第92話:ハイエルフの秘め事と、究極の庭師
カトリーヌ先生の地獄の侯爵教育から、ほんの少しの休憩時間を与えられたヘンドリック。
彼は凝り固まった体をほぐすため、侯爵邸の広大な庭園へと逃げ出していた。
「はぁ……土の匂いは落ち着く……。やっぱり俺は、貴族の椅子より庭いじりをしてる方が性に合ってるな……」
庭園の石畳を踏みしめながら、ヘンドリックはゆっくりと深呼吸した。カトリーヌのスパルタ指導で強制的に鍛えられた背筋も、今だけは思い切り丸めてもいい。誰も見ていないこの時間だけが、侯爵邸での唯一の安らぎだった。
『……このまま庭師として雇ってもらえないかな。侯爵より庭師の方が俺には向いてる』
本気でそう思いながら庭の隅まで歩いてきた時、温室からエリーゼが出てきた。
その手には、完全に枯れ果てた細い枝が一本。
「……エリーゼ? そんなもの持って、どうしたんだ?」
「旦那様……」
エリーゼは少しだけ躊躇してから、静かに口を開いた。
「……昨夜、話したでしょう。里の世界樹のことを」
「ああ」
「これが……その世界樹の枝ですわ。里を離れる時、最後の形見として持ち出した唯一のもの」
ヘンドリックはエリーゼの手元をまじまじと見た。
見た目は完全に枯れ果てている。灰色がかった細い枝で、触れれば折れてしまいそうなほど脆そうだ。三百九十年間、ずっと持ち歩いてきたのだろうか。
「……少し見てもいいか?」
エリーゼが静かに頷く。
ヘンドリックは枝をそっと受け取り、【鑑定Lv1】を発動させた。
『……あれ?』
完全に死んでいると思っていた枝の内側に、かすかな反応があった。ほんの微細な、消えかけた燭台の炎のような生命反応。普通の【鑑定Lv1】では見落とすほどの、本当にわずかな光だった。
「エリーゼ、これ……まだ完全には死んでないよ」
「えっ……?」
エリーゼの目が見開いた。
「かすかだけどね。生命反応がある。……三百九十年間、持ち続けてたからかな。お前の魔力が少しずつ染み込んでたのかもしれない」
「そんな……私がどれだけ魔力を注いでも、何の反応もなかったのに……」
「多分、力任せに魔力をぶつけても届かないんだよ。世界樹の核は繊細すぎて」
ヘンドリックは枝を返しながら、少し考えてから言った。
「……試してみてもいいか? 毎晩どうせ魔力を捨ててるから、その分を枝に使ってみようかなと思って」
「毎晩……魔力を捨てている?」
「魔力タンクを広げるために、寝る前に全部使い切るんだよ。どうせ捨てるなら、枝に注いでみようかなと。勿体ないし」
エリーゼはしばらく黙ってヘンドリックを見つめていた。
『どうせ捨てる魔力だから』
三百九十年間、自分が必死に魔力を注いでも動かなかった枝を、このおっさんは「どうせ捨てるなら」という理由で試そうとしている。
「……お願いしてもよろしいですか」
エリーゼが静かに、しかし真剣な目で言った。
「ええ、もちろん」
それから数日が経った。
ヘンドリックは毎晩の枯渇訓練を、枝への魔力供給に切り替えていた。
Lv1の土魔法と水魔法を複合させ、自然界の波長に合わせた純粋な魔力を、ゆっくりと枝の内側へと送り込んでいく。力任せではなく、枝の核が心地よいと感じる波長で、ただひたすらに注ぎ続ける。
1日目。変化なし。
2日目。変化なし。
3日目。ヘンドリックの【鑑定Lv1】が、わずかに生命反応が強まったことを捉えた。
4日目の朝。
温室に来たエリーゼは、息を呑んだ。
枯れ果てていたはずの枝の内側から、かすかな緑の光が滲み出していた。新芽とも光とも言えない、しかし確かな「生命の息吹」がそこにあった。
「……まさか」
エリーゼの手が震えた。
三百九十年間、何をしても動かなかった枝が、わずかに、しかし確かに応えていた。
「どうした?」
後ろからヘンドリックの声がした。
「旦那様……これ、あなたが……?」
「ああ。毎晩ちょっとずつね。どうせ捨てる魔力だから」
「どうせ捨てる魔力……」
エリーゼはしばらく枝を見つめ、それからゆっくりとヘンドリックの方を向いた。
その瞳には、これまでの比ではない、底知れぬ感情が溢れていた。
「……旦那様」
「なんだ?」
「泣いていいですか」
「え、ちょっと待って……」
エリーゼは両手で口を覆い、静かに、しかし確かに涙を流し始めた。
三百九十年間、誰にも言えなかった悲願。毎晩魔力を注いでも動かなかった枝。それが今、「どうせ捨てる魔力だから」というおっさんの何気ない親切で、動き始めた。
「……旦那様のその魔力の扱い方。Lv1だからこそ、世界樹の核に寄り添えたのですわ。力任せのLv10では届かない、純粋で無駄のない波長……」
「いや、俺はただ……」
「絶対に逃がしませんわ」
「えっ」
「今まで以上に、絶対に逃がしませんわ」
エリーゼが涙を拭いながら、静かに、しかし恐ろしいほど真剣な目で言い切った。
ヘンドリックは思わず一歩後退した。
三百九十年間の悲願に、かすかな光が宿った朝。
最強の便利屋おっさんのスローライフの夢は、世界樹のかすかな新芽と共に、さらに遠くへと遠ざかっていくのであった。




