第333話:堕ちた守護者たち
石室の空気は、ひんやりと冷たかった。
部屋の中央に置かれた石の台座には、特別な魔法で保護された古い羊皮紙が鎮座している。千二百年前の戦いを直接知る、当時の長老が残した告白文だという。
「……大部分は劣化しておってな。厄災の名前や、どんな姿をしておったのかは、読み取れんのじゃ」
エルディスが、蝋燭の火を近づけながら言う。
確かに、文字の多くはかすれ、所々が黒く焼け焦げていた。
だが、断片的な記述を繋ぎ合わせるだけで、当時の絶望的な状況は十分に伝わってきた。
世界を覆い尽くすほどの、大厄災。
前線では、その厄災本体を打ち払うため、一撃の威力を極限まで高めたLv10の魔法や剣術が、どうしても必要だった。低出力の攻撃をいくら重ねても、本体には届かなかったのだ。
一方、エルフたちに与えられた役目は、後方支援だった。
世界樹は、何らかの巨大な「封印」を支える要であり、彼らはその要を死守しなければならなかった。
◇ ◇ ◇
「じゃが、防衛は限界を迎えた」
エルディスが、重苦しい声で先を続ける。
「厄災の力が、世界樹の一部の根に侵入したのじゃ。そこから全体を汚染しようとする毒と、無数に押し寄せる眷属の群れ。……長く戦うための力しか持たぬエルフでは、到底支えきれなくなった」
羊皮紙には、その時の決断が記されていた。
防衛線を突破されれば、世界樹は完全に汚染され、封印は崩壊する。
そこで、一部のエルフたちが名乗り出た。
彼らは、侵食されつつあった根の闇を、自らの体へと引き受けたのだ。
汚染された闇の力を使い、押し寄せる眷属をなぎ払うために。
「彼らは……世界樹と、同胞を守り抜いた」
エルディスの声が、震えた。
「じゃが、その代償として、肌の色が変わり、魔力の性質も変質してしまった。二度と、元の姿には戻れなくなったのじゃ」
さらに、悲劇は続く。
彼らが抱え込んだ闇が、再び光の世界樹へ逆流しないよう、汚染された根ごと、彼らを世界樹から切り離す必要があった。
隔離である。
彼らは切り離された黒い根を伴い、光の届かない遠い土地へと去っていった。
「その、切り離された根が……」
セリアが、震える声で呟く。
「……おそらく、それが現在の『闇の世界樹』の起源じゃろうな」
◇ ◇ ◇
最初の隔離には、世界樹の再汚染を防ぐという、切実で悲痛な理由があった。
だが、世代が変わるにつれ、事態は歪んでいく。
「我らの祖先は、彼らを英雄として語り継ぐべきだった」
エルディスが、苦しげに目を閉じる。
「じゃが、残された者たちは、彼らの異形の姿を恐れた。そして……犠牲を強いたことへの罪悪感に、耐えられなくなった」
人は、自らの後ろめたさに耐えられない時、相手を悪者にしてしまうことがある。
「恐怖と後ろめたさを隠すため、いつしかエルフは、彼らをこう呼ぶようになったのじゃ」
老いた長老は、言葉を絞り出した。
「……『闇へ寝返った裏切り者』と、な」
自分たちを守るために、すべてを捧げた者たちを。
裏切り者として、歴史から追放した。
それが、千二百年以上もの間、エルフが隠し続けてきた大罪だった。
◇ ◇ ◇
「……わたくしたちは」
エリーゼが、崩れ落ちるように両手で顔を覆った。
「わたくしたちは……自分たちを守ってくださった方々を、裏切り者と、呼び続けてきたのですか」
透き通るような白い頬を、大粒の涙がとめどなく伝い落ちる。
長い時を生き、誇り高く在り続けた彼女にとって、自らの種族が犯した忘恩は、身を裂かれるほどの屈辱と悲しみだった。
「……失礼、しました。お見苦しいところを……」
いつもの言葉を口にしようとして、しかし今度ばかりは、それが役目を果たさなかった。
言い終える前に、嗚咽が漏れる。
だが、その涙を咎める者は、この場に誰一人としていなかった。
サンネが痛ましげに目を伏せ、そっと彼女の背に手を添える。
セリアは言葉を失ったまま立ちすくみ、その肩を、アレンが無言でしっかりと支えていた。
「……すまぬ」
エルディスが、深く頭を下げた。
「わしも、この石室を開ける勇気を持てぬまま、長老の座に就いておった。……お主らが来てくれねば、わしはこの罪を、次の代へ黙って押し付けておったじゃろう」
◇ ◇ ◇
『……切り離した、根』
ヘンドリックは、羊皮紙のその一文から目が離せなくなっていた。
光の世界樹と、闇の世界樹。
二つの木は、最初から光と闇、善と悪として、別々に存在していたわけではない。
『元は、一本だったのか』
世界を支える大樹は、あの大厄災の時、痛みとともに引き裂かれた。
ならば、ダークエルフたちが今も闇の世界樹に執着する理由は、決して悪意などではないのだろう。
あれは彼らにとって、呪いの象徴であると同時に――祖先が命を懸けて守り抜いた、故郷の欠片なのだ。
『……救えたかもしれないのにな』
千二百年。
あまりにも長い時間が、両者の間に横たわっていた。
歴史の真実が、重く重く、その場にいる者たちの肩にのしかかっていた。




