第2話
その夜も、何も変わらなかった。
サクヤはいつものように、自分の部屋にいた。
大きな窓、重厚な家具、整えられた寝具、壁に掛けられた絵画、何不自由のない部屋。
少なくとも、サクヤはそう思っていた。
この屋敷の外を知らない彼女にとって、ここが世界のすべてだった。寝台に腰を下ろし、眠ろうとした、その時。
――コン、コン。
扉が二度、叩かれた。
「……?」
こんな時間に誰だろう。サクヤは立ち上がり、扉へ向かう。
鍵を外し、ゆっくりと扉を開ける。
そこに立っていたのは、母だった。
「サクヤ」
「なに?」
「これから行くところがあるわ」
母はそれだけ言った。
「……こんな時間に?」
「早く」
返事を待つことなく、母は背を向ける。
サクヤは少しだけ首を傾げた。
いつもと違う、何が違うのかは分からない。
けれど、何かがおかしい。
それでも、サクヤは母の後を追って歩く。
いつもなら、何かしらの会話があるはずなのだが。
今日はない、母は一言も喋らない。
「……どこへ行くの?」
返事はない。
「ねえ」
母は歩き続ける、母の歩幅に合わせるようサクヤも歩く。
しかし、母の歩く速度は速かった。
「痛いよ」
手を引かれている腕が痛む。
それでも止まってくれない。
「もう少しゆっくり歩いて」
返事はなかった。
やがて、見慣れない場所へと入っていく。
屋敷の中には、サクヤが知らない場所がいくつもある。
けれど、ここは違った。
床が変わっている。、整えられた屋敷の床ではない。
冷たい石畳。
「……ここ、どこ?」
母は答えない。
石畳の道は、屋敷の奥へ奥へと続いていた。
そして、その先にあったのは――
教会に似ている、古びた建物だった。
けれど、サクヤがいつも見ている教会とは違う。
壁は崩れ、柱はひび割れ、長い間使われていないように見える。
その中央には、一つの石の台があった。
まるで、寝台のような形をしている。
「サクヤ」
母が初めて足を止めた。
「ここに」
「……え?」
「そこに横になりなさい」
サクヤは動かなかった。
「なんで?」
答えはない。
「嫌」
初めて、はっきりと拒絶した。理由は分からない。
けれど、ここには何か嫌なものがある。
一歩、後ろへ下がる。
その瞬間だった。
「押さえろ!」
背後から腕を掴まれた。
「え……?」
別の誰かが肩を押さえる。
サクヤは初めて、自分が囲まれていることに気付いた。
「なにするの!」
身体を捩る。
「離して!」
「暴れるな!」
「やめて!」
何人もの腕が自分を押さえつける。
怖い。
痛い。
どうして。
何が起きているのか分からない。
「お母さん!」
母を見る。
いつもなら、そこにいるはずだった。
自分を守ってくれるはずだった。
けれど――
母は何も言わない。
ただ、こちらを見ている。
「お母さん……?」
その目は、いつもの母の目ではなかった。
いや、もしかしたら、今まで一度も、あの目が「母親の目」だったことなどなかったのかもしれない。
「離してよ!」
必死に身体を動かす。
「痛いよ!」
「抵抗するな!」
「嫌!」
「大人しくしろ!」
そして、教団員の一人が吐き捨てるように言った。
「お前をこのために買ったんだ、言うことを聞け!」
――え?
時間が止まった。
何を言っているのか、分からない。
「……買った?」
その言葉だけが、頭の中で繰り返される。
買った。
誰が。
私を?
何のために?
考えようとする。
けれど、その思考を遮るように――腹部に、激痛が走った。
「――ッ!」
息が止まる。、何が起きたのか分からない。
ただ、身体の奥から熱いものが込み上げてくる。
ゆっくりと視線を下げる。
そこには、ナイフがあった。
自分の腹に、深々と突き刺さっている。
「……あ」
ようやく理解した。
私は、刺されたんだ。
赤いものが、服を染めていく。
力が抜ける。
周囲の声が遠ざかっていく、誰かが何かを叫んでいる。
母も何かを言っている、けれど、もう聞こえない。
身体が冷たい。
視界が暗くなる。
そして――
サクヤは、意識を手放した。
………
何もない。
上下もない。
光もない。
ただ、どこまでも続く暗闇。
サクヤは、その中に立っていた。
「……ここは?」
声が響く。
自分の声なのに、どこか遠くに聞こえた。
その時。
「力が欲しいか」
知らない声がした。
サクヤは振り返る。
そこには、一人の男がいた。
「……誰よ」
「お前の世界で言う、神とかいうやつだ」
「神……?」
サクヤは男を見る、不思議と恐怖はなかった。
もう、何も怖くなかった。
家族だと思っていたものも。
自分のいた世界も、今まで信じていたものも。
全部、壊れた。
「力が欲しいか」
もう一度、男が問う。
サクヤは俯いた。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
「……もう、誰でもいい」
声が震えていた。
「アイツらを殺せるなら」
一歩、踏み出す。
「なんだっていい!」
その瞬間。
男が笑った。
「――ックハハハ!」
暗闇に、その笑い声が響く。
「面白い!」
男の目が、鋭く光る。
「気に入ったぞ」
「……何が?」
「お前の眼だ」
男は、サクヤの瞳を見つめる。
「そこに宿っている」
燃え上がるような何かを。
「復讐の炎がな!」
男は楽しそうに笑う。
「お前に、俺の力の一部を与える」
「……私に?」
「ああ」
男は手を差し出した。
「好きに使え」
サクヤは、その手を見る。
そして――
握った。
瞬間。
世界が震えた。
何かが身体の中へ流れ込んでくる。
熱い。けれど、不思議と嫌ではない。
むしろ――
身体の奥にあった何かが、目を覚ましていくようだった。
「まあ、今回だけは――」
男が笑う。
「使い方を見せてやる」
――現実。
血に濡れた石畳、動かなくなった身体。
それでも、少女は立ち上がる。
ゆっくりと、まるで何かに引かれるように。
身体が浮かび上がる。
教団員たちがざわめく、少女の瞳から、光が消える。
表情も消える。
ただ、唇だけが動いた。
「神器展開……」
空間が歪む。
一振り。
二振り。
三振り。
無数の刀が、少女の周囲へ現れる。
教団員たちが、恐怖に顔を歪めた。
少女は静かに告げる。
「……一斉掃射」
次の瞬間。
世界が、刃に埋め尽くされた。




