第91話:銀の月と、三百九十年の本音
侯爵邸に静けさが戻った夜。
族長たちが帰り、カトリーヌのスパルタ講座も今日は終わり、賑やかだった中庭にはもう誰の姿もない。
エリーゼは一人、テラスの手すりに寄りかかって夜空を見上げていた。
月が、やけに白く冷たい。
エルフの里でも、こんな夜には世界樹の枝が銀色に光っていた。星明かりさえも吸い込むように輝いて、里全体を柔らかく包んでいたあの光が、今はもうどこにもない。
「……眠れないのか?」
背後から声がして、エリーゼは振り返らなかった。
「あなたこそ。魔力の全放出はもう終わったの?」
「さっき終わったよ。外の空気が吸いたくなってね」
ヘンドリックが隣に立ち、同じように夜空を見上げた。
二人の間に、静かな沈黙が落ちる。
いつもなら何か策を弄するエリーゼが、今夜は何も仕掛けてこない。ただ月を見ている。その横顔は、いつもの余裕に満ちた副リーダーのものではなく、ただ一人の、疲れた旅人のようだった。
「……ねえ、ヘンドリック。一つ聞いていいかしら」
「なんだ?」
「私の里の話、したことがなかったわね」
ヘンドリックは何も言わず、続きを待った。
「ハイエルフの里には、世界樹があったの。大きくて、古くて……里のすべての命の源だった。でも、私が旅に出る少し前から、少しずつ枯れていって。今頃は……もう完全に、消えているはずだわ」
「……そうか」
「三百九十年、ずっと手掛かりを探し続けてきた。他の国の世界樹に触れることができれば、何かわかるかもしれない。でも、世界樹はどこの国でも最高機密。簡単には近づけない。……この王都に手掛かりがあると聞いて、ここまで来たの」
エリーゼは静かに、しかし淡々と話した。三百九十年分の重さを、あえて感情を抑えて語るように。まるで、感情を乗せてしまったら、その重さに自分が押し潰されてしまうとでも言うように。
「王女殿下が約束してくださったアクセス権。あれが、私にとってどれほどのものか……わかる?」
「……わかる、とは言えないけどね。でも、それがどれほど大切なものかは、わかる気がするよ」
ヘンドリックの答えに、エリーゼは小さく笑った。
「あなたって、本当に不思議な人ね」
「そうかな?」
「……ねえ」
エリーゼはヘンドリックの方を向かずに、月を見たまま、静かに続けた。
『旅をしていた間、私に近づいてきた男たちは皆、最初は私の顔を見てにやにやして……次の瞬間には胸を見て、露骨に失望した顔をした。まるで私が不完全な商品であるかのように。それが何度も続いて、私は男というものが、心の底から嫌になったの』
ヘンドリックは黙って聞いていた。
『でも、あなたは違った。私のこの体を見て、不快な視線を向けることもなかった。失望した顔もしなかった。……それどころか、あなたが本当はこのささやかな方が好みだと、私は知っているのよ? なのに、それを私に対して一度も武器にしなかった。ただ、そのままの私を見ていた』
「……」
「三百九十年生きてきて、そんな男に会ったのは、あなたが初めてだわ」
沈黙。
風が少しだけ吹いて、エリーゼの銀色の髪を揺らした。
ヘンドリックが少し赤くなりながら、頭を掻いた。
「……当たり前だよ。エリーゼはエリーゼだもんね」
「ふふっ。やっぱり、そう言うと思った」
エリーゼはようやくヘンドリックの方を向いた。月明かりの中で、その銀色の髪が静かに揺れている。瞳が、かすかに潤んでいた。
「本当に、あなたって人は……馬鹿なのか、天才なのか、わからないわ」
「どっちかといえば馬鹿の方だと思うけどね」
エリーゼはクスッと笑い、そっとヘンドリックの腕に寄りかかった。その体が、ほんのわずかだけ、震えていた。
「……ねえ。世界樹のことが解決したら、私はどうなるのかしら」
「どうなるって?」
「里に帰るべきなのか、それとも……」
答えを言いかけて、エリーゼは口を閉じた。
三百九十年間、ずっと一人で抱えてきた問いだった。答えが出なくて、考えるたびに胸が痛くて、だからずっと見ないふりをしてきた問いだった。
ヘンドリックも、すぐには答えなかった。ただ、そっと彼女の肩に手を置いた。
「……その時はその時で、一緒に考えればいいんじゃないかな。俺はどうせここにいるしね」
「……逃げてばかりのくせに」
「スローライフが勝手に逃げていくんだよ。捕まえようとするたびに、どんどん遠ざかっていってね。……まあ、エリーゼが勝手についてくるから、逃げるに逃げられないけど」
エリーゼが小さく笑い、そのまま黙って寄り添った。
ヘンドリックは何も言わなかった。ただそこにいた。それで十分だった。
しばらくして、テラスの扉が静かに開いた。
「まあ……仲睦まじいこと」
カトリーヌが扇子で口元を隠しながら、おしどり夫婦の余裕で二人を眺めた。夫のロバートも、穏やかな笑みで後ろに控えている。
「カトリーヌ先生、こんな夜遅くに……」
「少し夜風が吸いたくなっただけですわ」
カトリーヌはそう言いながらも、エリーゼに視線を向けた。
「……エリーゼ殿。少しよろしいかしら」
エリーゼが身を起こす。カトリーヌは扇子を静かに閉じ、声を低くして言った。
「世界樹のことを調べていらっしゃるのでしょう?」
エリーゼの表情が固まった。
「……なぜ、それを」
「長く社交界にいると、色々なことが耳に入りますの。……王女殿下のアクセス権は、確かに扉を開く鍵になる。でも、どの扉を開けばいいか……その手掛かりをお探しなら」
カトリーヌはロバートをちらりと見た。
「ロバートに聞いてみなさい。あの人は、色々と知っていますわよ」
ロバートは静かに頷いた。多くを語らない、しかし確かな肯定だった。
エリーゼは息を呑んだ。
王女のアクセス権が「扉の鍵」なら、ロバートは「扉の場所」を知っている。三百九十年間、手の届かなかったものが、今初めて輪郭を持ち始めた。
「……明日、お時間をいただけますか」
「もちろんですわ」
カトリーヌは優雅に微笑み、踵を返した。
「では、お二人の邪魔をしてしまったわね。ごゆっくり」
扉が静かに閉まる。
テラスに残されたエリーゼは、しばらく動けなかった。
「……大丈夫か?」
ヘンドリックの声に、エリーゼはゆっくりと息を吐いた。
「……ええ。ただ、少し……怖いわ」
「怖い?」
「三百九十年探し続けたものが、手の届くところに来た気がして。……もし本当に答えが見つかったら、私は……」
また、言いかけて止まった。
ヘンドリックは何も言わずに、ただ彼女の隣に立ち続けた。
月が少しだけ傾いた頃、エリーゼが静かに呟いた。
「……ありがとう、ヘンドリック。今夜、話せてよかったわ」
「俺は聞いてただけだけどね」
「それでいいの。……あなたがいてくれれば、それでいいのよ」
ヘンドリックはその言葉の重さに気づいているのかいないのか、ただ照れたように頭を掻くだけだった。
三百九十年分の孤独を抱えたエルフが、初めて「帰る場所」を感じた夜だった。




