第335話:ミラの父と、継がれなかった記憶
エルフの里の訓練場で、低レベル技能の連携という第三の道が存在することを証明した後。
一行はマジカの提案に従い、次なる目的地へと向かっていた。
目指すは魔族領。ミラの父親であり、かつての魔王でもある獣人族長を訪ねるためである。
長距離の移動手段は、相変わらず地中を進む巨大なワームだった。
◇ ◇ ◇
「がはは! 久しいのう、婿殿! 今日は拳で語るか!?」
魔族領の奥深く、獣人たちの集落に到着するなり、族長は豪快な笑い声を上げて出迎えた。
身長二メートルを超える筋肉ダルマのような巨躯が、地響きを立てて迫ってくる。
「いや、今日は大事な話を聞きに来た」
ヘンドリックが素っ気なく断ると、族長は「つまらんのう」とぼやいた。
そして、いきなり殴りかかると見せかけて、超高速のじゃんけんを仕掛けてくる。
ヘンドリックも反射的にパーを出して応じた。獣人の流儀である。互いに無言のまま、数手のじゃんけんで語り合う。
「お父さん! 今日は本当に真面目な話なんだゾ!」
見かねたミラが、銀色の尻尾を逆立てて一喝した。
◇ ◇ ◇
族長の私室に通された一行は、これまでの調査結果と、エルフの長老が残した告白文の内容をかいつまんで説明した。
千二百年前、エルフたちは大厄災から世界樹を守るため、自らを犠牲にして闇の力を引き受けた。
ヘンドリックが知りたいのは、本体へ攻撃を届かせるためにLv10の大火力が必要だったという、その大厄災の正体である。
その話を切り出した瞬間、族長の顔から豪快な笑みが、すっと消え失せた。
「……大厄災の名前や姿か。すまぬが、わしも詳しいことは知らんのよ」
腕を組んだ族長は、重々しい声で首を振った。
「だが、歴代の魔王にのみ、口伝として継がれてきた言葉がある。……いや、言葉というより、ただの古い戒めじゃな」
魔族は長命であり、王位は直接の口伝で継がれてきた。
にもかかわらず、明確な歴史ではなく、曖昧な言葉だけが残っているという。
『空が裂けた時、十へ至った者を集めよ』
『あれを倒そうとするな。二度と目覚めさせるな』
その一文を聞いたマジカが、はっと息を呑んだ。
「……族長。それ、魔王城の奥にある、黒い石板の言葉か?」
「いかにも。前後は焼け落ちておって読めんが、代々の魔王が即位する時、必ず先代から直接言い含められるのよ」
「アタシ……ただの古い教訓だと思って、ちゃんと気にしてなかったぞ」
マジカが、己の不甲斐なさを恥じるように、尖った耳を少し赤くしながら呟いた。
無理もない、とヘンドリックは思う。
意味も由来も失われた言葉など、ただの古臭い儀式にしか思えなかったはずだ。魔王になりたての彼女に、その重みを察しろというのは酷だろう。
だが、これで完全に繋がった。
王家の文書。エルフの告白文。そして、魔王に伝わる戒め。
すべてが、千二百年前の一点を指している。
◇ ◇ ◇
「だが、おかしな話じゃと思わんか」
族長が、自身の太い腕をさすりながら言った。
「わしは幼い頃、先代からその言葉を教えられた夜……理由も分からず、一晩中、震えが止まらなかったんじゃ」
その告白に、一行は言葉を失った。
普段はどんな強敵にも怯まず、戦いを娯楽とするようなこの男が、自嘲気味に笑っている。
「何を恐れているのか、自分でもまったく分からん。……じゃが、あの言葉を声に出すと、今でも身体の奥底が『逃げろ』と叫ぶのよ」
ふと見ると、膝に置かれた分厚い手が、微かに震えていた。
あの拳で魔王とガチバトルを繰り広げ、和平の場では単身で凶暴な一団を制圧した男の手が。
「……ボス。お父さんが、怖がってる?」
ミラがヘンドリックの袖を掴み、信じられないものを見るような目を向けた。
普段絶対に怯まない父親の姿に、不安を煽られたのだろう。彼女は耳を伏せ、尻尾を丸めきっている。
「大丈夫だ」
ヘンドリックはミラの頭に手を置いた。だが、その内心は決して穏やかではなかった。
マジカもまた、知らずに放置していた戒めの本当の重さを理解し、青ざめている。
「……アタシも、いつか同じように震えるのか」
「そうなる前に、知っておくべきだろうな」
◇ ◇ ◇
具体的な記憶は、継承されていない。
だが、恐怖の残響だけが、千二百年もの間、魔族の頂点に立つ者たちの魂に刻み込まれ続けていた。
それほどのものだったのだ。名を失い、姿を失い、それでもなお恐怖だけが消えないほどに。
『……あれを倒そうとするな。二度と目覚めさせるな、か』
ヘンドリックは、戒めの後半部分を頭の中で反芻した。
倒そうとするな。
その言い回しが、何より引っかかる。
もし完全に滅ぼしたのなら、そんな言葉は残らない。倒すな、と念を押す必要もない。
エルフたちが自らの姿を変えてまで死守しなければならなかった、世界樹という「封印の要」。
そして、魔王に刻み込まれた「目覚めさせるな」という恐怖の伝承。
すべてが、一つの最悪な結論を指し示している。
『……厄災を、倒したんじゃない』
ヘンドリックは、背筋に冷たいものが走るのを感じながら、心の中で呟いた。
『あいつらは……大厄災を、どこかに封じ込めて、眠らせただけだ』
窓の外では、魔族領の赤い空が、静かに暮れようとしていた。




