第3話
「……う、」
瞼が重い、身体が酷く怠かった。
サクヤはゆっくりと目を開けた。
最初に目に入ったのは、赤だった。
床
壁
自分の服
視界のどこを見ても、血がある。
鼻につく鉄の臭い。
「……何、これ」
身体を起こそうとすると、腹部に激痛が走る、
「っ……」
思わず手を当てる。
そこには、先ほどまで確かにナイフが刺さっていたはずだった。
傷は残っている。
けれど、致命傷だったはずの傷が、奇妙なほど塞がり始めていた。
「……?」
何が起きているのか。
考えようとした、その時。
「おや」
男の声がした。
サクヤが顔を上げる。
少し離れたところに、見知らぬ男がいた。
白い髪、旅人のような格好。
この惨状には似つかわしくないほど、気の抜けた顔をしている。
男は座ったまま、こちらに向かって手を振った。
「おはよう、お嬢さん」
「……あなた誰」
「んー」
男は少し考えるように顎へ手を当てた。
「今は君の仲間、とだけ言っておこうかな」
「……仲間?」
「その証拠に、ほら」
男は立ち上がる。
そして、近くで辛うじて息をしていた教団員の一人へ近づくと――
ドンッ。
容赦なく蹴り倒した。
「……」
サクヤは無言で男を見る。
「君が話を聞きやすいように、縛っておいたよ」
見ると、残っていた教団員たちは全員、手足を縛られていた。
「……そう」
サクヤは男から視線を外した。
そして、ふらつきながら立ち上がる。
向かった先は、教団員たちだった。
その中に――
見慣れた男がいた。
「……」
父、そう呼んでいた男。
いつも自分に優しく声をかけてくれた。
食事を用意してくれた。
眠る前には「おやすみ」と言ってくれた。
ずっと、父親だと思っていた。
サクヤは男の前にしゃがみ込む。
そして、その髪を掴んだ。
「……っ」
無理やり顔を上げさせる。
男の顔は恐怖に歪んでいた。
「私を刺す前」
サクヤは静かに言う。
「買った、と言っていたわね」
「……」
「どういう意味?」
男は答えない。
サクヤは髪を掴む手に少しだけ力を込める。
「答えて」
「……お前は」
男は震えながら口を開く。
「お前は……教団が買った子供だ」
「……」
「神の器にするために……お前の両親から……」
そこまで聞いて、サクヤの表情が止まった。
「両親?」
「……スラムの人間だ」
「……」
「お前を買った。金を渡してな」
サクヤは何も言わなかった。
ただ、男を見つめている。
「ここは……神の器を育てるための施設だ」
「施設……?」
「ああ」
男の声は震えていた。
「お前を育てたのも、教育したのも、全部……儀式のためだ」
「……そう」
驚きは、不思議なほどなかった。
いや、驚いているはずなのに、それをどう表せばいいのか分からなかった。
父親だと思っていた。母親だと思っていた。
けれど――
最初から違った。
ただ、それだけの話だった。
「……母も?」
初めて、声が僅かに揺れた。
「……ああ」
その一言で十分だった。
サクヤは男の髪から手を離す。
「そう」
立ち上がり、近くに落ちていたナイフを拾う。
男が目を見開いた。
「ま、待て……!」
サクヤは振り返らない。
一閃――
赤いものが飛び散った。
男の身体から力が抜ける。
再び、静寂が訪れた。
サクヤは手にしたナイフを見つめる。
不思議だった。
悲しいのか、怒っているのか、それすら分からない。
その時男が、口を開いた。
「君は、これからどうするんだい?」
サクヤは男を見る。
「……分かんない」
「そうか」
「でも」
サクヤはナイフを握り直した。
「殺してやりたい」
「誰を?」
「……みんな」
赤い瞳が、男を見る。
「この儀式に関わった奴」
「……」
「この教団に関わった奴」
一人残らず。
「みんな殺してやりたい」
男は少しだけ黙った。
やがて、軽い笑みを浮かべた。
「なら、私と一緒に行こう」
「は?」
サクヤの眉が僅かに動く。
「なんであんたと?関係ないじゃん」
「いやいや、関係はあるさ」
男は肩を竦めた。
「私は旅人でね」
「それに、君は子供だろう?」
「……子供じゃないわ」
「そう言っても、世間から見れば十分子供だよ」
「……」
「大人が一人いた方が、何かと便利なんじゃないか?」
サクヤは黙り込んで、考える。
確かに、自分は何も知らない。
この場所の外も。
何をどうすればいいのかも。
けれど、この男が信用できるかと言われれば、それも分からない。
しばらく思考した後。
サクヤは小さく頷いた。
「……分かった」
「よし。それじゃ決定だ」
男は、にっこりと笑った。
「……名前」
「ん?」
「あんたの名前」
旅をするなら名前を知っていた方がいい、とサクヤは口を開く
「あぁ、なるほど。私の名前はエリアスさ。」
「……そう、私はサクヤ」
「じゃあ、改めてよろしく。サクヤ」
それ以上、サクヤは口を開かなかった。
男が先に歩き出す。
サクヤも、その後をついていく。
儀式場の出口へ向かう。
石畳の道、その先には、屋敷へと続く扉がある。
あと少しで、ここを出る。そう思った時だった。
サクヤは、ふと足を止めた。
「……?」
男が振り返る。
「どうした?」
サクヤは答えない。
ただ、自分の髪に触れた。
腰まで伸びた長い髪。
この屋敷で過ごした年月と同じだけ、伸び続けた髪。
それを一房、手に取る。
そして――
ザクリ。
ナイフを入れた。
束になった髪が、石畳へ落ちる。
「……は?」
男が目を丸くする。
サクヤは、もう一度髪へナイフを入れた。
ザクリ。
また髪が落ちる。
長かった髪は、肩の辺りまで短くなっていた。
「なんで、髪を切ったんだ?」
男の問いに、サクヤは落ちた髪を見つめる。
そして、屋敷へ続く道を一度だけ振り返った。
「……決別」
「決別?」
「ここでの私と」
サクヤは髪からナイフを離す。
「ここにいた私とは、もう違う」
そう言って、前を向く。
屋敷へ戻る。
けれど、もう振り返らない。
扉を抜けると、見慣れた屋敷が視界に入る。
いつもなら安心するはずだった場所。
けれど今は、ただ檻にしか見えなかった。
サクヤはそのまま歩き続けた。
そして――
屋敷の外へ出た。
冷たい夜風が、短くなった髪を揺らす。
エリアスが隣に並ぶ。
「……行こうか」
「……ええ」
二人は歩き出した。
少女はその日、初めて自分の足で世界へ出たのだった。




