第98話:『裏切りの後衛と、リーダーの絶対命令』
王都の地下深くに広がる大迷宮。
熟練の冒険者であっても、足を踏み入れることすら躊躇する深層の最奥。そこに、歴史上数えるほどしか到達した者のいない未踏の領域『真層』へと続く、巨大で重厚な扉がそびえ立っていた。
「……よし。ここから先は未知の領域だ。隊列を組むよ」
ヘンドリックは真剣な面持ちで、パーティーメンバーに向かって指示を出し始めた。
「ブラムとサンネが前衛。俺は真ん中で、索敵と支援に徹する。ロッテとエリーゼは後衛で、魔法と回復のカバーをお願い。そして王女殿下は一番安全な俺の後ろに……」
ギュッ。
ヘンドリックが言い終わる前に、王女が当たり前のような顔をして、彼の右腕にぴったりと絡みついた。
その豊満な胸の感触が、腕越しにダイレクトに伝わってくる。
「……王女殿下? 近すぎます。というか、歩けません」
「何を言うか。真層は恐ろしい場所じゃと聞く。わらわはそなたから、片時も離れぬぞ」
「いやいや、危ないですから。それに俺は、パーティーメンバーとは一定の距離を保つって決めてるんです。いくら王族でも、迷宮の中ではルールを守って……」
「ふふっ。何を言うかと思えば」
王女は腕に絡みついたまま、勝ち誇ったような艶やかな笑みを浮かべた。
「わらわは『神創の覇星』の時から数えても、そなたのパーティーのメンバーになったことなど一度もないぞ? わらわはあくまで『依頼主』であり『護衛対象』じゃ。つまり、そなたのその変なポリシーは、わらわには一切適用されぬ!」
「……えっ?」
完璧な屁理屈だった。
ヘンドリックは自分の防御壁のバグを突かれ、思考が停止した。
「ほ、ほら、エリーゼ! サンネ! ミラ! 殿下を引き剥がしてくれないかな! これじゃ前衛に出られないし、危ないから!」
慌てていつものようにヒロインたちに助けを求めるヘンドリック。
いつもなら「王女殿下! 抜け駆けはずるいですわ!」と激しい火花が散るはずの場面だ。
しかし。
「……」
エリーゼは、なぜか扇子で口元を隠し、明後日の方向を見つめていた。
(……ごめんなさい、ヘンドリック。でも、王女殿下から提示された世界樹の根の構造図……私にはどうしても必要なのですわ……!)
「……んんっ」
サンネも、不自然な咳払いをして視線をそらす。
(……許してくれ旦那様。実家の再興と父上の領地拡大という条件、騎士としてどうしても蹴れなかったのだ……!)
「……ぴゅ~、ぴゅぴゅ~♪」
ミラに至っては、耳をペタンと伏せて、下手くそな口笛を吹いてごまかしている。
(……同盟の件、親父がすっごく喜んでたんだゾ。ごめんなんだゾ、ボス……!)
王女による事前の「完璧な根回し(買収)」が行われていたことなど、ヘンドリックが知る由もない。
「えっ……お前ら、どうしたの!? なんで今日に限ってそんなに大人しいの!? 具合でも悪いの!?」
完全に状況が理解できず、ヘンドリックは最後の希望――愛弟子たちへと視線を向けた。
「ブ、ブラム! ロッテ! お前たちなら俺の気持ち、分かってくれるよな! お願い、ちょっと殿下に言ってやって……」
しかし、野生の勘で「この女たちのドロドロした空間に関わったら死ぬ」と悟ったブラムは、そそくさと大剣を担ぎ直した。
「あー、俺、真層の入り口がどうなってるか、ちょっと前衛として偵察してくるわ! じゃあな、おっさん!」
「あっ、待ってくださいブラム君! わたしも、前衛のブラム君のサポートに行きますね! リーダー、お先に失礼します!」
師匠の悲痛な叫びを華麗にスルーし、二人はさっさと真層の重い扉の方へと小走りで逃げていく。
「おい、ロッテ後衛じゃなかったのかよ! 真面目なお前まで裏切るのかあ!!!」
ヘンドリックの悲痛な絶叫は、無情にも迷宮の暗がりへと吸い込まれ、かき消されていった。
誰も助けてくれない。完全に孤立無援となったヘンドリックは、王女に腕をホールドされたまま、深く深くため息をついた。
「……みんな、いい加減にしてくれるかな」
スッと。
ヘンドリックの声から、いつもの飄々とした温度が消えた。
それは、迷宮の底でしか見せない、職人としての冷たいトーンだった。
「ここは迷宮だ。政治も権力も関係ない。そして、このパーティーのリーダーは俺だ。王女殿下も、迷宮に入る以上は俺の指示に従ってもらう」
ヘンドリックは、王女の目を見て腕を静かに外し、冷酷なまでに落ち着いた声で言い放った。
「……俺の言うことが聞けないなら、この探索は今ここでおしまい。俺は一人で帰らせてもらうよ」
退路を断つ、リーダーとしての絶対の威厳。
これだけ厳しく言えば、さすがの王女もヒロインたちも、身の危険を感じて少しは大人しくなるだろう。
ヘンドリックはそう確信していた。
だが。
「……っ! 迷宮内では、リーダーであるそなたの指示が【絶対】……!」
王女の頬が、なぜかポッと赤く染まった。
「つまり、そなたが『わらわを抱きしめよ』と命じれば、それに従わねばならぬということじゃな……! なんと甘美な響きじゃ!」
「ああ、普段は優しい旦那様が、いざ現場に出ると見せるこの冷たくて厳しいお顔……。痺れますわ。ええ、リーダーの絶対命令、なんでも従いますわ」
エリーゼが、扇子を握りしめてうっとりとしたため息を漏らす。
「主君の絶対命令……! 騎士として、これほど胸が高鳴ることはない!」
「群れのボスの命令は絶対なんだゾ! アタシ、何でも言うこと聞くんだゾ!」
サンネとミラまでもが、妙に目を輝かせて色めき立っていた。
『違う!! なんでお前ら、怒られて頬を赤らめてるんだよ!』
心の中のツッコミは、当然誰にも届かない。
威厳を見せたせいで、逆に彼女たちの「変なスイッチ」を押してしまった最強の便利屋。
妙な熱気に包まれた美女たちを引き連れ、ヘンドリックは深い深い絶望と共に、ついに真層の重い扉へと手をかけるのであった。




