パレイドリア/前編
目の前に、ヘアアイロンが置かれた。
千景は、毛先に宿る僅かな熱に少しだけ意識を持っていく。伸びたな、髪。
「佐々木さん、そろそろ髪切りに行きましょうか」
犬飼は手元のスケジュール帳にペンを走らせながら千景に言った。千景の髪を撫でつけていた佐藤が、あら、と犬飼の方を振り返る。
「今の千景ちゃんのスケジュールじゃ、厳しいんじゃないですかね」
「予約は空けさせます。現状入ってる公演が終わり次第で問題ないかと」
「忙殺だねえ、千景ちゃん」
佐藤の細い指が千景の髪先を持ち上げ、ふわりとした形を作る。いえいえ、と鏡に映る佐藤に千景が会釈をすれば、佐藤はそんな彼女の表情をコピーするように、にっこりと笑った。
千景のヘアメイク担当が佐藤に代わってからもうそろそろ一年が経つ。彼女の人となりもわかってきた。彼女はこだわりが強い方だ。千景がバラエティ番組に出るたび、佐藤はいつもSNSでそのヘアスタイルの評判を見ているらしい。新しい髪型良いじゃん、と言われていれば一ヶ月ほどバラエティの撮影ではそのヘアスタイルにされるし、特に話題になっていなければころころとその方向性を変えていく。手腕は確かなものの、着せ替え人形にされてる感じは否めないな、と千景は鏡の中の自分を見て小さく笑う。今日は内巻きか。一昨日放送された番組でそこそこ評判良かったもんな。
「佐々木千景さん、待機お願いしまーす」
「今向かいます」
楽屋の外から響いたスタッフの声に、犬飼がすぐ返答する。少し食い気味なくらいの返しに、佐藤がふっと噴き出した。犬飼は仏頂面のまま、スマホを取り出して何かを計算し始める。
犬飼は千景に初めてついた専属のマネージャーだが、その素性ははっきり言って、佐藤よりも謎だ。分厚い眼鏡のレンズで隠されたその目線は、いつもどこに向いているかわからない。千景が知っていることはせいぜい、とにかく姿勢が良いこと、それから何やら甘党らしい、ということだけだ。以前、佐藤や他の女性スタッフから激辛料理の話題で絡まれ、ぽろっと零していた。僕、甘党なんで、わからないですけど。ぶすくれた表情から飛び出したその切実な声色が、やけに千景の心に残っていた。
「千景ちゃん、今日も頑張ってね」
佐藤が千景の背中をとん、と押す。もちろんです、ありがとうございます。お決まりのやり取りを終えると、犬飼が楽屋の扉を開く。そんな彼の背中を見ながら、千景は、自分の頬を両手で叩いた。ぱしん、と乾いた音が響く。ベタな方法ではあるが、気合いを入れるための行為、その意味を身体に自覚させるためには、ベタであればあるほど良い。
肩書きが変わってから、千景はこの瞬間を楽しいと思えるようになった。もちろん、楽な仕事ではないと常々思う。いつになっても、満足のいく結果が出たことはない。だけど、周りの人、と呼べる人が増えた。マネージャーやスタイリストももちろんだが、共演した相手とフラットな立場で話せるようになった。前まではアイドルの、花霞の、という枕詞が千景について回った。それは誇りだと思っていたし、実際、今だって要らなかったとは思わない。だが、やはり、カメラが止まれば、人と人だ。人とアイドル、だったのが、ようやく、人と人になれた。それが嬉しい、と感じる日もあった。枕詞が取れなければ、知ることのなかった感情だ。
テレビ局の廊下は白い。白い廊下に、各番組のポスターが貼ってあって、その雑然さがプレーンな壁を彩る。MCを担当するお笑い芸人が大口を開けておどけているのがバラエティ番組のキービジュアル、不思議なヘアスタイルの少年がカードをこちらに向けているのが男児向け夕方アニメのキービジュアル、アナウンサーが一列に並んで拳を顔の横に持ってきているのが報道番組のキービジュアル。千景は最近、こういう廊下を歩くのが好きだと思えるようになった。所狭しとポスターが並ぶさまは、まるである種の美術館みたいで愉快だ。なにより、それぞれの番組に、出演者から制作会社までたくさんの人間が関わっているということがわかってきて、ようやくその面白みを感じられるようになってきたのだ。何もかもにいっぱいいっぱいで、自分にできることばかりを探していたあの頃とは、心の余裕が違う。たくさんの番組が壁一面に貼られている中で、時折、秋の改編を乗り越えられなかったそれもあって、千景はそのポスターが目に入るとキービジュアルに映る人間を抱き締めたくなった。終わってしまうというのは、何事にせよ、寂しいものだ。もう会えなくなったスタッフや不祥事に姿を消した出演者に思いを馳せ、千景は、ぐちゃぐちゃの壁をそおっと撫でながら歩く。
「佐々木千景さん入られます、よろしくお願いしまーす!」
ADの大きな声が響く。千景は、軽く頭を下げながら、扉を潜る。
煌びやかなセット。並ぶ著名人。待ち構えるMC席。照明。マイク。大勢のスタッフ。
「佐々木千景です、よろしくお願いします」
千景は、自分の中のスイッチを押す。
テレビという媒体に合わせた、女優でタレントの佐々木千景が、そこに明かりを灯した。
「解散の件ですけど」
犬飼が突然口を開く。千景はずれたマスクを直して、はい、と応える。犬飼は、こうやって別れ際にぽっと重要な話を始めるから、千景もそこそこ身構えて聞く態勢に入った。解散、というのは、つまりあれだろうか。
「佐々木さん側からはノーコメントでいきます。突撃取材とかがあるかもしれませんが、スルーで」
そう言いながら、犬飼は何かを手渡した。タクシーチケットだ。APさんから受け取ったのだろう、それにしてもこの話と並行でこれを渡してくる犬飼は、やっぱり特殊な感性の持ち主だと思う。効率化が癖になっているのだろうか。了解です、と千景は二つの話題に返答し、テレビ局を出る。
夜空を見上げて、千景は今日初めて、大きく息を吐いた。星は見えないが、大きな月が雲の隙間から顔を覗かせている。こういう、良くも悪くもない天気だと、仕事が終わった気がしない。たまにはきらきらの星空が見えたっていいのに、と思ってしまうが、星が見えない空の代名詞は東京とも言える。きらきらの星空が見たかったら、最初からこんな仕事などしていないのだ。千景は、自分を奮い立たせるため、履いたパンプスの爪先をコンクリートの地面で叩いた。さっさと地下駐車場まで急ごう。
千景が上京したのは十七歳の頃だった。花霞のオーディションに受かって、すぐに地元の岡山を出た。都会に憧れもあったし、田舎に嫌気も差していた。よくある話だと、自分でも思う。事務所に書類を送った時、両親にもクラスメイトにも誰にも言わなかった。受かるわけがないと思っていて、同時に、絶対に受かるとも思っていた。受からなかったら諦めて、三年生に上がったら東京の大学を目指そう、くらいに考えていた。だけど、もし、万が一受かったら、アイドルとして全力で頑張りたかった。目立ちはしないけど実はポテンシャルの高いメンバー、と呼ばれたかった。密やかに特技と自認している〝低音を活かした歌声〟を褒められたかった。この特徴的な声、それから背の高さで、新時代アイドルというような雑誌の見出しを書かれたかった。インタビューを受けて、私はこの声をあんまり気にしたことがないんですよ、と笑いながら答えたかった。冠番組ではMCを担当する芸人やタレントを凌駕するくらい、バランスを意識したトークを展開してみせたかった。アイドルという肩書きを背負いながら外番組にも出て、マルチなスキルで活躍する、なんてテロップを顔の下に出されてみたかった。そんなことばかり考えていたら、最終審査に自分の名前があった。審査通知のハガキが実家に送られてきた時、千景は焦った。両親は、こんなこと許すはずがない。母親が手に持ったそのハガキを引き裂いて、それで終わる。そう思っていたら、ハガキは目の前に静かに差し出された。行ってきなさいとだけ言われた。姉も父親も、何も言わなかった。当時は、その意図がわからなかった。今になってわかる。あれは、行って、玉砕して、諦めて帰ってきなさい、という意味だった。千景の家族は、あの目は、千景に期待などしていなかった。仕方がなかった。千景の通知表は、学力も協調性もそこに判を押されることがなかった。暗くて、不真面目で、全てを捨てて賭けたい夢も何もない生徒。そんなのは学校の八割を占めていたけれど、両親にとってはただ一人だ。姉は既に公務員試験に合格し市役所職員として収入を得ていた。期待しないというのは、愛だったのだと思う。娘が、アイドルなんて不確定な要素に塗れた職業で大衆の評価を得る未来を、盲目に信じられる親もなかなかいない。
だけどたぶん、千景は、注目を浴びられればなんでもよかった。
注目を浴びる、というよりも、厳密に言うならば、隠れた才能を掘り出されたかった。クラスの目立たないほうの女子、というイメージから抜け出したかった。好きなことを喋り始めたら達者で、頼まれたらノーと言えなくて、実はイラストも得意で、メイクもファッションも得意じゃないけど頑張っている。そういうところを、誰かに見つけてほしかった。そして、自分のアイデンティティとして、確立させてみせたかった。友達の作り方を知らなかったから、ファンが欲しかった。光に当たりたい、と、ほとんど無意識にそればかり考えていた。
SNSのアプリを開くと、たくさんのダイレクトメッセージ通知が千景を出迎えた。すべて、触れないようにそっと避けて、投稿画面まで行き着く。これがけっこう、神経を使う。間違っていちファンのメッセージに既読をつけてしまえば、あまつさえ返信などしてしまえば、なにかと話題になる。未だに千景をアイドルとして見ているファンは多いし、同じような見方で批判をしてくる人物、つまりアンチも多い。身体しか見えていないようなメッセージもあれば、遊び半分で送られてきたような意味不明なもの、それから共演者とこちらの関係を繋げてくださいといった――私利私欲を再翻訳したような――文言もある。もちろん、ヘアスタイルやファッションを褒めてくれるピュアなメッセージも、娘がファンなので一度地元に来てくださいといった要望もあるが、どれも反応はできない。佐々木千景対不特定多数、を、佐々木千景と数人対不特定多数、にしてしまうことになる。それは絶対にあってはならない。佐々木千景は佐々木千景でなくてはならない。
スイッチを押せば、部屋に明かりが灯る。真っ暗な夜景に別れを告げるようにカーテンを閉めて、ソファの真ん中に座る。テーブルの上のリモコンをおもむろに引っ掴んで、赤い電源ボタンに指を掛けた。
点いたテレビの中では、深夜帯のバラエティ番組が部屋に騒がしさを足してくれて、千景は思わずほっとした。名前も知らない芸人が、センターマイクの前に二人並んでいる。僕、好きな人がいるんですけどね。うん、うん。先日その人が僕にSNSのアカウントを教えてくれまして。おお、よかったな。彼女のアカウント名がね、まみママと言いまして。おい、アウトだろ。ローテンションながら間髪入れないツッコミに、千景は思わず、ふっ、と噴き出した。何がですか。アウトだろ、アカウント名でママは育児やってますアピールじゃねえか。いやいや、ママってのは単なるアカウント名ですから。あだ名って線もある、ってことか。それでね、直近の投稿が可愛いんですよ、お子が私の眼鏡を壊しました、ってね。アウトだろ。お子って呼び方はもう幸せ絶頂のママさんしかしねえだろ。低い声で畳みかけられるツッコミに、千景はくつくつと笑う。いやいや、同居人がいるってツイートしてましたから、お子って名前の女の子と同居してるんでしょう。あのなあ、息子が娘が、と素直に言わねえママさんはな、旦那のことも素直に呼ばず同居人って呼ぶんだよ。千景はとうとう声を上げて笑った。ワイプに映るベテラン芸人も、偏見がすぎるやろ、と小声でツッコむ。ワイプの隣のテロップを、千景の目が追い掛けた。この人たち、コンビ名はなんなんだろう。スリーポイント、か。このコンビ、前から知ってたって人いるのかな。SNSでなんか言ってみようかな。千景の指が投稿欄に引っ掛かった。
【スリーポイントさん、漫才初めて見たんですけど、面白い!】
そして、そこまで打ち込んだ指が、完全に止まった。
売名、媚び売ってる、アイドル崩れ、調子乗んな、ニワカ。そんな言葉が一斉にリプライに並んだ、気がした。投稿もしていない文章にリプライがつくわけもない。なのに、そのイメージが千景の指を止めた。
画面を繰って戻して、今度は検索欄に文字を打つ。スリーポイント。
【スリーポイント初めて見たけど面白いな】
【スリーポイントを地上波で見れる日が来るとはな、感動】
【いま、子供寝かせて、やっとテレビ点けたんですが……この、スリーポイントとかいう芸人、何なんですか? 育児する母親って存在を馬鹿にしているんですかね。そもそも、あなたたち男が寝かしつけもやってくれないから、こっちはこんな必死こいてやってるのに】
【えー! スリーポイントがテレビに出てる。めっちゃオモロいんだよ。ネタは性格悪いけど(笑)】
【スリーポイントとかいう芸人、不快。私は独身だけど、私の友達にも育児頑張ってる子いっぱいいるから、貶された感じがする】
【スリーポイントなんかテレビに出すなよ~! 面白いけど、全ネタ炎上必至なんだよ! 消えたらもったいないぜ……】
――ああ、セーフ。
千景は、胸を撫で下ろした。
――そうか、これが、面白くない人たちもいる。
テレビの中ではネタを終えたスリーポイントの二人が、ベテラン芸人に話を振られている。君ら、東京って感じやなあ。東京って感じ、って、なんですか! ネタの中ではローテンションを保っていたツッコミ担当の青年が、顔を顰めた。こう見ると、意外に若いんだな。周りのベテランに弄られている姿は、ネタ中よりもあどけなく可愛げがあるように見えた。
テレビの中では、誰も、不快になったなんて言わない。誰も貶されたなんて言わない。このネタが尖っているなんて誰も思っていない。でもやっぱり、スマホの中は別世界だ。そして、スマホの中こそが、みんなが住む世界。たぶん、別世界なのは、こっちなのだろう。
大御所タレントが去りつつあって、長寿番組も順に終わっていく中、テレビを担うのは芸人とアイドルだ、と前に佐藤が漏らしていたのを思い出す。バラエティ対応もできるアイドルが男女共に増えつつあり、三面鏡を筆頭に若手芸人の台頭が目立った近年、この二つを掛け合わせた企画は多かった。テレビ新時代到来、といったキャッチコピーと共に彼らは売り出されていた。だけど、はっきり言って、アイドル事務所も芸人それぞれ個人も、徐々にインターネット上の動画サイトや配信アプリを媒体としての進出を行いつつある。千景はノータッチだが、女優が単体で運営している配信チャンネルも少なくない。そんな中で、テレビに新時代が到来したとて見向きもしない若者は多い。
だが、その領域は触れやすい分、火傷もしやすい、と千景は思う。誰でもアイデンティティを誇示してそれを売りにして、職業にできる時代だ。千景が花霞のオーディションに受かった時、それ以外にアイデンティティを世間に誇示する方法はまだ、なかった。というか、とにかく茨の道だった。六年の間に、〝デカいことやれる〟の場所が、完全に移り変わった。でも、そこは未開の地だから、怪我をすると大変だ。なにせ、アピールも簡単だが、文句を言うのも簡単だ。貶して晒して笑い者にするのも、追及し追放し除け者にするのも、とにかく簡単。自分が気に入らないと思ったことに対して、理由をつけて大声で叫べる。そして、それが世間の声になる。千景からすると、この世のバグでしかなかった。異常作用。ハプニング。やりたいことやれる場所、は、言いたいこと言える場所、という認識に潰されつつある。だから、千景はその領域に触れなかった。SNSは番宣のための一言コメントだけ投下して閉じる。やりたいことをして、ボロを出せば――個々の考え方に対してそんな言い方になるのもおかしな話だ――、文字通り生命を絶たれる。それまでは世間の声とテレビの方向性は必ずしも合致しなかった。しかし、世間の声、と呼ばれるものが常にBGMとして流れているのが現代だ。無視もできない、かといって全面に押し出すには統合性がない。世界と切り離されたテレビという業界は、行き詰まっているのかもしれない。千景は、あんなに憧れた画面の向こうという世界を、そう分析するようになっていた。中堅芸人に背中を叩かれたスリーポイントが嬉しそうに舞台の端へ捌けていくのを、千景は眉を寄せながら見守った。偏見に塗れた彼らは、きっと正論に潰されていく。傷ついたという声に傷つけられる。自分たちの信じる面白いという概念を、芽から摘まれる。
だけど千景にはどうしようもなかった。
だって、逃げたから。
逃げて、今ここにいるから。
アイドルという、綺麗事に塗れた職業から、正論に潰されるのを恐れて逃げたから。
スマホをスリープモードに落として、テーブルに置き直す。
何も見ない。何も言わない。何も聞かない。そうしているしか、居場所を作る方法はない。
千景は誰に向けるわけでもなく、少しだけ微笑んだ。暗くなったスマホの画面に映った彼女の顔は、女優の顔だった。
「炎上は怖いですねえ」
話の流れで、何の気なしにそう言えば、佐藤が頭をぶんぶん振って頷いた。
「私も、昨日の深夜番組で面白い芸人さん見つけちゃったんですけど、サーチ掛けてみたらちょっとだけ燃えてて」
言い切るか言い切らないか、語尾にほぼ重なるくらいの速さで、佐藤がああ、と大きな声でわざとらしく叫んだ。ああ、あるある。めっちゃわかる。隣の楽屋まで聞こえているのではないかと、千景は少し心配になった。
「あるよねー、そういう時。面白いとか推したいとか言わなくてセーフ、って感じ」
「見てる時は、これ荒れるぞ~とか思わなかったんですよね。毒気はまあ、ありましたけど」
「ねー。あたしなんか、どんな雑誌とか漫画とか読んでても、これ燃えそうとか思うようになっちゃった」
佐藤は千景の髪の毛をくるくる巻いていきながら、鼻の穴を膨らませる。佐藤は表舞台に立つことはないから、千景のような人間とは置かれた立場が違う。だが、こうして表向きに〝芸能人〟と呼ばれる存在である千景と、対等な感覚で話したいのだろう。彼女は割といつでも、自意識過剰なきらいがある。千景は、佐藤の言葉に笑って相槌を打った。
「でもその辺に関して言うなら、千景ちゃんのバランス感覚は良いよねえ」
佐藤が耳の裏の近くまでヘアアイロンを近づけるので、千景は思わず、その熱に肩を竦めた。
「私がですか?」
「うん、ほら、やっぱアイドルやってただけあって、求められてるポジションを理解するのが早いっていうか」
身の程を弁えてるっていうかさ、と佐藤は続けた。
「芸人とか、コメンテーターとか、ミュージシャン、もちろん女優俳優もだけど、それって〝人気を獲得する〟のが目標じゃないじゃん。人を笑わせる、的確なコメントを返す、芸術面での才を発揮する、っていうのが、真の仕事で。人気はあくまで箔っていうかさ。だから、不倫とか差別発言とか、やっても仕事に関係ないじゃんって意見と、人としてありえないって意見がぶつかり合う」
でもさ。佐藤は千景の黒い髪に櫛を入れる。
「アイドルは、最初から人気商売でしょ。悪い意味じゃなくて。直訳すると偶像って言うじゃない、だからアイドルを極めた千景ちゃんは、〝大衆の求める存在〟になり得る、みたいな」
佐藤がヘアアイロンを目の前に置いた。
偶像。
その言葉に、千景は僅かに目を伏せる。
確かに、アイドルという言葉の意味は偶像だと、聞いたことがある。
千景は、心のどこかで、やっぱり、と思う自分がいることに気がついた。
芸能界という、このクローズドな世界で、アイドルと言う職業は特殊なものだ。アーティストよりもタレントよりも、立つ土俵が違う。それは、女優になって初めてわかった。
愛嬌を武器とするアイドルがやって許されることは、才能を武器とする〝芸能人〟がやるならば許されない。そしてその逆も然り、だ。
アイドルが求められる場所は、センターマイクの前でも、大規模なオーケストラの前でも、絢爛に飾られた舞台セットの前でもない。ファンの前、だ。アイドルは、ファンがいて、ファンの求める偶像があって初めてアイドルになる。だから、偶像から人物が少しでも外れた時、ビジネスは崩壊する。職業として半人前、ということになる。
千景にとってみれば、そんなの当たり前だった。それをわかって、その偶像になるために、目立たない自分を殺してみんなが求める自分を生み出すために、オーディションに参加した。ただ、みんながみんな、そんな認識であの場に立ってはいなかったのだ。
――もう、無理だよ。
佑果の声が過ぎる。悲痛な叫びだった。
――千景ちゃんがいなくなって、一人でみんな抱えろなんて、私、無理だよ。
――千景ちゃんはアイドルだけど、私は、ただの女の子だよ。
――辞めたい。早く、自分を取り戻したい。
ぎゅっ、と目を瞑る。ごめん、ごめんね佑果。だって、私は逃げたから。
売名、媚び売ってる、アイドル崩れ、調子乗んな、ニワカ。文字が瞼の裏を駆け巡って、揉み消すように奥歯を噛み締めた。
アイドルでいたかった。ファンの前で、彼らの夢を叶えたかった。誰かの求める自分になりたかった。
アイドルなんか、もう耐えられなかった。ファン以外には、滑稽な幻覚でしかなかった。外の世界に顔を出すたび、お前なんか求めてないと言われた。
――千景ちゃん。
――来週ね、花霞、解散するんだ。
佑果の声。
――だからね、私、辞める。
――私はね。
――これ以上、花霞に自分を殺されたくない。
ブログに書かれた、〝引退します〟の五文字が、浮かび上がってくる。
頼れるキャプテン。スタイル抜群。声が格好良い。美人。付き合いたい。綺麗。メイク上手い。ファッションセンスある。実はポテンシャルが高い。バラエティ適正あり。外番組でもグイグイいける。仲間想い。優しい。
お荷物。デカくて怖い。パフォーマンス微妙。センターの器じゃない。顔がきつい。老けてる。自意識過剰。失礼。やることなすこと全部中途半端。偽善者。自己犠牲的。自分のこと有能と勘違いしてそう。真面目すぎ。
投げ掛けられる言葉たちが、千景の頬を、腕を、腹を、足を、全身を伝っていった。あれも、これも、偶像。
千景は、鏡から目を逸らしたまま立ち上がった。佐藤が、いってらっしゃいと手を振る。犬飼が気づいてドアを開けようとするが、千景は無視して自らドアノブを握った。
「佐々木さん」
犬飼が速足でついてくる。千景は、自分の歩幅が大きくなっていることに気づいた。
「犬飼さん」
「はい」
「アイドルとは、偶像だと思いますか」
犬飼は少しだけ眉を寄せた。こんなわかりやすい、疑問、という表情は、初めて見たかもしれない。
「言葉の原義からして、そうなのではないかと」
「じゃあ、アイドルは、求められたことを遂行するのが、正しい在り方ですよね」
歩きながら、千景は廊下の壁に手を触れた。ここはテレビ局と違って、真っ白な壁がただ続いている。
「ええ。アイドルだけは、そうだと思います」
しかし、と犬飼が眼鏡を直す。大きな手で、親指と薬指で眼鏡を挟み込むのも、どうやら彼の癖らしい。
「昨今はSNS文化の発展で、他の職業にもコンプライアンスを意識する目線が向けられることは多いです。自分たちの好ましい形に収まれ、という飛躍した意見が飛び交うことも少なくないですし」
「さっきの楽屋での話、聞いてましたよね」
「ええ。ですけどね、アイドルだけはそれがまかり通る業界なんですよ。何十年も前から」
犬飼は、千景の追及を無視して話を進めていく。
「これを、アイドルという職業が狂っていると捉えるか、はたまた芸能界そのものがアイドル化し始めていると考えるかは個人に拠りますが」
僕としては、と、また眼鏡を直した。
「所詮、何もかも偶像なんですよね」
その言葉に、千景は足を止めた。
犬飼は、彼女の半歩後ろで同じように動きを止める。
「パレイドリア効果という言葉がありますよね。壁の染みが顔に見えるだの、天井の模様が虫に見えるだの。そういうものだと思うんです」
「……それは、つまり?」
「芸人のネタが私を侮辱しているように感じる、歌手の曲がある人種への差別に聞こえる、この服は太った人が着られないから酷い、この寿司はアレンジが加えられすぎていて魚に対する感謝を感じられない、とか。そう思ってるから、そう見えるんですよね。こんな私は侮辱されているかも、こういう人種は差別されているかも、と」
犬飼は淡々と述べる。まるで、用意されていた陳述のようだ。
「例えば、学校の中でいじめがあったとするじゃないですか。それに対して、教室という箱の外から、いじめなんて酷い、許し難い、いじめっ子なんか死んでしまえ、と言う人は、いじめに加担した経験がないんだと思います。いじめっ子グループにいたことがない。まあ、まったくもって悪いことじゃないですが、これは経験不足と言い換えてもいい」
犬飼が掛けている眼鏡のレンズが、光を反射して千景の顔を映した。
「あるものが壊れたとして、それが好きだった人は悲しむし、嫌いだった人は喜ぶ。ちょっと気になってた人からすると残念で、どっちでもなかった人からするとどうでもいい。だけど、それを取り上げたニュースに、どうでもいい、とわざわざコメントするのは、経験不足が招く争いの種なんですよ」
「好きだったけど嫌いになった、とかは」
「好きな人より嫌いな人より、それに対して深い話ができると思います」
人差し指を立て、犬飼が僅かに息を吸う。
「文句を言うっていうのは、至極簡単な行為でもありますが、ある経験を積むと途端に難しくなるんですよ」
「経験、っていうのは」
「多数の視点を得るってことが、みんな不可能だから。僕は佐々木さんにはなれないから、佐々木さんが突然僕を殴ってきたら怒ります。でも、佐々木さんからすると殴る理由があったと。だとしても、僕は怒りますよ。殴られているんですから」
その例えは、ちょっとどうなんですかね。千景が首を傾げると、犬飼は、その小さな口をもごもごとさせる。伝え方に戸惑っている、らしい。どうやら先程までの返答は、佐藤と千景の会話を聞きながらずっと考えていたのだろう、と千景は察した。
「まあ、その、なんですかね。文句とかは、何やってても言われるんだと思います。でも、佐々木さんに文句を言う人は、たぶんアイドルでも女優でもないんで、その辺は安心してほしい、というか」
「ちょっと待ってください。話がずれてます。アイドルって偶像かどうか、の話だったじゃないですか」
「まあ、それは、はい」
犬飼の歯切れがどんどん悪くなる。
「アイドルは偶像ですよ。でも、今となっちゃ何もかも偶像だと思うんです。だから、誰もが誰かの理想形でないといけない。これはけっこう、異常事態です」
そう言いながら、犬飼はまた眼鏡を直す。その手が震えていて、ああ、なるほど、と千景はあることを理解した。
彼は、今の千景を元気づけようと画策しているのだ。
「じゃあ、その、求められたことを遂行できなければ、それはアイドルじゃないんですかね」
「アイドル以外の職業であれば言い訳ができますが、それももうじき、でしょうね。正しくないというのは、それだけで」
「……女優も?」
「ええ、あなたは、いつでも誰かの幻覚です、だから、」
――無理と思うなら、今この立場を降りるしかありません。
犬飼は、小さく下唇を噛んだ。彼の、こんな悔しそうな顔は――やっぱり、初めて見た。




