せる(伝われ)】
【松田さんも須賀さんもお互いのことリスペクトしすぎてて関係良すぎる、普通に尊敬する……】
雪乃は、画面をスクロールし続ける。コメント欄には、投稿から十時間で八四二件もの感想が寄せられていた。
『花霞はね、推しはみやうーなんだけど、きっかけはかめこだね、やっぱり!』
動画の中に、テロップが表示される。著作権の関係で画像は出せないらしく、スタッフが宣材写真をトレースして描いたと思しきイラストが隣に並んでいた。
【みやうー=宮内佑果さん(現在二十一歳)のこと。花霞14現キャプテン】
【かめこ=藤岡芽以さん(現在二十歳)のこと。花霞14不動のセンター】
みやうー、の横には、ゆるくパーマのかかったセミロングが似合う、たぬき顔の少女。かめこ、の横には、耳が隠れる程度の黒髪ショートカットに切れ長の瞳を持つ少女。それぞれのイラストが、彼女たちの顔であることを示していた。
『かめこのパフォーマンス、ほんとにえぐいから。俺ね、なんか音楽番組でデビュー曲やってんの見て、もうその日ずっとかめこのこと頭から離れなくて!』
『ダンスまあすごいお上手ですよねえ、顔もほんまかわいらしいし』
『でもハマってからの最推しはみやうーですよ。宮内佑果さん』
雪乃はコメント欄を遡る。
【いやスタッフの話ぶっちゃけすぎてて草】
【須賀ちゃん暴れ狂ってて最高、ネタ動画とゲーム実況回も待ってますよー】
【この動画投稿されてすぐ花霞解散発表されたのビビった】
【松田さん今日もお顔が良い……。ドラマのオファーとか来てほしい】
スクロールする指を止める。そのまま画面をタップして、あるコメントの〝返信を表示〟させた。
【この動画投稿されてすぐ花霞解散発表されたのビビった】
【それな。えぐい】
【須賀ちゃんショックやろな】
【須賀ちゃんSNSやっとらんからなあ。いつ気づくかな】
【ほぼ同時だったね、花霞も同時に推してたからショック。推しの推しが……】
コメントを眺めていると、耳慣れたBGMが聞こえてくる。動画は、チャンネル登録を視聴者に促す、エンディング画面に移っていた。
雪乃はスマホのホームボタンを押し、ブラウザアプリを立ち上げ、検索窓をタップする。
花霞14、と入力すればすぐに画面は切り替わり、公式サイトやニュース記事がヒットする。そこかしこに、解散という二文字が確かにあった。しばらくスクロールして、フリーの百科事典サイトの記事を開く。
【花霞14(はながすみフォーティーン、Hanagasumi14)とは、寿アキラプロデュースにより運営される、日本の女性アイドルグループである。】
【メンバー
荒木凛花
石川セレス(いしかわせれす)
岡崎七海
倉田瑠奈
佐々木千景
菅田愛夏
高杉めあり(たかすぎめあり)
土門澪奈
速水ひかる(はやみひかる)
藤岡芽以
宮内佑果
村上茉実子
望月乃々(もちづきのの)
山口香菜】
藤岡芽以という四文字だけに、アンダーラインが引かれている。それだけがリンクになっており、雪乃はそれをタップする。藤岡芽以の記事が開かれる。
【藤岡芽以(ふじおかめい、2000年5月26日ー)とか、女性アイドルグループ花霞14のメンバーである。東京都出身。身長163cm。愛称はかめ、かめこ、めいちゃんなど。2016年には、このアイドルがヤバい2016を受賞している。】
【当時中学二年生でデビュー。アイドルを志望した動機として、幼少期から憧れの職業であったと語っている。キレのあるダンスと類稀なる表現力によるパフォーマンスを評価され、このアイドルがヤバい2016を受賞するなど、目覚ましい活躍を遂げている。音楽番組では現代アイドル界随一の鬼才、と称されている。】
記事のトップに、ショートカットの少女が鋭い視線をカメラに向けている写真が貼りつけられている。まだ細い肩にそぐわない、強い眼差し。吊り上がった瞳からきらりと存在を主張する眼光。
藤岡芽以は、雪乃が初めて好きになったアイドルだった。
アイドルなんか、茶番だと思っていた。
楽曲の良し悪しに関係なく、盲目なファンが幻想を求めてCDを買い漁り、偽りの国民性を得る、アイドルとはそういうビジネスだとばかり、雪乃は思っていた。
しかしある時、まだ世間的に名を知られていなかった須賀が、花霞14のファンを公言し始めた。その頃から、雪乃の世界は変わった。
初めのうちは、大御所プロデューサーのわかりやすい罠にはまって、騙されてるとも知らずにアイドルの可愛さを語る須賀の素直さが愛おしい、としか考えていなかった。雪乃は須賀が〝推しメン〟の話をするのが好きだった。彼の、いつでもよく回る舌が、好きなアイドルの話でさらに饒舌になるのがたまらないほど愛しく感じた。彼の語る言葉を聞いているうちに、数人のメンバーを覚え始めた。みやうー、かめこ、ささきち。それぞれ、須賀の推しメン、グループのセンター、そしてキャプテン。須賀が楽しそうに彼女たちの名前を口に出すのを見ていると、雪乃の中にあったアイドルというビジネスへの偏見もだんだん形を変えていった。単なるビジネスから、須賀に楽しみを与えるもの、という認識に変わってくると、アイドルがそこまで悪いものとは思えなくなっていたのだ。そうして、ふと思い至って、動画アプリで花霞と検索を掛けた。すると、花霞14テレビ初パフォーマンス、というタイトルの動画が一件目に上がり、雪乃は何気なくそれを視聴した。
圧巻、とはこのことか、と息を呑んだ。
動きの多いフォーメーションダンスで同調圧力からの解放を表現し、強いメッセージ性のあるパフォーマンスで視聴者に気持ちを訴え掛ける少女たちが、そこにはいた。恋愛ソングを可愛い振付で踊り、笑顔を振り撒くアイドルはそこにいなかった。全員が、難解な言葉も入り交じる歌詞をそのまま突きつけるように、ぎらりと硬い表情をカメラに向けている。
中でも雪乃は、センターで踊るショートカットの少女に目が向かった。ひたすら魅入られた。彼女が、須賀がよく語る〝かめこ〟――藤岡芽以だということは、想像に難くなかった。
誰よりも頑なな視線、ステップ、表情。魅了されるほかなかった。彼女が同調圧力をぶち破ろうと歌い上げるさまを雪乃は、本物だ、と感じた。
知れば知るほど、藤岡芽以は圧倒的な才能の持ち主だと、雪乃は確信していった。与えられた称号、ファンからの絶賛、業界人からの支持、どれもがアイドル界で群を抜いている。藤岡芽以に詳しくなればなるほど、彼女の凄まじさが全身に伝わってくる。紛れもない、天才。雪乃は、どんどん藤岡芽以に惹かれていった。
可愛くて煌びやか、なのに、強くて儚い。
少女という存在の美しさを、すべて詰め込んだのが藤岡芽以だとさえ思った。歴史もよくわからない、大きな絵画を目にするような気持ちだった。素など知らずとも、ステージに立つその様子を見るだけで、藤岡芽以はカリスマとしか言いようがなかった。
ただ、雪乃にはそれ以上に三面鏡の存在が大きかった。藤岡芽以は、花霞14は、やはり雪乃にとって『推しの推し』であった。
デビューして、敏腕プロデューサーの手により圧倒的な速度でファンを増やしていった花霞と、たった二人きりで板の上に立ち何もかもを背負い込んで進む三面鏡のどちらを応援せねばならないか、そう考えた時、雪乃は三面鏡を選んだ。自分を笑顔にしてくれる須賀を笑顔にする花霞に感謝した。藤岡芽以のことは、すごいアイドルだ、と思うに留めた。
――アイドルって、私の思っているよりすごい世界なんだな。
そう思うだけに留めた。花霞は『推しの推し』、『推しの推し』は私の推し。一歩だけ線を引いて、ファンではないけれどすごく心惹かれる存在、追い掛けはしないけれど好ましく思う存在。須賀が、花霞14と書かれたTシャツやサイリウムの画像をSNSにアップするたびに、雪乃はその存在に感謝した。『推しの推し』、推しを幸せにしてくれてありがとう。
雪乃はSNSのアプリを開く。溜まった通知が、青く光っていたが無視して投稿作成ボタンをタップする。
【花霞解散、ショックだな。最新動画見たけど須賀くん花霞の話してたし。かめこちゃん、好きだったんだけどなあ】
タイムラインにそんな呟きを投げ掛けようとして、雪乃の手は止まる。
やめよ。〝表〟で言うことじゃない。
アカウント選択画面を開き、鍵マークつきの非公開アカウントを選ぶ。
雪乃の〝裏アカウント〟のタイムラインには、六人のフォロワーしかいない。それは、公開アカウント、つまり〝表〟の三十分の一にも満たなかった。
三面鏡の二人が並んでいる〝表〟のアイコン。プルタブの開いたビール缶の写真を使った〝裏〟のアイコン。
お笑い、漫才、三面鏡、という単語が並ぶ〝表〟のタイムライン。残業しんどい、酒が飲みてえ、生理だるい、無秩序な愚痴が並ぶ〝裏〟のタイムライン。
雪乃の裏アカウントのフォロワーは、全員雪乃と対面したことがある。揃って全員鍵アカウントで、全員のプロフィール欄に【身内用】と乱雑に書かれている。表も裏も、初めは同じだった。最初こそ、お笑い芸人を追い掛ける人間同士で繋がり、趣味を共有し合うために作られたアカウント。だんだんと、『推し』に人気が出るにつれ言えることがなくなった〝表〟と、『推し』の周囲のことについて愚痴や文句を垂れ流すことが多くなった〝裏〟のアカウント。
三面鏡の人気が上がったことで増えたニワカ、もとい新規ファン。二人のどちらかへ恋愛感情を抱く女。二人となんとかして繋がる術を探っている勘違い一般人。アイドルの現場と間違えて、松田の名が書かれたうちわをお笑いライブで掲げる変態。〝表〟の雪乃をフォローしてくる彼女たちは、みんな雪乃を同類だと誤解している。三面鏡のチャンネル動画が更新されるたび、三面鏡が全国ネットの大きな番組に出演するたび、三面鏡が参加している賞レースの結果発表があるたび、彼女たちは一四〇字いっぱいに思いの丈を叫ぶ。雪乃は辟易していた。みんな、わたしより新参の癖に。
好きになることに遅いとか早いなんてことはない、というのは雪乃自身もよく理解していたし、三面鏡のことだってデビュー当時から知っているわけではなかった。だけど、あまりにも大きな顔で三面鏡を寵愛する女たちを好きになれなかった。須賀くんも松田くんも、お前らの孫じゃないんだぞ。れっきとしたお笑い芸人なんだぞ。心配するな。尊ぶな。愛でるな。もちろん雪乃はそんなことを呟かない。〝表〟の雪乃は、純粋な三面鏡のいちファンであり、界隈の自治を行う立場ではない。そもそも、発信こそしないけれど、三面鏡に『推し』という単語を使っている後ろめたさもあった。所詮、わたしはあの人たちと変わらないんだ。三面鏡をアイドルとして見たくない、なのに、どうしても二人の漫才に不要なほど心が躍ってしまう。自分が女に生まれたことが悔しいとさえ思った。検索欄にワードを入れた時引っ掛かる、三面鏡おもしれえ、花霞推しなん俺と同じやサイコー、なんていうぶっきらぼうな言葉がとてつもなく羨ましかった。わたしだって、手放しで面白いと言えるファンでありたい。雪乃は何度も、唇を噛んだ。
そういう時、すべての感情を〝裏〟にぶつける。
裏アカウントのタイムラインは、人口も少なく荒れ果てたスラム街さながらの様態だ。愚痴、暴言、欺瞞、とにかく表に出せないこと。〝表〟で言えないことばかりが、溢れている。それも、信頼し切った昔からの知り合いのものだけ。
【まあ、解散した時に限って好きだったとか言う私みたいなの、かめこちゃんは嫌いだろうな】
何も考えず、打ち込んで、送信。
誰に届くわけでもない。誰かに届けたいわけでもない。
ただ吐き出したい。指を動かしていたい。そんな気持ちだけが、このタイムラインを動かす。
自分を優しく包み込んでくれる恋人でもいれば、何か違うだろうか。
なんでも話せてなんでも話してくる親友でもいれば、何か違うだろうか。
愚痴を垂れてもなおんと一つ鳴いて尻尾を振る飼い猫でもいれば、何か違うだろうか。
満たされない。満たされない、満たされない、満たされない。
こんなに苦しかったっけ。
三面鏡、って最初に調べて、本物の鏡ばっかり出てきた時、こんなに苦しかったっけ。
私、何してるんだろう。
私、なんで三面鏡を好きになったんだろう。
私、なんでかめこちゃんのこと、追っ掛けられなかったんだろう。
スナック菓子の袋、ビールの缶、まだ読んでいない雑誌、脱ぎ捨てたばかりのワイシャツ、雪乃の生活のすべてが散らばった床に、雪乃自身が大きく寝そべる。
働かなきゃ。
お金がないから。
お金がないと、ライブに行けないし。
機械が活動を終えるように、雪乃は目を瞑った。
テレビの中の藤岡芽以は、彼女を囲むのがワイドショーのテロップだとしても、目で追ってしまう魅力があった。
『有名プロデューサー・寿アキラ氏によって運営される人気アイドルグループ・花霞14が、突然の解散を発表しました』
アナウンサーが淡々とした声で、事実だけを述べていく。
『花霞14は、有名プロデューサーである寿アキラ氏によって運営され、デビューシングルが女性グループ初のオリコン首位連続五週を突破したことでも知られています。その突然の解散発表に、驚きを隠せない方も……』
花霞の画像が、街頭インタビューの映像に切り替わる。雪乃はワイシャツの袖に腕を通す。黴の生えたカーテンの隙間から、強い光が差し込む。
『え、うそうそ、あの? アイドルの?』
『びっくりい』
マイクを向けられた若い女性二人は、花霞の解散より自分を映すカメラに意識が集中しているらしい。まったくびっくりとは思えない声色だった。
『俺めっちゃファンでした! ショックなんだけど』
『なんか、ファン多かったですよね。芸能人とかにも』
『デビュー曲、めっちゃ聞いてました! 今も、たまに……』
ぽんぽんと切り替わる画面の中で、みんなインタビュアーをにやけた顔も隠さず見ていた。老若男女、誰もが口を揃えて、驚き、だの、ショックだの。
デビュー曲。雪乃は、インタビューを受ける女性のその言葉を聞いて、あの日見た映像が脳裏に過ぎった。花霞が初めてテレビに出た日の映像。雪乃が、初めて見た花霞の映像。
花霞のデビューシングル『アウトローリー』は、同調圧力や巨大な権力に抗う少年の心を歌ったロックナンバーだ。女性アイドルグループのデビューシングルとしては異例のテーマを持つその曲は、発売されてから瞬く間に若者の支持を得ることとなった。しかしその人気は、発売直後だけの儚いものではなかった。リリースされてから三年の歳月が経ったある時期に、海外の親日家インフルエンサーが自国の情勢とその曲の内容を照らし合わせ、SNSで拡散を行ったことで再び脚光を得たのだ。そういった事実も相まって、この曲はファンの中で『伝説』と呼ばれているらしい。きっと多少はプロデューサーのテコ入れもあるのだろうけれど、雪乃はその曲が好きだった。その曲が、雪乃と花霞を引き合わせてくれた。タイムカードを切った雪乃の背中を押すのは、この曲だった。いつだって雪乃は、須賀がその曲を聴き入っている状況を妄想して、イヤホンを耳に嵌める。須賀の厚い唇が、この曲を口ずさむのを頭の中に思い描いて、大きく一歩を踏み出す。
雪乃は鏡に向き直る。メイクをする時、やっぱり男に生まれてくれば楽だったのに、と思う。眉毛の薄い顔が鏡の中からこちらを見ている。情けない、と思った。左の頬に赤いにきびが、小さく存在を主張している。ずっと使い回しているリキッドコンシーラーは、そろそろ中身が少なくなっている。チップにたっぷりと含まれたそれを、少しだけ筒の入口でこそぎ落とした。
大学に入った頃は、鏡に向かって前髪を整えるのが好きだった。あの頃はブラウンアッシュと称されたヘアカラー剤を毎月買っていたけれど、今はもう店頭に並んでいるのを見てすらいない。前髪ももう伸び切ってしまったから、横に分けて後ろの髪を下の方で結ぶ。雪乃の髪質は細くて、毛量も少ない。小さな鏡に映ったその姿は、とても弱々しく見えた。テレビに映る藤岡芽以の艶やかなショートカットも、昨日目にした睦美のふんわりとセットされた明るいセミロングも、今の雪乃にはない。最低限、そんな風に整えた粗雑な一つ結びがそこにあった。
十九歳の頃、二十六歳という年齢はとてつもない大人に見えた。自制が効いて、自律ができて、社会で生きていく上で一人前。二十代の後半とはそういうものだと思っていた。そういう大人の入り口だと思っていた。だけど違った。雪乃に残されたのは数字だけだった。三六五日を七回繰り返して辿り着いたのが今という、ただそれだけだった。雪乃は何一つ変わらなかった。変われなかった。七回のうちに、何かを諦めて、捨てるだけだった。手に入ったものはなかった。
男になりたいわけじゃない。だけど、女でいたいわけもなかった。雪乃はもうとっくに、自分がわからなくなっていた。
ジャケットを羽織り、パンプスを履き、ドアノブに手を掛ける。今日もここまで来れたのだから、もうちょっと褒められたっていい。そうとは言わず、靴の踵に手を掛けて、一歩踏み出した。
「小田切さん、ちょっと」
雪乃の目の前に、一枚の紙が差し出された。すぐに脳が、昨日上司に提出した、特集案のプレゼン資料だと理解した。イマドキ男子のハマる動画十選、そんなゴシック体がでかでかと踊っている。顔を上げて差し出した手の方を見て、あ、と声が漏れる。
目の前にいる男は、申し訳なさそうに眉を寄せて雪乃を見ていた。名札には、瀬戸、の文字。瀬戸、なんだっけ、なんだっけ。
「昨日のプレゼン案だけど、一つだけ誤植があって。ここだけ訂正してもらいたいんだけど、いいかな」
ああ、駄目だ、思い出せない。瀬戸、その後に、続く名前。
「ありがとうございます、やっておきます」
「わざわざごめんね、スライドの四つ目なんだけど」
雪乃のそれより節くれ立った、ごつごつとした指が紙の右下あたりを指差す。背の高い彼が雪乃に覆い被さるように、背後から話し掛けてくる。雪乃のデスクと上にのさばる紙は、瀬戸の影にほんのり暗くなった。
異性は苦手だ。いつになっても。
それはたぶん、意識してしまうというより、同性よりも難しいからだ。理解をするのが、近づくのが、フラットに接するのが。
性別が違うだけで、同じ言葉を発することはできない。異性間にある言葉か、同性間にある言葉か、その違いはそこにある言葉そのものの意味さえ曲げる。雪乃の〝好き〟は、流れやすい女の感情的なそれなのだと、誰かに咎められている気がした。
「あと、小田切さんって、半田さんと仲良いのかな」
瀬戸は、つらつらと紙の上を歩いていた指を、唐突に止めた。再びそちらを見上げれば、瀬戸の健康的な黒い肌が目の前まで近づいていた。丸くて黒い瞳が、雪乃を映す。
「え、普通、ですかね」
咄嗟に、変な言葉を使ってしまった。
普通。特別仲良くはないが、気まずいこともない、こちらは好意的だが、相手がそうかはわからない。そう言い表せる端的な言葉が、頭の検索エンジンに引っ掛からなかった。
「そっか。じゃあさ、小田切さんからちょっとだけ言ってもらえるとありがたいんだけど」
瀬戸の広い肩が、雪乃に近づく。あ、駄目だ。男性が近くにいればいるほど、表情の作り方がわからなくなる。別の世界の生き物、なにか、知らない生命体と話しているみたいで、気の遣い方が正しいのか、目を合わせていいのか、わからない。
半田さんは。
〝睦美ちゃん〟は、こんなこと思わないんだろうな。
「半田さんのね、ネイルって言うのかな。あれが、部長が言うにはだけど、会社的に良くないらしくて。同じ女性だし、小田切さんから言ってもらいたいんだよね。半田さん、女の子といるところあんまり見かけないし」
営業部ならともかく、事務なのに部長も変な人だよね。そう付け足しつつ、首を傾げて曖昧に微笑まれる。
わかりました、とだけ言った。
瀬戸はありがとう、と残して雪乃のデスクを去った。
睦美の、艶やかに光るピンク色の爪を思い描く。さり気ないようで、努力の滲む、綺麗すぎる爪。
走り去った瀬戸の声が、遠くに聞こえる。
――お前に何がわかるんだ。
瀬戸の、ファンデーションの乗っていない、健康的な黒い肌。睦美の、怒られないように心掛け、さり気なくも目を惹くピンク色の爪。切れかけたリキッドコンシーラー。動きにくいブラウス。愚痴ばかり垂れ流す裏アカ。男のアカウントのあっけらかんとした言葉。雪乃が発する好きという気持ち。ニワカな女ファン。楽しそうにアイドルの話をする須賀。須賀の素直な好きという気持ち。花霞。解散した、花霞。藤岡芽以。かめこちゃん。雪乃には輝いて見えた、だけど近づかなかった、光。〝僕らが他の何者でもない僕らであることを、証明しよう〟。
すべてが雪乃の頭の上を駆け巡って、掠めて、消えていった。
もう、何も考えたくない。




