第322話:三十六歳の誕生日、あるいは何でもない日
屋敷を覆う重い緊張を嫌って、妻たちとベルが中心となり、「二回目の誕生日会」が強行開催された。
「三十六歳、おめでとう、お兄ちゃん」
「……三十五だ」
「まだ言うの!?」
呆れるベルをよそに、エリーゼが涼しい顔で紅茶を差し出す。
「認めていただくまで、毎年二回お祝いしますわ」
「やめろ。祝われる回数が増えるだけだろう」
「あら。旦那様が三十六とお認めになれば、一回で済みますのよ」
完全に外堀を埋められている。
マジカが耳まで真っ赤にしながら、腕によりをかけたご馳走をテーブルに並べた。
「ほら、冷めないうちに食え」
「……悪いな」
「べ、別に。作りたかっただけだ」
そっぽを向くマジカの尖った耳が、赤いまま揺れている。
ドライアドが世界樹の葉を編んだ冠を掲げて駆け寄ってきた。
「パパ、これあげる! かぶって!」
「……なんだこれは」
「王様の冠なの! パパ、王様みたい!」
「重い意味を持たせるな」
苦笑しながら冠を被らされるヘンドリックに、リビングが笑いに包まれる。
サンネが真面目な顔で「閣下、よくお似合いです」と言い、ミラが「ボス、王様なんだゾー!」とはしゃぎ、ルミナリアが「本物の王族の前で王様ごっことは、良い度胸じゃのう」と扇子で口元を隠して笑った。
◇ ◇ ◇
温かな笑い声と、確かな平穏。
だが、その輪にいる全員が、心の中で警戒の刃を研いでいた。
敵の目的がヘンドリックであると判明した以上、この家は戦場の最前線と化す。それを、誰もが理解していた。
「閣下」
サンネが、剣の柄に手を当てて静かに誓った。
「何があろうと、私が盾になります」
「わらわも王家の力を総動員するのじゃ」
ルミナリアが胸を張る。
「近衛を回してもよい。ヴァレリウス公にも話は通してある」
「アタシもいるぞ。魔族領との連携も取れる」
「ミラも戦うんだゾ! ボスを守るんだゾ!」
口々に、守ると言ってくれる。
その言葉の一つ一つが、確かに嬉しかった。
だが。
『……こいつらが狙われるのは、俺がここにいるからだ』
ヘンドリックの瞳に、わずかな陰りが落ちた。
誰も、それに気づかなかった。
いや――エリーゼだけが、静かに彼を見ていた。
◇ ◇ ◇
その夜。
寝静まった庭で、ヘンドリックは一人、世界樹を見上げていた。
葉擦れの音だけが響く。回復した世界樹は、夜でも淡く輝いている。
『……この屋敷は、俺がいる限り狙われ続ける』
実験体にされた者たちのことを思う。人為的にレベルを弄られ、壊れた人形のようになった、あの哀れな者たち。
あれが、この屋敷の誰かの姿になったら。
エリーゼが。サンネが。ミラが。ルミナリアが。マジカが。ベルが。
考えるだけで、腹の底が冷たくなった。
かつて、アイシャを守れなかった。力が足りず、彼女に重傷を負わせたと思い込み、逃げ出した。
あれから三十年近く経った。力はついた。公爵にもなった。
だが、根本のところで、自分は何も変わっていないのかもしれない。
『今度は……逃げるんじゃない。片をつけに行くだけだ』
自分にそう言い聞かせる。
これは逃避ではない。守るための選択だ。皆を巻き込まないための、最も合理的な判断だ。
――本当にそうか、と胸の奥で誰かが囁いた気がしたが、ヘンドリックはそれを黙殺した。
背後で、小さな足音がした。
「パパ、まだ起きてるの?」
振り返ると、世界樹の枝からドライアドが顔を出していた。
「……お前こそ、寝ろ」
「パパが起きてるから」
ドライアドはするりと降りてきて、ヘンドリックの隣に立った。
「ねえ、パパ」
「なんだ」
「どこにも行かない?」
ヘンドリックは、一瞬、言葉に詰まった。
「……なぜ、そんなことを聞く」
「わかんない。でも、そんな気がしたの」
精霊は、時に人の心の揺れを、風のように感じ取る。
ヘンドリックはドライアドの頭に手を置き、静かに嘘をついた。
「……行かないさ」
男の胸中で、重大な決断が固まっていた。




