第311話:留守を守った人と、言葉にしない寂しさ
魔族領での和平交渉を終え、ヘンドリックたちが公爵邸へ帰還してから、数日が経っていた。屋敷はすっかり、いつもの穏やかな日常を取り戻している。
だが、戻ってきた主を迎える喧騒が落ち着くと、屋敷にはまた、いつもの静けさが戻る。そして、その静けさの中でこそ、普段は表に出ないものが、ふと顔を覗かせることがある。
その日の夜。ヘンドリックが日課である世界樹の様子を見に庭へ出ると、そこには先客がいた。
「……エリーゼか」
月明かりの下、一人静かに世界樹を見上げていたのは、完璧なメイド長であるエリーゼだった。夜露に濡れた銀色の髪が、月光を受けて淡く輝いている。
「旦那様。夜風が冷えますわよ」
エリーゼはいつも通り完璧な微笑みを浮かべ、留守中の出来事を淡々と報告し始めた。
「留守中に小悪党の賊が来ましたが、問題なく処理いたしました。世界樹も健やかに育っておりますわ。屋敷には何も心配は……」
そこまで言いかけて、彼女は言葉を切った。
ヘンドリックはふと気づいた。エリーゼが、世界樹の幹に、いつもより長く、どこか縋るように手を触れていることに。
「……何かあったか」
「いいえ。何も」
「エリーゼ」
ヘンドリックが低く、しかし優しく名を呼ぶ。
少しの沈黙の後、完璧な淑女の仮面が、わずかに崩れた。
「……本当は、心配で仕方がなかったのですわ」
それは、途方もなく長い年月を、たった一人で生きてきた彼女が、ようやく手にした大切なものを失うことを恐れる、一人の女性としての、剥き出しの本音だった。
「あなたが魔族領へ発ってから、この世界樹の前に立つたびに、考えてしまうのです。もし、あなたが戻らなかったら、と。……わたくしは、また一人になってしまうのかと」
かつて、彼女は本当に一人だった。枯れゆく世界樹を救うため、誰も信じられぬまま、途方もない年月を彷徨い続けた。裏切られ、傷つき、心を閉ざして。
その孤独を、ヘンドリックが終わらせてくれた。だからこそ、それを再び失うことが、何よりも怖い。強くなったぶんだけ、失うことへの恐れも、深くなっていた。
完璧に留守を守りきった。賊も退けた。世界樹も守った。誰にも弱音を見せなかった。
だが、その裏で、彼女はずっと、この不安と一人で戦っていたのだ。
ヘンドリックは何も言わず、ただそっと彼女の隣に並び立った。そして、静かに告げた。
「……もう、戻ってきた。ここにいる」
飾り気のない、しかし確かな事実を告げる一言。
その声を聞いて、エリーゼはふっと肩の力を抜き、ヘンドリックの肩に、そっと寄りかかった。
「……ええ。おかえりなさいませ、旦那様」
その一言に、どれほどの安堵が込められていたか。
言葉は少ない。だが、二人の間には、深く満ちた、穏やかな時間が流れていた。もう何年も連れ添った夫婦のような、あるいはそれ以上の、確かな信頼の時間が。
見上げれば、世界樹の枝葉が、寄り添う二人を優しく包み込むように、静かに揺れている。
『……こいつには、敵わないな』
いつも飄々として、誰の前でも動じないこの女性が、自分の帰りをこれほど案じていた。その事実が、じんわりと胸に染みる。
ヘンドリックは小さく息を吐きながら、肩に伝わる確かな温もりを、静かに受け止めていた。




