第61話:阿吽の呼吸と、突きつけられた神の金属
ヘンドリックのそのたった一瞥。 それだけで、長年苦楽を共にしてきたヒロインたちは、事態の異常性を脳の思考を介することなく本能で悟った。
『ヘンドリックが、急に真剣になった』
ただの平民が落とした荷物を拾うだけで、彼がこんな極限の目を向けてくるはずがない。この目の前にいる男は、自分たちの命を脅かすほどの最悪の敵だ。
困惑はあった。しかし、彼女たちはヘンドリックに一切の質問を挟むことなく、流れるような動作でそれぞれの役割を果たし始めた。
サンネはさりげなく歩幅を広げ、男が路地裏へと逃げ込もうとする退路を、己の強靭な肉体と剣のリーチで完全に塞いだ。
ミラは獣人特有の足音を完全に消す歩法で男の影を踏むように背後へと回り込み、いつでも心臓を抜き取れる態勢を整える。
エリーゼは杖を握る手に微かな魔力を通し、周囲数メートルの空間の魔力流動を無音で固定した。これにより、男が転移魔法や爆発魔法を使おうとしても、一瞬のタイムラグが生じる。
「ああ、すいません。うっかりしていました。ありがとうございます」
三人の美女が自らの退路を完全に断っていることにも気付かず、男は引きつった愛想笑いを浮かべながら、ヘンドリックの手から黒い包みを受け取ろうと手を伸ばした。
その瞬間。ヘンドリックは手に持ったままの荷物に、システムを通さない生身の魔力を直接ぶつけて強制鑑定を行い、中身が超高純度の狂乱の魔石であることを完全に確信した。
「こいつだ! みんな、やれ!」
ヘンドリックの短く鋭い号令が響き渡る。
それと同時だった。ヘンドリックは男に荷物を渡すふりをしながら、右手で自身の空間拡張の鞄の奥底へと手を突っ込んだ。
彼が引き抜いたのは、普段の街の依頼や魔物討伐では絶対に使うことのない、フェルウェ大迷宮の最深層で採掘した神の金属オリハルコンを、自身の錬金術と土木建築スキルの粋を集めて鍛え上げた、伝説級の業物であった。
抜剣の速度は、王宮の精鋭騎士団長ですら視認できないほどに神速だった。
銀色の閃光が朝の光を反射して鋭く輝き、ヘンドリックは石畳を強く蹴って男の懐へと完全に潜り込んだ。
周囲の王都の住民や騎士たちは、新しい男爵がいきなり何もない空間から恐ろしい威圧感を放つ剣を抜き、無抵抗に見える平民に襲いかかったのを見て、ついに権力に酔って気が触れたのかと息を呑み、あちこちから悲鳴が上がり始めた。
だが、ヘンドリックの瞳に一切の躊躇や揺らぎはない。 彼は男の喉仏の数ミリ手前で、その美しくも残酷な刃をぴたりと寸止めして突きつけていた。
「こんなところで出会うとはな。探す手間が省けたってなもんだ」
低い、しかし地底のマグマのように重い圧迫感を持った声が、男の鼓膜を直接揺らす。
男が被っていた完璧な平民としての偽装は、ヘンドリックの至近距離から放たれる尋常ではない殺気と、喉元に突きつけられた神の金属が放つ魔力干渉によって、表面からひび割れるように剥がれ落ちそうになっていた。
「な、何をなさるのですか! 私はただの平民だ! このおっさん、気が触れたのか! 誰か、助けてくれ! 狂人に殺される!」
男は大袈裟に叫び、周囲の群衆に助けを求める。 しかし、ヘンドリックは男の演技など意に介さず、空いた左手で、拾い上げた黒い布の結び目を乱暴に引きちぎった。
中から現れたのは、太陽の光を不気味に吸い込み、ドクドクと心臓のように赤紫色に脈打つ、巨大な狂乱の魔石。
それを見た瞬間、周囲の喧騒が一瞬にして止み、真冬のような冷たい静寂がメインストリートを支配した。
「お前が必死に抱えていたのは、これだろう。王都の数万の命を地獄に変えるための、最悪の招待状だ。違うか、魔族」




