第62話:泥沼の遁走と、大地を割る厄災の胎動
自分の完璧な気配遮断と、何重にも施した魔法の偽装が、なぜこの冴えないおっさんに、ただ肩がぶつかったというだけで一瞬にして看破されたのか。
喉元にオリハルコンの刃を突きつけられた男は、数秒間だけ驚愕に目を見開き、言葉を失っていた。
だが、男は言い逃れを諦めたのか、あるいは最初からこの状況すらも想定内だったのか。絶望の悲鳴を上げる代わりに、口の端を三日月のように歪めて、酷く不気味に嗤い始めた。
「クックック。……まさか、この平和ボケした王都に、私の偽装を見破る眼を持つ者がいるとはな。驚いたぞ、便利屋のおっさん。君のその腐った道具を見分ける眼は、本物のようだ」
男の体から、平民としての温かみのある皮膚の偽装がドロリと泥のように溶け落ち、漆黒の瘴気を纏い、頭部に捻じれた角を持つ魔族の本来の姿が現れた。
その禍々しい魔力の奔流に、周囲の民衆が悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
魔族の姿を認めたサンネが剣を振り被り、ミラが鋭い爪を立てて一斉に飛びかかろうとした、まさにその時だった。
「素晴らしい殺意だ。しかし、残念だが君たちと遊んでいる暇はない。……それに、その魔石は私の計画のほんの一部に過ぎない。記念に君に差し上げますよ」
魔族の男の足元の強固な石畳が、突如として底なしの泥沼のように真っ黒に変色した。
男の体は物理法則と重力を完全に無視して、足先から一瞬にしてその黒い沼の中へと滑り落ちるように沈み込んでいく。
「逃がすか!」
ヘンドリックのオリハルコンの刃が横一文字に男の首を薙ぎ払う。しかし、剣は残像と漆黒の瘴気だけを斬り裂き、男の姿はすでに地脈の奥深くへと完全に遁走した後だった。
「チィッ、逃げられた! 空間転移魔法じゃない、地脈そのものを書き換えて移動する特殊な潜行魔法だ。俺たちの足が遅かった」
ヘンドリックが悔しげに舌打ちをし、剣を下ろそうとした直後だった。
ズズズズズッ、という、腹の底を直接揺さぶるような不吉な重低音が、王都の地下深くから広範囲にわたって響き渡った。
「な、なんだ。地震か!?」 「いや、違う! 足元から、尋常じゃない密度の魔力が急速に膨れ上がってきているわ! 結界の基部が、内側から破壊されている!」
王都の防衛機構を熟知しているエリーゼが、顔面を蒼白にして叫ぶ。
魔族が言い残した『その魔石は差し上げますよ』という言葉の真の恐ろしさを、ヘンドリックたちはこの瞬間になってようやく理解した。
魔族が懐に隠し持っていた狂乱の魔石は、王都の結界を破壊するための本命の鍵などではなかった。それは、あらかじめ王都の地下水路のさらに深く、地脈の淀みに潜ませて培養していた巨大な魔物を呼び覚ますための、単なる時限式の起爆剤の一つに過ぎなかったのだ。
ギルドへの道程の中間地点である中央広場。ヘンドリックたちが立っているすぐ数十メートル先の石畳が、火山の噴火のように内側から大爆発を起こして弾け飛んだ。
もうもうと立ち込める巨大な土煙と粉塵の嵐の中から、四階建ての迎賓館の屋根を優に超えるほどの、規格外の太さを持つ異形の腕が突き出された。
その腕が周囲の石造りの建物をまるで積み木のようにあっさりと薙ぎ払い、地中から巨大な体を引きずり出す。
現れたのは、王都の地下の岩盤と高熱のマグマで構成された大地の化身。迷宮の最下層でしかお目にかかれないような、超巨大なゴーレムの変異種であった。
「ギャアアアアッ! 魔物だ! 山のように巨大な魔物が出たぞ!」 「逃げろ! 結界が破られたんだ!」
逃げ遅れた民衆の悲鳴。倒壊する建物の轟音。阿鼻叫喚のパニックに包まれる王都のメインストリート。
その絶望的な光景の中心で、ヘンドリックは降り注ぐ巨大な瓦礫をオリハルコンの剣で弾き落としながら、魔族の男に向かってではなく、自分の不用意な行動に向かって、心の中で血の涙を流しながら絶叫していた。
『なんでこうなるんだよ! 時間を潰したかっただけなのに!
かっこつけて伝説の剣なんて抜いて、名台詞なんて吐かなければ、こんな特大のボスモンスターの目の前で矢面に立たされる羽目にはならなかったのに!
俺の平穏な地下牢スローライフ計画を返せえええっ!』
己の職人としてのプライドと、ほんのわずかな現実逃避の願望が複雑に絡み合った結果、生み出された最悪の状況。
逃げ遅れた民衆と、この街のどこかの学校で平和に給食を食べているであろう可愛い妹を守るため、最強の便利屋は巨大な厄災を前に、四人の美女たちと共に、絶対に逃げられない絶望的な防衛戦へと強制的に巻き込まれていくのであった。




