第319話:静かな異変と、認めない年齢
朝の陽光が差し込む公爵邸のリビングに、明るい声が響いた。
冒険者ギルドの報告書を届けに屋敷を訪れたベルが、テーブルの上の公務書類に目を留めて、不思議そうに首をかしげたのだ。
「お兄ちゃん、これ間違ってるよ。もう三十六でしょ」
指さされた書類には、『ヘンドリック公爵・三十五歳』と端正な字で記されている。
ヘンドリックは手元の書類から目を逸らさず、淡々と返した。
「……三十五でいい」
「よくないよ。誕生日、私が祝ったでしょ」
「記憶にない」
「記憶にないわけないでしょ! ケーキ食べたじゃん! ろうそくも吹き消したじゃん!」
頬を膨らませて抗議するベルの隣で、お茶を注いでいたエリーゼが静かに微笑む。
「旦那様。わたくしたちエルフから見れば、三十五も三十六も誤差ですけれど」
的確すぎる一刺しに、ヘンドリックの眉がわずかに動いた。
さらに厨房から顔を出したマジカが、呆れたように肩をすくめる。
「お前、アタシに年齢のこと言えた義理か?」
「……お前のは桁が違うだろう」
「うるさい」
険悪になりかけた空気を、ミラの明るい声が吹き飛ばした。
「ボスは何歳でもボスなんだゾ!」
尻尾をぶんぶん振りながらの、まったく計算のない一言である。ヘンドリックは深く息を吐いた。
『……なぜ、こんなに責められている』
◇ ◇ ◇
話題が一段落した頃、執務の資料を抱えたシリルが、眼鏡の位置を直しながら問いかけた。
「そういえば閣下。三十六歳分のポイントは、もう取得されましたか」
何気ない確認だった。
「取っていない。保留だ」
その一言に、リビングにいた全員が目を見張った。
ヘンドリックという男は、これまで生き延びるために必要なスキルを、迷いなく即座に取得し続けてきた。三十五個のレベル1は、その積み重ねの結果だ。彼が一ポイントを温存するなど、誰も見たことがない。
「なぜですか」
「……なんとなく、今は使わないほうがいい気がしている」
その理由になっていない理由に、しかし誰も笑わなかった。
彼の勘は、これまで幾度となく死地を覆してきた。理屈で説明できない何かを感じ取り、それが常に正しかった。
暖かかったリビングの空気が、わずかに引き締まる。
エリーゼが扇子を閉じ、静かに尋ねた。
「……何か、感じておられるのですか」
「分からん。ただ、妙な感じがするだけだ」
ベルが心配そうに兄の顔を覗き込んだ。
「お兄ちゃんのその『妙な感じ』、当たるんだよね」
「……当たってほしくはないがな」
サンネが黙って剣の手入れを始め、ミラの耳がぴんと立った。この屋敷の者たちは、主の勘というものを誰よりも信用している。
◇ ◇ ◇
その言葉を裏付けるように、屋敷の扉が勢いよく開かれた。
青ざめた表情のセリアが、息を弾ませて駆け込んでくる。
「世界樹が……怯えています」
アレンが即座に観測記録の水晶を広げた。
「この数日、世界樹の魔力循環に微細な乱れが生じています。外部からの干渉ではありません。……これは、怯えの反応です」
まるで、遥か遠くから何者かが世界樹を執拗に「観測」しているような。冷たい視線の痕跡だけが、そこに残されていた。
ドライアドがセリアのスカートの陰に隠れながら、不安そうに震えている。
「誰かが、見てるの。ずっと」
「いつからだ」
「わかんない。でも……ずっと前から。世界樹が元気になった頃から、ずっと」
ヘンドリックは窓の外の樹影を見上げ、鋭く目を細めた。
黒幕を倒し、和平を成し、世界樹は回復した。すべて片付いたはずだった。
だが、何かが、まだ終わっていない。
『……勘が当たったな。何かが動き始めている』
温存した一ポイントの意味が試される時が、すぐそこまで迫っていた。




