第60話:雑踏の死角と、職人の凍りつくような違和感
王都のメインストリートは、朝特有の活気と喧騒に包まれていた。
焼きたてのパンの香ばしい匂いと、市場へ向かう商人たちの威勢の良い声が交差する中、ヘンドリックはひどく重い足取りで冒険者ギルドへと向かっていた。
彼の両脇はエリーゼとサンネが隙間なく固め、前後をミラと王女が警戒歩行している。道行く王都の住民や冒険者たちは、絶世の美女四人に囲まれた少し猫背で冴えない男爵の姿を見て、羨望と嫉妬、そして好奇の入り混じった視線を隠そうともしなかった。
「あんなおっさんが国宝を直した英雄様なのか」 「美しい奥方たちを侍らせて、なんとも羨ましい身分になったものだ」
周囲からヒソヒソと囁かれる噂話が、ただでさえ重いヘンドリックの胃をさらにキリキリと締め付ける。
このままギルドの扉をくぐれば、間違いなくスタンピードの黒幕討伐に向けた作戦会議の主賓として扱われる。そして討伐が成功すれば、今度こそ侯爵という逃げ場のない地位を与えられ、王女との結婚も決定事項となってしまう。
『どうにかして時間を稼げないものか。いきなり腹痛で倒れたフリをすれば、数時間くらいはベッドで休ませてもらえるかもしれない』
そんな現実逃避の思考を巡らせながら石畳を歩いていた、まさにその時だった。
前方の交差点から、朝の市場へ大量の野菜を運ぶ巨大な荷馬車が、砂埃を巻き上げながら猛スピードで曲がってきた。
御者の制御が少し遅れたのか、荷馬車の軌道が歩行者の多い通りへと大きく膨らんでくる。
「危ないですよ、旦那様。少し道を空けましょう」
護衛の要であるサンネが咄嗟にヘンドリックの肩を引き、一行は馬車をやり過ごすために路地の壁際へと身を寄せた。
それと全く同じタイミングだった。前方から歩いてきた目深にフードを被った平凡な平民の男もまた、暴走気味の荷馬車を避けるために、ヘンドリックたちが避難したのと同じ路地側のスペースへと大きく飛び込んできたのである。
荷馬車が轟音を立てて通り過ぎる土煙の中。 路地の狭い空間で、ヘンドリックの右肩と、フードの男の左肩が、ほんのわずかに、しかし鋭く接触した。
その刹那。ヘンドリックの全身の毛穴という毛穴が総毛立ち、背筋に氷の柱を押し当てられたような強烈な悪寒が走った。
『なんだ、この異常な寒気は』
脳内に常駐している鑑定スキルと索敵スキルが瞬時に男の情報を弾き出すが、そこに表示されるのは「ただの平民」という無害な文字だけだった。殺気もなければ、魔力の揺らぎすらも一切感じられない。
だが、二十年間、常に死と隣り合わせの迷宮の深層で、魔物の息吹と血の臭いに塗れながら道具を直し続けてきたヘンドリックの職人としての生身の本能が、システムの情報を完全に否定していた。
肩が触れ合ったコンマ数秒の間。男の分厚い衣服の奥、その懐の奥底から漏れ出していたのは、数日前のヘラフテンで感じたものと同じ波動だったのだ。
魔族の甘言に乗った元パーティーのリーダーが自滅した際、その黒焦げの死体の傍らに落ちていた狂乱の魔石。命を冒涜し、魔物を狂暴化させるあの悍ましい呪物の気配を、ヘンドリックの皮膚が完全に記憶していた。
接触の衝撃で、男の懐からゴトリと、黒い布に厳重に包まれたソフトボール大の重そうな荷物が石畳に転がり落ちた。
男はビクッと肩を震わせ、咄嗟にしゃがみ込もうとした。しかし、ぶつかった相手の周囲に、王族の紋章を身につけたドレスの女と、尋常ではない隙のなさを誇る凄腕の騎士たちがいることに気付いた。
男の顔から一瞬だけ焦燥の色が浮かび、ここで荷物を拾い上げて怪しまれるリスクを計算したのか、努めて平静を装ったまま、落ちた荷物を無視して足早にその場から歩き去ろうとする。
だが、ヘンドリックは絶対に逃がさなかった。
もしあの荷物が自分の直感通りの代物だとしたら、この男は王都を火の海に変えようとしているテロリストの黒幕そのものなのだから。
「あ、すいませーん。そこの通行人さん。なにか落としましたよ」
ヘンドリックは、まるで農村にいる気のいいおっさんのような、全く緊張感のないのんびりとした声を出しながら、石畳に落ちていた黒い布の包みを無造作に拾い上げた。
そして、彼は隣にいたエリーゼ、サンネ、ミラの三人と、ほんの一瞬だけ視線を交差させた。
それは、いつもの面倒くさがりな便利屋の目ではなかった。
フェルウェ大迷宮の最深層で、生きるか死ぬかの極限状態に陥った時にだけ彼が見せる、冷酷なまでに研ぎ澄まされた本物の職人の目だった。




