第79話:招かれざる見舞い客と、絶望のティータイム
【狂笑の呪面】の代償により、首から下の全神経がショートし、まばたきすら自力でできない完全麻痺状態に陥って三日目。
ヘンドリックの寝室では、今日も今日とてヒロインたちによる「過剰すぎる愛の介護」が繰り広げられていた。
「さあ旦那様。今日は栄養満点の薬膳スープですよ。熱くないように、私がしっかりふーふーしてから、お口に入れて差し上げますからね」
「食後のお体拭きはお湯の温度を少し上げましたわ。昨日、旦那様の反応が少しだけビクッとした気がしたので」
エリーゼとサンネが微笑み合いながら、ベッドの上で彫像のように固まるヘンドリックの世話を焼いている。
『やめてくれ……昨日のビクッとした反応は、サンネが変なところを拭こうとしたから全力で抵抗しようとした結果の痙攣だ……っ!』
心の中で血の涙を流しながら、ヘンドリックは今日も天井を見つめていた。
三日間、ずっと天井を見ている。この天井の染みの数は、もう完全に把握した。
「ボス、今日のスープはミラが作ったんだゾ! ボスみたいに上手くはないけど、心を込めたんだゾ!」
ミラが誇らしげに胸を張る。
『……ミラが作ったのか。それは少し怖いな』
だが声が出ないため何も言えない。ヘンドリックの目が「頑張ってくれてありがとう」と「本当に大丈夫か」の間で揺れていた。
「旦那様、あーん」
サンネが木製のスプーンでスープをすくい、ヘンドリックの口元へと運ぶ。
飲み込む。思ったよりは美味しかった。
『……ミラ、意外と料理の才能があるんじゃないか』
そんな平和なことを考えていた、その時だった。
コンコンと控えめなノックの音が響き、メイドが顔を出した。
「奥様方。旦那様がお倒れになったと聞きつけ、王都の学校に通われている妹君がお見舞いに駆けつけておられます」
その言葉に、ヘンドリックの心が跳ねた。
目に入れても痛くない、溺愛する実の妹。王都の学校の寮に入れて安全を確保していた彼女が、わざわざ心配して来てくれたのだ。
『妹……っ! よかった、無事だったか……!』
「まぁ! 旦那様の可愛い妹さんが! すぐにお通ししてちょうだい!」
エリーゼたちが慌てて身だしなみを整え、ベッドの脇を空ける。
バタン、と扉が開き、制服姿の可憐な少女が目に涙を浮かべて飛び込んできた。
「お兄ちゃん! 倒れたって聞いて、急いで来たの! 大丈夫!?」
妹がベッドにすがりつき、動かないヘンドリックの手を握りしめる。
その小さな手の温かさが、麻痺した体を通しても何となく伝わってくる気がした。
『ああ、お兄ちゃんは大丈夫だぞ。変なお面を被って自爆しただけだから、あと四日もすれば動けるようになるからな。心配かけてごめんな……』
声は出せないが、ヘンドリックは心の中で妹の頭を優しく撫でた。
「お兄ちゃん、目が動いてる……よかった、意識はあるんだね。でも、どうしてこんなに……」
妹が涙をぽろぽろと流しながら、兄の手を強く握り直す。
だが、妹の後ろから「失礼いたします」と静かな声がして、一人の長身の男が寝室へと入ってきた瞬間。ヘンドリックの心臓は、恐怖で完全に跳ね上がった。
『……は?』
仕立ての良い商人の服を着た、優男。
エリーゼやサンネはその男を見ても「妹君の護衛の方かしら」と微笑んでいるだけで、全く警戒していない。
だが、あの【鑑定Lv1】をすり抜ける異常な波動。そして迷宮の最奥で目が合った、あの漆黒の瘴気を纏っていた姿の記憶。
間違いない。こいつは王都の広場で魔石を落とし、迷宮の最奥へ逃げ込んだ、あの【魔族】だ!
『なんでこいつが俺の寝室にいるんだよ!? しかも妹と一緒に!? みんな逃げろ、そいつはスタンピードの黒幕だ!』
全身の毛穴からブワッと冷や汗が噴き出すが、ヘンドリックの体はピクリとも動かない。喉からは「あ……ぅ……」という情けない空気の漏れる音しか出なかった。
「お兄ちゃん、紹介するね! 私が学校の近くで迷子になったり、変なチンピラに絡まれたりした時に、いつも助けてくれる恩人のルークさんだよ! ずっと王都で私のお世話をしてくれてるの!」
妹が無邪気な笑顔で、魔族の男――ルークと名乗る男を紹介した。
ルークはヘンドリックと視線が合うと、口元に薄い笑みを浮かべた。その笑みには、敵意も殺意もなかった。ただ、楽しそうに、どこか余裕を持って見下ろしていた。
『この野郎……余裕の顔しやがって……! 動けたら今すぐ【解体Lv1】で急所を……っ!』
「なんと! 旦那様の大切な妹君をいつも守ってくださっているのですね。初めまして、妻のエリーゼと申します。さあルーク様、どうぞこちらへ。すぐにお茶をお淹れしますわ」
「妹君の恩人は、私たちの恩人です! 今日はゆっくりしていってください!」
「ルークさん、ボスのお見舞いに来てくれてありがとうなんだゾ! お菓子もあるんだゾ!」
王女やサンネ、ミラまでが、最悪のテロリスト(と勘違いしている魔族)に対して、極上の笑顔で最高級の茶菓子を振る舞い始めた。
ルークは優雅にティーカップを手に取り、エリーゼが淹れた紅茶を一口飲んで「……素晴らしいお茶ですね、奥様方」と微笑んだ。
『バカ! お前ら、そいつの正体に気づけ! 人類最高峰のトップランカーが四人揃って、なんで魔族とニコニコお茶会してんだよ! 誰か俺の体を動かせえええっ!』
ヘンドリックの目が激しく動き回る。しかしヒロインたちは「旦那様、もしかしてお腹が痛いですか?」「お体が痒いのかしら?」と的外れな解釈をするだけだ。
ルークはそんなヘンドリックの様子を横目で見ながら、再びティーカップに口をつけた。
「それにしても伯爵様は、文字通り『指一本動かせない』ご様子で。……ご病気でしょうか?」
その言葉には、確かに「知っていてわざと言っている」ニュアンスが滲んでいた。
『こいつ……俺が動けないことを知ってて、わざとからかいに来やがった……!』
ヘンドリックの目に、今までにないほどの怒りの炎が宿った。
しかし体は動かない。声も出ない。
最強の便利屋の絶望の叫びは誰にも届かず、男の尊厳を奪われる地獄の介護空間は、一瞬にして命の危険が迫るサイコホラー空間へと変貌を遂げてしまった。
しかしそれはまだ序章に過ぎなかった。
ルークがティーカップを置き、ベッドの脇へと近づいてくる。そしてヘンドリックの枕元に身を屈め、ヒロインたちには聞こえないほどの小さな声で囁いた。
「……英雄殿。私はあなたの敵ではありません。いずれ、ゆっくりお話しましょう」
そう言い残し、ルークは優雅に立ち上がり「今日は失礼いたします」とヒロインたちに挨拶して、颯爽と部屋を後にした。
妹は「またね、ルークさん!」と手を振った。
残されたヘンドリックは、天井を見つめながら考えた。
『……どういうことだ。敵じゃないとはどういう意味だ。なんで妹と繋がってるんだ。そして、なんで俺は体が動かないんだ』
問いは山積みだったが、答えを出せる状況ではなかった。
哀れ、ヘンドリック。
動けない体で、謎だけが増えていく。




