第87話:無駄な抵抗と、おっさん侯爵への教育的指導
「嫌だ……絶対に嫌だ……。俺は水の都に帰る! ギルドの依頼をこなして、安い酒場で一杯やる生活に戻るんだああああっ!」
王都にある、かつて闇商人の拠点だった場所を改装した「仮の侯爵邸」。
豪華な天蓋付きベッドの上で、ヘンドリックはシーツを頭から被って絶叫していた。
昨日まで学舎を守り魔物を蹂躙していた最強の便利屋が、今日は侯爵という重すぎる肩書きに押し潰されそうになって布団にくるまっている。人生とは、何が起こるかわからないものだ。
「旦那様、往生際が悪いですわ。国王陛下からの正式な叙爵、さらには学舎を守った英雄としての民衆の期待。もはや逃げ場はありませんわよ」
エリーゼが冷徹に、しかし慈愛に満ちた(逃がさない)瞳で告げる。
「そもそも、俺は侯爵なんて仕事、何一つ知らないんだよ! 爵位持ちが何をするかも、どんな顔をして歩けばいいかも分からない! 知識ゼロの侯爵なんて、国辱ものだろうが!」
ヘンドリックが「無知」を武器に最後の抵抗を試みた、その時だった。
「その点については、ご安心ください。我が家から、教育と邸内の管理に長けた者を幾人か連れてまいりました」
サンネが凛々しくそう言い放ち、部屋の扉を開く。
そこには、サンネによく似た厳格そうな壮年の騎士と、穏やかな笑みを浮かべた貴婦人が立っていた。
「ヘンドリック様、娘が、そして国がお世話になっております。サンネの父、ベルンハルトにございます」
「母のメアリです。……今日からは、あなたの『家臣』として、この屋敷を切り盛りさせていただきますわ」
「……え? 家臣? サンネのご両親が?」
ヘンドリックが呆然とする中、ベルンハルトはがしっとヘンドリックの手を握りしめた。
「娘から話は聞いております。レベル1の技のみで王都を救ったその英姿、感服いたしました! この老い先短い身、あなたのような真の英雄に捧げたい! ……あ、ついでに娘のサンネも、公私共に好きにしてやってください。むしろ頼みます」
「父上!? ……コホン。まあ、そういうことだ。旦那様」
サンネが赤面しながらも、逃がさないと言わんばかりに剣の柄を握る。
こうして、おっさんの意思とは無関係に、最初の本格的な「家臣団」が結成されてしまった。
サンネの両親による、地獄の行儀作法ノックが始まった。
ベルンハルトは騎士として培ってきた礼節の知識を余すことなく叩き込み、メアリは貴婦人としての立ち居振る舞いを丁寧に指導してくれた。
だが、食事の作法や歩き方は教えられても、王宮での立ち振る舞いや、他家との外交といった「侯爵としての高度な処世術」までは、一介の騎士家系では限界があった。
「……そろそろ、限界ですわね」
そう呟いたのは、公爵家から派遣されてきた使いの者だった。
直後、屋敷の前に一台の、地味ながらも圧倒的な品格を漂わせる馬車が停まった。
「公爵閣下のご依頼により、ヘンドリック侯爵の教育係として参りました」
馬車から降りてきたのは、気品あふれる初老のマダムだった。公爵の妹であり、すでに子供たちは独立して孫もいるという、王都社交界の生ける伝説。そしてその後ろには、彼女を優しく支える夫の姿もあった。
「私はカトリーヌ。こちらは夫のロバートです。……ヘンドリック様、ご安心なさい。私はあなたの『英雄的素質』を、完璧な『侯爵の器』へと叩き直すためだけに参りました。色恋の隙など、針の一穴ほどもございませんわよ?」
マダムは優雅に微笑みながら、手に持った扇子でパシッとヘンドリックの姿勢を正した。
「さあ、まずはその猫背から直しましょうか。……ロバート、筆記用具を。ヘンドリック様が今日から学ぶ『貴族の義務』をリストアップしますわ」
「ああ、カトリーヌ。彼はいい生徒になりそうだ」
夫のロバートも、おしどり夫婦の余裕を見せながら、逃げ道のない包囲網に加わる。
『……この人たち、絶対に俺を逃がす気がないやつだ』
ヘンドリックの第六感が、赤信号をバチバチと点滅させた。
「あの……カトリーヌ先生。俺は平民上がりで、貴族の作法とか、本当に一から覚えなきゃいけないレベルで……時間がかかると思うんですけど」
「ええ、わかっていますわ。だからこそ、私が参ったのです」
カトリーヌは扇子を閉じ、ヘンドリックの目をまっすぐに見た。
「ヘンドリック様。あなたがどれほど逃げようとしても、私から逃げた者はこれまで一人もおりません。……覚悟なさいませ」
その笑顔は完璧に優雅で、完璧に温かく、そして完璧に逃げ場がなかった。
美女三人の重い愛、家臣となったサンネの両親の熱意、そして逃げ道ゼロの完璧な教育マダム夫妻。
「……誰か、俺を解体してくれ……」
ヘンドリックの魂の叫びは、誰にも届かなかった。
水の都の便利屋おっさん・ヘンドリック。
彼の「侯爵としての第二の人生」は、スローライフとは程遠い、あまりにも完璧な「教育的指導」と共に幕を開けるのであった。




