第318話:ミラと、父のいない日
よく晴れた昼下がり。
中庭の芝生で日向ぼっこをしながら、ミラはふと、獣人族の里のことを思い出していた。
彼女の父である獣人族長は、圧倒的な力で里の皆に慕われる、偉大な存在だ。
拳で語り、豪快に笑い、誰よりも強い。里の者は皆、彼を畏れ、そして敬っていた。
だからこそ。
ミラ自身は、ずっと「族長の娘」としてしか見られてこなかった。
里の誰もが、彼女を見ると「族長のお嬢さん」と呼んだ。何をしても「さすが族長の娘だ」と言われ、失敗すれば「族長の顔に泥を塗るな」と諭された。
父を誇りに思っている。それは本当だ。
けれど、時々、寂しかった。
自分は、誰かの娘であること以外に、何かあるのだろうか、と。
◇ ◇ ◇
しかし、この公爵邸に来て、彼女は初めて「ミラ」として扱われた。
ボスであるヘンドリックは、自分を獣人だからでも、族長の娘だからでもなく、ただのミラとして見てくれた。
昼寝をしていれば毛布をかけてくれる。悪さをすれば普通に叱る。頑張れば頭を撫でてくれる。
そこには、族長の娘への遠慮も、獣人への偏見も、何もなかった。
その温かい事実を、うまく言葉にできないまま――ミラは庭を歩いてきたヘンドリックを見つけて、思い切りじゃれついた。
「うおっ」
「ボース!」
「どうした、今日はやけに甘えるな」
「なんでもないんだゾ」
ミラはヘンドリックの腕にぶら下がりながら、尻尾をぱたぱたと揺らした。
「ただ、ボスがボスでよかったって思っただけなんだゾ」
少し面食らうヘンドリックを見上げて、ミラは心底嬉しそうに笑った。
「ミラね、ここに来て初めて『ミラ』になれたんだゾ」
その無邪気な言葉の奥にある重みに気づいて、ヘンドリックは少しだけ目を見開いた。
族長の娘としてではなく、獣人としてでもなく。
ただ一人の「ミラ」として見てもらえること。この娘にとって、それがどれほど得難いものだったのか。
「……そうか」
ヘンドリックは、それ以上何も言わなかった。
ただ、大きな手で優しく頭を撫でてやると、ミラは幸せそうに目を細めて、小さく喉を鳴らした。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
執務机に向かうヘンドリックは、静かに手紙を書いていた。
宛先は、獣人族長。
和平交渉での礼、その後の魔族領の様子、そして次に会う時はまた高速じゃんけんで語り合いたいという冗談を、几帳面な字で綴っていく。
そして、最後に一行だけ、こう書き添えた。
『娘さんは、元気にやっている。……立派に、ミラをやっている』
余計な修飾はない。
だが、その短い一文には、不器用な男なりの深い敬意と、確かな愛情が込められていた。
窓の外では、世界樹の枝葉が、静かな夜風に穏やかに揺れていた。




