第309話:和平の第一歩
激しい戦いが終わり、魔族領の荒野に、静かな夜明けが訪れた。
長い夜を越えた朝日が、疲弊した、しかしどこか晴れやかな表情の魔族たちを、優しく照らし出している。
その光の中で、マジカは再び、穏健派と過激派、その両方の魔族たちを前にして、静かに口を開いた。
「聞いてくれ。……アタシたちの憎しみは、誰かに仕組まれたものだった。それは、もう分かったな」
マジカの言葉に、魔族たちが静かに頷く。
「でもな。ここで一つ、勘違いしないでほしいことがある」
彼女は、一人一人の顔を見渡すように、ゆっくりと続けた。
「憎しみが嘘だったからって、これまでの痛みが、失った命が、嘘になるわけじゃねぇ。お前たちが本当に苦しんできたことは、事実だ。それは、消えねぇ」
誰かが、静かに涙を拭った。
「だからこそ、だ。これから、どうするか。人間と手を取るのか、距離を置くのか、それを決めるのは……アタシたち自身だ。誰かに植え付けられた感情でも、命令でもねぇ。アタシたち自身の頭で、考えて決める。それが、本当の自由ってやつだろ」
完全な和平が、この一夜で訪れたわけではない。長い年月をかけて刻まれた溝は、そう簡単には埋まらないだろう。
だが、魔族たちは確かに、その第一歩を――「対話を始める」という選択を、自らの意志で選び取ったのだ。
その様子を見届けて、ルミナリアが進み出た。人間側の代表として、凛とした声で宣言する。
「魔族の同胞たちよ。わらわは、リーゼンブルグ王国の王女、ルミナリアじゃ。人間を代表し、約束しよう。……この和平の橋を、必ずや、両者の手で架けてみせようぞ」
その気高く力強い言葉に、多くの魔族が、深く安堵の息を吐いた。
「もっとも」
ルミナリアは、そこで悪戯っぽく微笑んだ。
「わらわ一人の言葉では、心もとないかもしれぬな。じゃが、案ずるな。この和平には、あの規格外の便利屋も、なりたての魔王も、そして頑固な獣人の族長も、皆が関わっておる。……これ以上に、頼もしい後ろ盾があろうか?」
その言葉に、張り詰めていた魔族たちの間から、初めて、小さな笑い声が漏れた。凍りついていた空気が、少しずつ、和らいでいく。
◇ ◇ ◇
喧騒が少し落ち着いた頃。
獣人族長が、マジカの背中を、豪快にバシンと叩いた。
「がはは! よくやった、小娘! いや……もう、立派な魔王よ!」
「痛ぇな、爺さん! ……でも、まあ、ありがとよ」
マジカが、照れくさそうに鼻をこすった。
そこへ、一人の若い魔族が、おずおずと歩み出てきた。かつて、誰よりも人間を憎み、マジカに牙を剥いていた、あの青年だった。
「……魔王様」
彼は、マジカの前で深々と頭を下げた。
「俺は、あんたを裏切り者と罵った。殺そうとした。それなのに、あんたは俺たちを見捨てなかった。……本当に、ありがとう」
「顔を上げろよ」
マジカは、少しだけ困ったように笑った。
「アタシは、大したことはしてねぇ。ただ、お前らに死んでほしくなかった。それだけだ」
その飾らない言葉に、青年の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
マジカは照れくさそうに顔を背けたが、その尖った耳は真っ赤に染まり、そして――どこか誇らしげに、揺れていた。
少し離れた場所から、ヘンドリックは、その一部始終を静かに見守っていた。
もう、自分の出る幕はない。ここから先は、この地に生きる者たちが、自らの手で紡いでいくべき物語だ。
『……これでいい。あとは、こいつらの問題だ』
ヘンドリックは、小さく息を吐いた。
和平への、確かな第一歩。
だが、物語はここで終わらない。これは、人間と魔族の、長い長い新しい関係の、ほんの始まりに過ぎないのだから。




