第81話:悪魔の囁きと、終わらない介護地獄
ルークが去ってから数日。
ヘンドリックの麻痺は徐々に和らぎつつあったが、まだ指先がわずかに動かせる程度だった。
その日の午後、たまたま寝室にはエリーゼとヘンドリックの二人きりになっていた。
他の三人が買い出しや屋敷の警備で席を外しており、静かな時間が流れている。
「旦那様。お顔、拭きますね」
エリーゼは温かいおしぼりでヘンドリックの頬を優しく拭うと、そのままふと手を止め、ヘンドリックの顔をジッと見つめた。
そして彼女は、スッと顔を近づけ、動けないヘンドリックの唇に、そっと自分の唇を重ねた。
『……っ!?』
一瞬の、甘く柔らかい感触。
ヘンドリックの顔が一気に茹でダコのように赤くなる。
「ふふっ。旦那様、耳まで真っ赤ですわ」
エリーゼが嬉しそうに微笑む。
ヘンドリックは心の中で激しく動揺していた。
『い、いや、ちょっと待て。俺は冒険者だぞ。いつ迷宮で野垂れ死ぬかわからない危険な稼業だ。それに、特定の恋人なんて作ったら、俺が死んだ時に悲しませるし、何より残りの三人(特にサンネや王女)が黙っちゃいない。血の雨が降る……!』
冒険者としての現実的なリスクと、ヒロインたちの重すぎる愛の板挟み。
そんなヘンドリックの内心の葛藤を読み取ったのか、あるいは全く別の解釈をしたのか、エリーゼは彼の耳元に顔を寄せ、甘く、そして恐ろしい悪魔の誘惑を囁いた。
「旦那様。もしかして、誰か一人を選んだら他の子が悲しむとか、冒険者として私たちを危険に巻き込みたくないとか……そんな不器用なことを考えていらっしゃいますか?」
「…………(図星だ)」
「ふふ。簡単なことですわ。私たち全員と結婚して、旦那様が侯爵になれば、すべて無事に解決ですよ? 私たちは強いですから、あなたの足手まといにはなりませんし、全員であなたを一生お守りしますから」
『ちっとも解決してない! むしろ俺のスローライフが四等分されて完全に消滅するだけだ!』
心の中で絶叫するが、声にはならない。
その後、さらに数日が経過し、ヘンドリックはついに【狂笑の呪面】の呪縛から解放され、体を動かせるようになった。
「あ、ああ……動く! 指が動くぞ! よし、着替えも食事も自分でできる!」
歓喜の声を上げるヘンドリック。だが、ヒロインたちの過保護は終わらなかった。
「ダメですよ旦那様! まだ病み上がりなのですから! さあ、あーん」
「下の世話はもういいにしても、お着替えと体拭きは私たちがやりますからね!」
せっかく動けるようになったにもかかわらず、結局ベッドに縛り付けられ、赤ん坊のようにスプーンで食事を口に運ばれるヘンドリック。
彼の尊厳は、もはや風前の灯火であった。




