第37話:絶対零度の修羅場と、救世の妹
「……いない。ボスの気配が完全に消えたんだゾ」
ミラが鼻をヒクつかせ、困惑の声を漏らした。
腰を痛めてヨロヨロと歩いていたはずのヘンドリックが、路地の角を曲がった瞬間に忽然と姿を消したのだ。
実は、ヘンドリックは【隠密Lv1】を極限まで活用していた。
理由は単純だ。街のインフラを直しすぎたせいで、歩くたびに住民から「ヘンドリック様!」「命の恩人!」と土下座せんばかりの勢いで感謝されるのが、恥ずかしくてたまらないからである。
「……ギルドよ。あそこに入っていくのを見たわ」
エリーゼの冷徹な号令の下、三人は殺気を押し殺してギルドへと潜入した。
掲示板の影に隠れ、職員と親しげに話すヘンドリックに聞き耳を立てる。そこには先ほどの受付嬢もいた。
「さっきは助かりました、ヘンドリックさん。あの後、城壁の基礎も完璧に直っていて、マスターも驚いていましたよ」
「いや、お安い御用だよ。仕事の邪魔をして悪かったね」
ヘンドリックが爽やかに笑ってギルドを後にする。
それを確認した直後、三人は飛び出したい衝動を抑え、あえてその場に残った。真実を、職員たちの口から聞き出すために。
「……ねえ、今の彼。ずいぶん手慣れていたけれど、いつもあんな風に女性と……」
エリーゼが、ひび割れたような笑顔で受付嬢に問いかける。
受付嬢は「ええ!」と顔を輝かせ、とんでもない「真実」を語り始めた。
「ヘンドリックさんは本当に凄いんです! 街のボイラーが爆発しそうだった時も、一人で奥まで潜って直してくれましたし、孤児院の雨漏りだって……あ、そういえば今日は王都から可愛い妹さんも来ていたみたいですね」
「…………え?」
三人の動きが止まる。
ボイラー? 雨漏り? そして……妹?
「……どういう、こと?」
「あら、ご存知なかったんですか? ヘンドリックさんは、休日のたびにボランティアで街の修理を回っているんですよ。お礼も受け取らないから、みんな感謝してもしきれなくて。……さっきも私の【魔力枯渇】を【魔力供給Lv1】で治してくださったんです」
崩れ落ちる三人の勘違い。
「浮気」だと思っていたのは「修理」であり、「隠し子」だと思っていたのは「孤児院の子供」であり、「本命の女」は「ただの妹」だった。
「……私たち、何てことを……」
サンネが顔を覆い、激しい羞恥心に震える。
だが、事態はこれだけでは終わらなかった。
「……ううん、まだよ。まだ『腰が抜けるほど凄かった』という女主人の発言の謎が残っているわ」
エリーゼは疑り深く、逃げるように拠点に戻ったヘンドリックを追った。
そして工房の扉を勢いよく開け放つ。
「ヘンドリック! 説明しなさい!」
「うわっ!? み、みんな、どうしたんだい? そんなに殺気立って……」
腰を押さえながらお茶を飲んでいたヘンドリックが、飛び上がって驚く。
そこに、三人の殺気と涙ながらの追及が始まった。
「ボイラーって何なんだゾ! あの女の人と中で何をしてたんだゾ!」
「妹さんって本当なの!? 私たちを騙していたの!?」
「腰が砕けるまで、あの女主人と……何をしていたというの!」
「ええっ!? いや、あれは狭い配管の中で……」
まさに最悪の修羅場。
ヘンドリックが説明しようとするたびに、興奮した三人が言葉を被せ、会話が全く噛み合わない。
その時だった。
「――お兄ちゃん? 何してるの、そんなに囲まれて」
扉の隙間から、先ほどの若い女性――ヘンドリックの妹がひょっこりと顔を出した。
彼女は、美貌のトップランカー三人が兄に詰め寄っている異様な光景を見て、パッと表情を明るくした。
「わあ、お兄ちゃん! もしかして、この人たちが噂の……? 凄い! 昨夜、お兄ちゃんが『みんなが可愛すぎて理性を保つのが限界だ』って日記に書いてた……」
『『『…………ッッッ!!!???』』』
「ちょ、ちょっと待て! それは言っちゃダメだ……っ!」
ヘンドリックが顔を真っ赤にして妹の口を塞ごうとするが、時すでに遅し。
妹の暴露。
そして、「ただの修理」であったというすべての物的証拠。
何より、おっさんが毎晩「魔力枯渇で気絶」していた本当の理由が、「理性を保つための苦肉の策」であったという衝撃の告白。
工房の中には、一瞬にして爆発的な「沈黙」と、その後の「猛烈な熱気」が立ち込めた。
「……ヘンドリック。日記の内容、詳しく聞かせてもらってもいいかしら?」
「ボ、ボス……わたしたちのこと、可愛いと思ってたんだゾ……?」
「理性が限界……。なら、もう無理をしなくてもいいのよ?」
妹という救世主によって最悪の誤解は解けたが、同時に「おっさんの本音」というパンドラの箱が開いてしまった。
便利屋おっさんの平和な夜は、今度こそ物理的に、そして情熱的に、終わりを告げようとしていた。




