第312話:不器用な騎士と、平時の甘え方
翌日の昼下がり。公爵邸の鍛錬場で、専属騎士のサンネは一人、悶々としていた。
彼女の脳裏にあるのは、昨夜、エリーゼがヘンドリックと自然に寄り添っていた光景だ。
自分だって、想いの強さは誰にも負けていない。いざという戦場や、夜の二人きりの時間になれば、身も心も、すべてを預けることができる。
……なのに、なぜ昼間、ただ隣に座ったり、手を繋いだり、寄りかかったりといった些細なことが、どうしてもできないのか。
武人として、剣一筋に生きてきたサンネには、平時の情緒的な甘え方というものが、まるで分からなかった。どう振る舞えばいいのか考えるほど、体が硬くなってしまうのだ。
その歯がゆさを抱えきれず、彼女は通りかかったベルに、思い切って相談を持ちかけた。
「ベル殿。その……普段から、こう、甘える、というのは、どうすればいいのだ。私は、どうも、平時が苦手で……」
真っ赤になって俯くサンネを微笑ましく思いながら、ベルは優しくアドバイスをした。
「サンネさんって、いざという時は素直なのに、普段が硬すぎるんですよ。もっと肩の力を抜いて、日常でも甘えていいんです。難しく考えず、『そばにいたい』って、素直に伝えるだけでいいんですよ」
その言葉を聞いた瞬間、サンネの顔つきが、キリリと真剣なものに変わった。
「……肩の力を抜く。素直に伝える。承知した」
完全に、任務として受領した顔だった。
そこから、サンネの暴走が始まった。平時の甘えを、あろうことか戦闘の作法で遂行しようというのだ。
書斎で書類を片付けていたヘンドリックの前に立つと、彼女は直立不動で、高らかに宣言した。
「閣下! 本日より、平時における甘え、これを遂行する! お覚悟を!」
「……平時の甘えに、覚悟を宣言するな」
たじろぐヘンドリックをよそに、サンネは行動を開始する。
まずは隣に座ろうとしたが、なぜか微動だにせず、正座で直立不動の姿勢を取った。
「これが……リラックス、だな?」
「全く力が抜けていないぞ」
「ならば、次だ。手を、繋ぐ。……これは訓練の一環だ。決して照れてなどいない」
凛々しく言い放つが、差し出された手は、小刻みに震えている。
さらに、そっと寄りかかろうとした結果、力加減が全く分からず、思いっきり体当たりをする形になった。
「ぐっ……す、すまん、力加減が……!」
「……お前、俺を暗殺しに来たのか?」
「ち、違う! 昼間に、二人で、その、まったりと過ごすと聞いた。まったり、とは、具体的に、どういう陣形を取ればいいのだ?」
「陣形はいらん」
夜はあんなに素直になれるのに、昼間の、この体たらく。サンネ自身が誰よりも、その落差に歯がゆさを募らせていた。
顔は茹でだこのように真っ赤で、額には汗まで浮かんでいる。それでも、彼女は必死だった。
「くそ……! 戦場では、何ものも恐れぬこの私が……なぜ、ただ隣に座るだけで、こうも……!」
最初はたじたじだったヘンドリックも、その姿を見ているうちに、途中で気がついた。
これは、この不器用な女騎士が、普段は見せられない気持ちを、精一杯、勇気を振り絞って伝えようとしている姿なのだと。
ヘンドリックは、ふっと表情を緩めた。そして、悪戦苦闘するサンネの頭に、ぽんと手を置いた。
「……もういい。そんなに気負うな」
「し、しかし、私は、平時の甘えを、まだ完遂できて……」
「戦場でも、夜も、お前は全部預けてくれるだろう。……でも、昼間は、ただ隣にいるだけでもいいんだ。何もしなくていい」
ヘンドリックは、優しく微笑んだ。
「お前が、そばにいたいと思ってくれる。それだけで、俺は十分だ」
二人の関係を、すべて分かった上でのその言葉に、サンネはぴたりと固まった。
「……っ、そ、そういうことを、さらりと言うな! ずるいぞ、閣下!」
顔を真っ赤にして、両手で覆い隠す。だが、その指の隙間から覗く表情は、とても嬉しそうだった。
そして、ようやく肩の力を抜くと、彼女はぎこちないながらも自ら、そっとヘンドリックの隣に座り直した。
肩が触れるか触れないかの、わずかな距離。それが、今のサンネの精一杯の甘えだった。
少し離れた物陰から、その一部始終を見ていたベルが、くすくすと笑う。
「……あれで伝わるんだから、二人とも不器用ですね」
その隣で、エリーゼも扇子で口元を隠しながら、優しく微笑んだ。
「戦場では誰より勇敢なのに、こういう時だけ形無しですのね。……可愛らしいこと」




