第5話
服を買った店を出る頃には、空の色が変わり始めていた。
先ほどまで街を照らしていた太陽は西へ傾き、建物の影が石畳の上へ長く伸びている。
通りにはまだ人が多い。
仕事を終えて家へ帰る者、店先で最後の買い物をする者、家族と歩く者。
教団の中で暮らしていた頃には、見ることのなかった光景だった。
サクヤは歩きながら、そんな人々を静かに眺めらていた。
「そろそろ宿を探そう」
エリアスが言った。
「宿?」
「ああ。今日はここで休む」
エリアスが通りの先へ目を向ける。
そこには二階建ての建物があった。大きくもなければ、立派でもない。
けれど、窓からは暖かな明かりが漏れている。
入り口には木製の看板が掛けられていた。
「ここにしよう」
二人で中へ入る。
扉を開けると、受付の奥には食堂があった。
何人かの旅人が食事をしている。
肉の焼ける匂いと、食器の触れ合う音、誰かの笑い声。
サクヤは足を止めることなく、その光景を眺めた。
ここでは誰も、彼女を「器」と呼ばない。
神を降ろすために育てられた少女を見る者もいない。
ただの旅人として、そこにいる。
「いらっしゃいませ」
受付の女性が顔を上げた。
「二人なんだけど、部屋は空いてる?」
「はい。二人部屋なら一つ空いております」
「じゃあ、それを」
「一泊、銀貨二枚になります」
エリアスが財布を取り出した。銀貨が二枚、受付の台に置かれる。
サクヤはその硬貨へ視線を落とした。
「……銀貨二枚」
「そう」
「これで一泊?」
「ああ」
サクヤは銀貨を見つめた、貨幣についての知識はある。
銅貨より銀貨が上で、銀貨より金貨が上。
それくらいなら知っていた。けれど、実際に使った経験はない。
銀貨一枚が何を買えるのか。
パンがいくつ買えるのか。
宿に泊まることがどれほどの出費なのか。
そういった感覚は、彼女の中には存在していなかった。
「高い?」
「普通だよ」
「そう」
それでもサクヤは少し考えた。
「銀貨一枚なら?」
「物によるけど、パンなら結構買えるね」
「なら、宿よりパンを買った方がいいのでは?」
エリアスが一瞬だけ黙った。
「そうしたら、今夜どこで寝るんだい?」
「……宿」
「その宿に泊まるために、お金を払うんだよ」
サクヤは少し考えてから頷いた。
「なるほど」
理解は早かった。
知らないだけで、分からないわけではない。
これまで必要がなかった。それだけだった。
エリアスが受付から鍵を受け取る。
「二階の奥です」
「ありがとう」
二人は階段を上がった。
廊下を進み、部屋の扉を開ける。
そこにはベッドが二つ並んでいた。
小さな机、二脚の椅子、そして窓。
必要最低限のものしかない。
サクヤは部屋へ入ると、真っ先にベッドへ目を向けた。
「……」
しばらく眺めているとエリアスはサクヤに気づき声をかける。
「どうした?」
「随分、小さいベッドなのね」
「普通だと思うけど」
「屋敷のものよりずっと小さい」
「君の屋敷のベッドが大きかったんだよ」
サクヤは片方のベッドへ腰を下ろした。
身体が柔らかな寝具へ沈む、寝心地は悪くない。
ただ、屋敷で使っていたものとは比べ物にならなかった。
あの寝台は、横になっても随分と余裕があった。
一人で使うには、明らかに大きすぎるほどに。
「一人で寝るには、これで十分?」
「十分だよ」
「そう」
サクヤはベッドから立ち上がった。
部屋をもう一度見回す。
質素だ、屋敷とは比べ物にならない。
それなのに、不思議と落ち着いた。
ここでは、何かを求められることがない。
決められた時間に起きろとも言われない。
決められた服を着ろとも言われない。
ただ、眠るための部屋がある。
「明日は旅の道具を揃えよう」
エリアスが荷物を整理しながら言った。
「何が必要?」
「水筒、食料、毛布。薬もあった方がいい。雨具も必要だね。それから火を起こす道具も」
「多い、わね」
「旅をするなら、それくらいは必要だよ」
サクヤは頷いた。
「服は?」
「今日買ったものがあるだろう?」
「それだけでいい?」
「いいや、着替えは必要だよ」
「……そう」
サクヤは自分の服を見る。
今日初めて、自分で選んだ服だった。
それを眺めて、少しだけ考える。
「では、明日も選ぶ」
「そうしようか」
エリアスが笑った。
サクヤは窓の外へ目を向ける。
すっかり夜になった街には、いくつもの明かりが灯っていた。
昼間とは違う顔をしている。
それでも、人々は歩いている。
店はまだ開いている、誰かが笑っている、誰かが家へ帰っている。
世界は、夜になっても止まらない。
「エリアス」
「ん?」
「お金について、もう少し教えて」
「いいよ」
エリアスは椅子へ腰を下ろした。
銅貨、銀貨、金貨。
それぞれの価値。
食事に必要な金額。
宿に泊まるための金額。
旅をするなら、どれくらいのお金が必要になるのか。
サクヤは一つずつ聞きながら覚えていった。
知らなかった。
けれど、知ることはできる。
今まで知らされなかっただけなのだから。
「……分かった」
エリアスは立ち上がった。
「今日はもう休もう」
「分かった」
サクヤはベッドへ横になった。
少し小さい。けれど、眠るには十分だった。
目を閉じる。
今日一日で、知らないことをいくつも知った。
宿、お金、買い物、旅。
どれも言葉としては知っていた。
けれど、実際に触れてみなければ分からないことがある。
これからは、そういうものを一つずつ知っていけばいい。
誰かに決められた世界ではなく。
自分の目で見て、自分で選ぶ世界を。
サクヤは静かに目を閉じた。




