第330話:当たり前の異常
帰還から数日後。
公爵邸の庭に、一番弟子のブラムと恋人のロッテ、そして新生・魔術師ギルドの若手冒険者たちが数名、訪ねてきていた。
「師匠! 見てくれよ、この前の誕生日で俺も二十四になったからな。新しく【風魔法Lv1】を取ったんだぜ!」
ブラムが得意げに剣を振るうと、太刀筋に合わせて微風が巻き起こる。
風Lv1そのものには、魔物を切り裂くような殺傷能力はない。だが、彼の主戦力である火魔法の向きを制御し、煙を払い、踏み込みの速度を底上げするには、充分すぎる補助となっていた。
「いやあ、実戦が段違いに安定するようになったぜ。大技をぶっ放さなくても立ち回れるから、魔力も温存できるしな」
「はい。私も浄化や水、罠、隠密などの低レベル技能を組み合わせることで、高火力の方々にはできない後方支援を担えるようになりました」
ロッテも控えめに、だが確かな自信を持って頷く。
他の若手たちも口々に、鑑定Lv1、索敵Lv1、気配察知Lv1などを一つか二つ加えた結果、奇襲や罠による負傷が劇的に減ったと報告した。
「正直、なんで今まで誰もやらなかったんだって思いますよ」
若手の一人が、何気なくそう漏らした。
◇ ◇ ◇
「なるほど。実証試験のデータは、素晴らしい結果を出しています」
庭のテーブルに記録の束を広げながら、シリルが眼鏡を押し上げた。
低レベル技能を組み合わせた班は、最大火力こそ高レベル特化の者たちに劣る。しかし、討伐にかかる時間、魔力消費量、撤退判断の正確さ、そして何より生還率の向上が著しいという。
「ただ、誤解しないでいただきたいのは、彼らが閣下と同じように三十六個の技能を扱えるわけではない、ということです」
シリルの言葉に、ヘンドリックは頷いた。
彼が多数の技能を同時並行で使いこなせるのは、二十年間に及ぶ毎晩の魔力枯渇訓練で培った七千超の魔力量と、失敗を重ねて得た複合運用の経験があるからだ。
三十六歳にもなって、相変わらず地味なことの積み重ねである。
「三十五だ」
「……はい?」
「俺は三十五歳だ。そこは間違えないでくれ」
訂正を入れると、横で聞いていたベルが呆れたようにため息をついた。
「お兄ちゃん、いい加減認めなよ。この前の誕生日で三十六歳になったでしょ?」
「あれは記憶にない」
「またそれ!?」
「長い時を生きるエルフから見れば、一年の違いなど誤差ですわ」
エリーゼが紅茶を注ぎながら、涼しい顔でえぐってくる。
「アタシに年齢のこと言えた義理かよ……だぞ」
エプロン姿のマジカがジト目で睨んでくる。尖った耳が少し赤いのは、魔王なのに完全に家庭的になっている自分への照れ隠しだろうか。
「まあ、年齢の件は置いておきましょう。重要なのは、そこではありません」
シリルが咳払いをして、話を強引に戻した。
◇ ◇ ◇
「つまり、閣下の強さそのものは簡単に真似できなくとも、『高レベル一つだけが正解ではなく、低レベル技能の組み合わせにも価値がある』という発想は、誰にでも再現可能だということです」
シリルはそこで一度言葉を切り、資料を置いた。
「……そこで一つ、恐ろしい疑問が生じます」
その声が、一段低くなる。
「これほど簡単な改善を、なぜ千年以上、誰も広めなかったのでしょう?」
その問いに、庭にいた全員が沈黙した。
それぞれが、自分の生きてきた世界の常識を、初めて疑うような顔をしていた。
「王家の教育でも、一つの力を十まで高めてこそ一流だと教わったのじゃ。……誰もそれを疑わなんだ。わらわもな」
ルミナリアが扇子を口元に当てながら呟く。
「騎士団も同じだ。剣術Lv10に至ることこそが、昇進と尊敬の基準だった」
サンネが腕を組み、険しい表情で同意する。武人である彼女にとって、それは疑いようのない真理だったはずだ。
「獣人族も、分かりやすく一つ強い力を持ってるやつが偉いんだゾ。小賢しい技より、ドカンと殴れるほうが評価されるんだゾ」
ミラが銀色の耳を伏せながら言う。
「魔族も高レベル至上主義は変わらねぇぞ」
マジカも肩をすくめた。
種族も、国も、文化も、まったく違う。
それなのに、彼女たちは全員、同じ常識を共有していた。
「……わたくしもですわ」
エリーゼが、静かに続けた。
「エルフには『力を高く積むな、長く続く力を選べ』という口伝があります。わたくしはそれに従い、Lv5前後の構成を選びました。……ですが」
彼女は、自分の掌を見つめた。
「Lv1を大量に取るという発想には、一度も至りませんでした。長く生きて、多くの冒険者を見てきたはずのわたくしが、です」
◇ ◇ ◇
理由は、実は単純だった。
一度取得した技能は、通常、取り消すことができない。
もし幼い頃に低レベル技能ばかりへポイントを振れば、周囲から半端者の烙印を押され、騎士団やギルドで出世する道を絶たれる危険がある。
理屈の上では選べても、人生を賭けて最初に試す者が現れない仕組みに、社会全体がなっていたのだ。
ヘンドリックだけが、その仕組みの外にいた。
スラムに生まれ、出世も評価も端から縁がなく、ただ「明日を生きるために必要なもの」を取り続けるしかなかったから。
『……世界の理が、俺だけを特別扱いしたわけじゃない』
ヘンドリックは、心の内で呟いた。
『俺たちが、世界の理を勝手に狭く解釈していただけだ』
人々が「高レベルこそが唯一の正解」と思い込み、自分たちで選択肢を狭めていた。
存在しない鎖に、縛られていたのだ。
◇ ◇ ◇
シリルが、静かに問うた。
「では……この常識は、いつから始まったのでしょう」
誰も、答えることはできなかった。
当たり前だと思っていた世界の形が、足元から音を立てて崩れていくような感覚。
「調べる価値はありますわね」
エリーゼが顔を上げる。
「わたくしたちが縛られてきた鎖が、どこから来たのか」
ヘンドリックは、庭に茂る世界樹を見上げた。
この巨木は、千年以上前からここにある。
もし、この常識にも始まりがあるのなら――それを知っている者が、まだどこかにいるかもしれない。
『……見えない鎖の、根元を確かめないとな』




