第317話:イリスと闇の商人と、名前のない祝日
裏稼業が長かった闇の商人は、自分の誕生日というものを、誰にも言えずに生きてきた。
情報屋という仕事柄、自分の素性は隠しておくに越したことはない。名前も、出身も、年齢も、すべて曖昧にしておく。それが、この稼業で長く生き延びるための知恵だった。
そもそも、祝われた記憶すら、ほとんどない。
彼にとって誕生日とは、ただ「今年も生き延びた」という事実を、一人で静かに確認するだけの日だった。
だが。
イリスの観察眼は、誤魔化せなかった。
無表情で、口数も少ないこの女は、誰よりも周囲をよく見ている。
◇ ◇ ◇
ある日の夕方。
仕事を終えた闇の商人が自室に戻ると、そこには、淡々と、しかし完璧な段取りで用意された、ささやかな祝いの席があった。
小さなケーキ。彼の好きな銘柄の酒。そして、控えめな飾り付け。
部屋の中央に、イリスが無表情のまま立っていた。
「な、なんで俺の誕生日を知ってるんすか!?」
「調べました。私は、そういう仕事もできますので」
「怖いっす! 嬉しいけど怖いっす!」
驚愕して後ずさる闇の商人に、イリスは淡々と紅茶を勧めた。
「座ってください。冷めます」
「あ、はい……」
妙な迫力に押されて、彼は素直に席についた。
◇ ◇ ◇
ケーキを口に運びながら、闇の商人は、こみ上げてくるものを必死に堪えていた。
誰かに祝われる誕生日というのは、こんな味がするのか。
「……ありがとうございます。その、なんつーか……嬉しいっす」
「そうですか」
イリスは表情ひとつ変えない。しかし、彼女が用意した席の細部には、彼の好みが完璧に反映されていた。
少し落ち着きを取り戻した闇の商人は、ずっと気になっていたことを、思い切って切り出した。
「……あの。この間の『ゲット』って、どういう……」
少し前、彼女が言い放ったあの一言である。
「私が、ゲットしてますから」と。
あれ以来、彼はずっとその意味を測りかねていた。
「言葉の通りです」
「だから、どういう意味っすか!?」
「そのままの意味です」
「解説を! 解説をくださいっす!」
食い下がる闇の商人に、イリスはふいと目を逸らした。
無表情なままだ。表情筋は一ミリも動いていない。
だが、よく見ると――彼女の耳が、ほんの少しだけ、赤く染まっている。
「…………」
それに気づいた闇の商人は、顔を真っ赤にして、完全に固まってしまった。
「あ、あの、イリスさん、それって……」
「紅茶のおかわりはいかがですか」
「話を逸らしたっすね!?」
◇ ◇ ◇
『……あいつら、そういうことか』
少し離れた廊下から、その様子をたまたま目撃してしまったヘンドリックは、やれやれと肩をすくめた。
情報収集にかけては大陸随一の情報屋と、あらゆる裏方仕事をこなす有能な実務家。
周囲はとうに気づいているというのに、この有能なはずの二人だけが、肝心なところで、いつまでも噛み合っていないのだった。
『……まあ、あいつらのペースがあるんだろうな』
ヘンドリックは、見なかったことにして、静かにその場を立ち去った。




