第2話 十年前の朝
「――お嬢様!」
誰かの声が聞こえた。
「お嬢様、起きてください!」
私は目を開けた。
「……え?」
見慣れた天井。
白いカーテン。
窓から差し込む朝の光。
私はゆっくりと身体を起こした。
「ここは……」
部屋を見回す。
見覚えがある。
でも。
ありえない。
「お嬢様?」
目の前にいたのは、侍女のマリーだった。
「マリー……?」
「はい?」
マリーは不思議そうな顔をする。
「どうなさいました?」
私は震える手を伸ばした。
マリーの頬に触れる。
温かい。
「……生きてる」
「え?」
私はベッドから飛び降りた。
鏡の前へ走る。
そこに映っていたのは――
二十五歳の私ではなかった。
長い茶色の髪。
まだ幼さの残る顔。
そして。
十年前と同じ、十五歳の私。
「……嘘」
鏡に手をつく。
「そんな……」
夢なのだろうか。
そう思って頬をつねった。
痛い。
「痛っ……」
夢じゃない。
「お嬢様?」
マリーが心配そうに近づいてくる。
「どうして……」
私は呟いた。
「どうして私、十五歳なの……?」
マリーは首を傾げた。
「何をおっしゃっているんですか?」
そして。
何気なくカレンダーを指差した。
「今日は王太子殿下との婚約が正式に決まる日ですよ」
「……!」
心臓が止まりそうになった。
今日。
この日だった。
十年前。
私が初めて王太子と婚約した日。
前の人生では。
この日からすべてが始まった。
私は彼を愛した。
彼を信じた。
そして十年後。
彼に殺された。
「……殿下が?」
「はい。もうすぐ迎えが来ると思います」
マリーが微笑む。
「おめでとうございます、お嬢様」
「……」
私は答えられなかった。
怖かった。
あの日の記憶が、鮮明に蘇る。
処刑台。
雨。
冷たい視線。
「君を信じていた」
そう言った彼。
そして。
「すまない」
私を見捨てた。
「……殿下」
気づけば、私は拳を握りしめていた。
今度は。
絶対に騙されない。
昼前。
玄関から馬車の音が聞こえた。
私は父と母に連れられ、応接室へ向かった。
扉が開く。
「失礼します」
そこに立っていたのは。
十五歳の王太子――レオンハルト。
まだ少年の面影を残している。
前の人生では。
この顔を見るだけで嬉しくなった。
けれど。
今は違う。
「……アリア」
名前を呼ばれただけで、身体が強張った。
「どうした?」
レオンハルトが近づいてくる。
私は一歩下がった。
「……いえ」
「顔色が悪い」
「大丈夫です」
笑わなければ。
前の人生と違う行動をしたら、何かが変わってしまうかもしれない。
だから。
私は笑った。
「お久しぶりです、殿下」
「……?」
彼が首を傾げる。
「昨日会ったばかりだろう」
「あ……」
しまった。
私は慌てて笑い直した。
「そうでしたね」
けれど。
彼は私をじっと見ていた。
「……変だな」
「え?」
「君、昨日までとは何か違う」
胸が跳ねた。
まさか。
記憶がある?
そんなはずはない。
私は視線を逸らした。
「気のせいです」
「そうか?」
彼は納得していない様子だった。
そのとき。
父が口を開いた。
「殿下。本日は婚約の件について――」
「待ってください」
私は父の言葉を遮った。
全員が私を見る。
「……どうした、アリア?」
私は考えた。
前の人生では。
ここで何も言わなかった。
王太子との婚約を喜び。
そのまま受け入れた。
でも。
今の私は知っている。
十年後。
この婚約が私を処刑台へ連れていく。
「婚約について、一つお願いがあります」
「何だ?」
私は王太子を見る。
「私に、自由に調べる権利をください」
「調べる?」
「はい」
私は微笑んだ。
「この国で起きる事件について、私自身が調べることを許してほしいのです」
王太子は少し考えた。
そして。
「分かった」
意外な答えだった。
「好きにすればいい」
「……ありがとうございます」
その瞬間。
彼が小さく笑った。
「でも、一つだけ」
「?」
「君が危険な場所へ行くときは、私も一緒に行く」
「……どうして?」
王太子は不思議そうな顔をした。
「婚約者だからだろう?」
胸が痛んだ。
前の人生でも。
彼はそう言っていた。
私はそれを信じていた。
だから。
もう一度、彼を見る。
そして気づいた。
彼の手が震えている。
「……殿下?」
「何でもない」
彼は手を隠した。
その瞬間。
私の頭に、前の人生にはなかった記憶がよぎった。
――処刑される三日前。
王太子が誰かと口論していた。
あのときは気にも留めなかった。
でも。
今思えば。
彼は言っていた。
「アリアには手を出すな」
「彼女を巻き込むな!」
私は目を見開いた。
「……まさか」
前の人生。
私は王太子が私を裏切ったと思っていた。
でも。
もし。
あのとき彼もまた――
誰かに脅されていたのだとしたら?
「アリア?」
王太子の声で我に返る。
「大丈夫か?」
「……はい」
私は笑った。
けれど。
心の中では、別のことを考えていた。
前の人生と。
何かが違う。
そして。
その日の夜。
自室に戻った私は、机の上に置かれた一通の手紙に気づいた。
「……手紙?」
差出人は書かれていない。
封筒だけが置かれている。
私は慎重に開いた。
中には一枚の紙。
そこには――
こう書かれていた。
『アリア・フォン・ベルクへ』
『あなたが二度目の人生を始めたことを、私は知っています』
「……!」
手が震える。
『十年前に戻ったのは、あなただけではありません』
私は息を止めた。
そして。
最後の一文を読んだ。
『あなたを殺した男も、十年前に戻っています』
「……嘘」
私は立ち上がった。
誰が?
王太子?
親友?
父?
それとも――
あの処刑台で私に刃を向けた人物?
窓の外。
月明かりの下に、一人の人影が立っていた。
私は息を呑む。
その人物が、こちらを見上げる。
そして。
口元だけで笑った。
「……アリア」
その声を聞いた瞬間。
私は凍りついた。
聞き間違えるはずがない。
十年後。
私を殺した人物の声だった。




