第336話:世界樹に問う
魔族領から公爵邸へ戻った一行は、集めた情報を前に、再び行き詰まっていた。
大厄災は倒されたのではなく、封印され、眠らされている可能性が高い。
だが、それが「何」で、「どこに」封じられているのかが分からない。
千二百年前の記録が徹底的に失われている以上、文献からこれ以上を望むのは不可能に思えた。
「ねえ」
沈黙を破ったのは、王家の記録を調べていたベルだった。
「世界樹は、千二百年前にも……ううん、もっとずっと前から、ここにあったんだよね?」
その言葉に、全員の視線が庭の窓へと向けられる。
庭の中央にそびえ立つ、光の世界樹。
世界を支えるこの巨木は、千二百年前の大厄災の時も、確かにそこにあったのだ。
◇ ◇ ◇
ヘンドリックの視線の先で、ドライアドが不思議そうに首を傾げた。
「わかんない。私、生まれたばかりだもん」
「そうだな。お前が受肉したのは、つい最近のことだ」
ヘンドリックは、少しほっとしながら答えた。
この幼い精霊に、千二百年前の絶望的な記憶を覗き込ませるような真似は、できることならしたくない。
だが、ドライアドは少し考えてから、こう続けた。
「でも、世界樹は覚えてるかも。私は、世界樹の一部だから……奥の方を探せば、見つかると思うの」
その提案に、ヘンドリックは眉をひそめた。
世界樹の記憶には、当然、厄災の恐怖も含まれているはずだ。
泣かせない、不安にさせないと約束したばかりなのに、自らトラウマを掘り起こさせるわけにはいかない。
「やめておこう。もし苦痛を伴うようなら……」
「やるの」
ドライアドが、その服の裾をぎゅっと掴んだ。
「パパたちが、また怖い顔して、どこかに行っちゃう方が嫌なの」
小さな瞳に、確かな決意が宿っている。
「私も、一緒に調べる」
ヘンドリックは小さく息を吐き、その頭を撫でた。
この子は、置いていかれる痛みを知ってしまったのだ。自分がそう教えてしまった。
「……分かった。だが、少しでも無理だと感じたら、俺がすぐに止める。いいな」
「うんっ」
◇ ◇ ◇
一行は、庭の世界樹の根元に集まった。
役割を確認する。
ドライアドが世界樹への「入口」を開く。
世界樹と感応する力を持つエルフのセリアが「記憶の読み取り」を担い、ハイエルフのエリーゼが二人の「精霊力と魔力の安定」を制御する。
そして、ヘンドリックの役目は、三人をつなぐこと。
三十六歳になって取得した、三十六個目のスキル。
【同調Lv1】。
それ単独では、他者のスキルにほんの微弱な魔力を流し込み、少しだけ調子を良くする程度の支援スキルに過ぎない。過去を見る力も、世界樹を操る力もない。
誰も選ばないような、地味なレベル1だ。
だが。
膨大な魔力を三等分して流し込み、それぞれの技能の波長を合わせる「軸」として使えば、話は変わる。
「行くぞ」
ヘンドリックを中心に、四人の魔力が一本の糸のようにつながった。
異なる能力を持つ者たちの、小さな力を重ね合わせる。
それはまさに、エルフの里の訓練場で示した「第三の道」の実践だった。
◇ ◇ ◇
ドクン、と。
頭の中に、巨大な脈動が響いた。
流れ込んでくるのは、断片的な映像と、圧倒的な感情の残響。
燃える空。
空間が黒く裂け、そこから這い出してくる無数の何か。逃げ惑う人々の絶望。
裂け目の奥に潜む巨大な何かを押し返すため、極限まで高められた魔法の光が、幾筋も放たれる。
十へ至った者たちの、命を燃やすような大火力。
――ああ、これか。
ヘンドリックは、朦朧とする意識の中で理解した。
あれは確かに、Lv10でなければ届かない。低出力の攻撃をいくら重ねたところで、あの裂け目には触れることすらできないだろう。
それでも足りず、古代の魔王と思しき巨漢が、血を吐きながら倒れ伏す。
その背後で、世界樹の根が光の網となり、空の裂け目を縫い合わせようと蠢いていた。
だが、一部の根が、黒く染まっていく。
光を放ち続けていたエルフたちの何人かが、自らその黒い根に身を投じ、闇を引き受けた。
――あれが。
最後に、黒く染まりきった根が、光の世界樹から刃のような魔法で切り離される。
切り離される瞬間、彼らは何かを叫んでいた。声は届かない。だが、その顔は、恨みでも絶望でもなかった。
映像はそこで乱れ、視界が闇に包まれる。
その闇の奥。
裂け目の向こう側にいる「厄災の本体」の姿だけが、まるでそこだけを黒く塗りつぶされたように、認識できない。
ただ、塗りつぶされた闇の奥から、心臓の鼓動のような低い音が響いてくる。
――生きている。
「っ……!」
ドライアドが、苦痛に顔を歪めた。
「痛いの……! 世界樹が、怖がってる……っ!」
その悲痛な叫びを聞いた瞬間、ヘンドリックは迷わず魔力の供給を断ち切り、【同調Lv1】を強制解除した。
◇ ◇ ◇
ふつりと映像が途切れ、庭の静寂が戻る。
「はぁっ、はぁっ……!」
感応を解かれたセリアが、その場にへたり込み、アレンが慌てて抱きとめた。
「セリア!」
制御を担っていたエリーゼも顔面を蒼白にさせ、ふらついた体をサンネがしっかりと支える。
「エリーゼ殿、しっかりしろ!」
「……失礼、しました。わたくしとしたことが……」
エリーゼは荒い息を吐きながらも、サンネの腕の中でどうにか気丈に振る舞おうとする。
少し離れた場所で見守っていたルミナリアも、顔色を悪くして扇子を持つ手を小刻みに震わせていた。
「……わらわは、見ておっただけじゃぞ。それでも、あの空気は」
ヘンドリックは、へたり込んだドライアドの背中を、ゆっくりと撫でた。
「よく頑張った。……もういい。もう見なくていい」
ドライアドは小さく震えながら、その服の胸元をぎゅっと握りしめた。
そして、涙目のまま見上げて、告げる。
「パパ。あれ……いなくなってないの」
その言葉が、重く響いた。
「ずっと、遠くで……眠ってるの。でも、すごく怖いの」
大厄災は実在した。
そして、倒されたのではなく、どこかに封じられている。
世界樹の記憶が、その恐るべき事実を証明していた。
『……眠っているだけ、か』
ヘンドリックは、庭にそびえる巨木を見上げた。
千二百年。この樹は、たった一人で、恐怖を抱えたまま立ち続けていたのだ。




