第93話:幸せな王都観光と、おっさん侯爵の呪詛
昨夜の、月明かりの下での静かで美しい時間は何だったのか。
翌日の昼下がり、ヘンドリックは侯爵邸の二階にある大広間で、頭の上に分厚い歴史書を五冊乗せたまま、プルプルと震える足で歩行訓練をさせられていた。
「歩幅が乱れておりますわよ、ヘンドリック様。侯爵たる者、いかなる時も水面を滑る白鳥のように優雅に歩かねばなりません」
ピシャッ!
姿勢が少しでも崩れると、容赦なくカトリーヌの扇子が飛んでくる。魔法も物理攻撃も効かない最強のおっさんが、ただのマナー講師のプレッシャーの前に完全に屈服していた。
「ひぃっ、す、すみませんカトリーヌ先生……って、首が、首がもげるっ!」
「もげません。続けなさい」
「もげますって! 絶対もげますって!」
「もげてから言いなさい」
カトリーヌは一切動じない。ロバートも壁際で腕を組んだまま、穏やかな笑みを浮かべているだけだ。
『……この二人、人間じゃない。絶対に人間じゃない』
限界を迎えたヘンドリックが、窓際で立ち止まって息を整えようとした時だった。
侯爵邸の窓から見下ろす王都のメインストリートに、見覚えのある若い男女の姿があった。
「あれ、あそこにあるクレープ美味しそう! ねえブラム、半分こしよ!」
「ああ。ロッテの口にクリームがついてるぞ。……ほら、取れた」
「んもうっ、ブラムったら外なのに恥ずかしいよ……えへへ」
若い剣士と可憐な魔法使いのパーティー、ブラムとロッテである。
王都の平和を満喫し、完全に二人だけの世界に入り込んでいる。平和な街並みを背景に、キラキラとしたエフェクトすら見えそうなほどのイチャイチャぶりだった。
『……あいつら、俺がこんな地獄を見てるっていうのに、呑気に王都観光のデートだと……!?』
ヘンドリックの頭の中で、何かがプツンと切れた。
三十五年間の虚無を抱え、望みもしない出世街道を強制的に引きずり回され、今まさに頭に本を乗せて拷問のような作法訓練を受けている自分。それに比べて、若さと希望に満ち溢れ、甘酸っぱい青春を謳歌しているブラムたちのあの姿はなんだ。
「……許せん」
「ヘンドリック様?」
ヘンドリックは窓ガラスにベッタリと顔を押し付け、怨霊のような低い声で呪詛を吐き始めた。
「お前も爵位を受けろォ……! 若き英雄とか持て囃されて、王族に目をつけられて政治的なしがらみに巻き込まれろ……! デートの途中で緊急依頼に呼び出されて、泥水すすって白目を剥け……! なんで俺だけこんな目に遭ってるんだよ、ふざけんなぁぁ……!」
ギリギリと歯を食いしばり、窓ガラスを引っ掻く侯爵(仮)。
その姿は、優雅な貴族とは対極に位置する、ただの僻み根性丸出しの三十代独身男性であった。
窓の下では、ブラムがロッテに何かを耳打ちして、ロッテが嬉しそうに笑っている。二人の世界は完璧に完結していた。
『……俺にも一度くらい、ああいう青春があってもよかったんじゃないか』
そんな感傷が一瞬よぎった、その時だった。
「……ヘンドリック様」
「ヒッ!?」
背後から、絶対零度の声が響いた。
振り返ると、カトリーヌがこれまでで一番美しい(そして恐ろしい)笑みを浮かべて立っていた。
「侯爵ともあろうお方が、窓にへばりついて若者の逢瀬に呪詛を吐くなど……。私の教育が、まだまだ甘かったようですわね」
「ち、違うんです先生! これはただの便利屋の習性というか、その……!」
「言い訳は不要ですわ。本をあと三冊追加して、中庭を百周。……ロバート、木刀を」
「かしこまりました、カトリーヌ」
夫のロバートが、音もなく木刀を差し出す。
「ちょっと待ってください! 百周って! 今日だけで何百周させる気ですか! 俺は人間です! 侯爵は不死身じゃないです!」
「侯爵は不死身でなくとも、不撓不屈でなければなりませんわ。さあ」
「アバーッ!!」
ブラムとロッテが「あはは、ブラム待ってー!」「こっちだぞロッテ!」と平和の象徴のように駆け抜けていく窓の下。
その上の階では、「ギャアアアアッ! 助けてえええ!」という、最強のおっさんの悲鳴が王都の空に虚しく響き渡っていた。
(数時間後)
床に這いつくばって完全に燃え尽きたヘンドリックと、冷静に彼を介抱するエリーゼ。
「旦那様、お水をどうぞ」
「……ありがとう、エリーゼ」
「ふふっ。お疲れ様ですわ」
エリーゼが優しく背中をさすってくれる。昨夜のテラスでの会話が、まだ温かく胸の中に残っていた。
二人の前に、カトリーヌと、分厚い資料を抱えたロバートが静かに座った。
「……さて。体も十分にほぐれたことですし、そろそろ本題に入りましょうか」
「ほぐれてないです。完全に死んでます」
「では死んだまま聞きなさい」
「……はい」
カトリーヌが扇子をパタリと閉じ、ロバートに目配せをした。
「ロバート。エリーゼ殿に、昨夜お約束した件を」
「はい。……お待たせいたしました、エリーゼ様」
ロバートが資料をテーブルに置き、真剣な眼差しでエリーゼを見つめる。
その瞬間、場の空気が変わった。
ギャグ空間は完全に終わりを告げた。ここから先は、王都の暗部と歴史に触れる時間だ。
這いつくばっていたヘンドリックも、その空気の変化を感じ取り、静かに身を起こした。
「王女殿下が提示した『世界樹へのアクセス権』。それが指し示す場所……そして、現在この国で世界樹の若枝がどういう状態にあるのか。私から、すべてお話しいたしましょう」
エリーゼの背筋が静かに伸びた。
三百九十年間、ずっと探し続けてきた答えが、今ここで語られようとしている。
昨夜のテラスで初めて打ち明けた想い。今朝の温室での、枯れた枝のかすかな光。そしてロバートが持つ「扉の場所」という情報。
すべてが、この瞬間に繋がっていた。
「……聞かせてください」
エリーゼの声は静かだったが、その瞳には三百九十年分の覚悟が宿っていた。
ロバートは静かに頷き、資料の一枚目をめくった。
三百九十年間の悲願の扉が、ついに開かれようとしていた。




